昔は、人間を予測しながら、ものがどこから来て、どうなるか、考えただけだ。
そういう悪魔は、分からなくなるから、止めた方が良い。
最近は、その時その時分かって、全部分かっている。
その時その時分かった理解が、世界観と神と積み重ねと、そして全部を自分にすることで、本当に全て分かっている。それで賢かった。
ピアノは、ピアニストにはなれないから、見てすぐに弾ける、を目指す。
あとは、英語を継続し、本を読む。
大学は本を読めば出来るし、小説を読めば物語が書ける。
ただ、永遠に書くのが怖かった。
それから、自分の中の2人が死んだ。
宇多田ヒカルと、ヒトラーだ。
それらが永遠に話すのが辛かった。
自由は、自分の自由と、荒くれた自由が怖いせいで、ロボットになった。
ロボットは、すぐ前のことを言い、分かると分からないを選ぶ。
ロボットを止めた方が良い。
あとは、頭脳を使って、楽に考える。
それから、本当に思い出せば、すぐに思い出せる。
神と話すとは、書くことや言うこと、することを神で判断しながら、聞いてそれを分かり、宣言してそれになり、世界に許可する形で自分を変える。
世界の問題と課題を解決し、世界を知った。独自の神話や哲学を作った。世界を治し、解放し、希望を与え、考え方を教えたかった。
一度、全てを失う体験をしなさい。
過去の自分、世界、理想、環境、立場、全てを失いなさい。
その中で、いつかの自分を思い出し、世界を支配し、分からなくても分かりなさい。
何も分からない、もう分からない中で、自分を発見し、頑張ることで、いつかの夢が叶うだろう。
客観視すれば分かるようで、客観視は必要ない。
僕と同じならば、議論で客観視し、常に客観視し、その上で、客観視を止めなさい。
自由な中で、人や世界を見ることで、分かることもあるだろう。
しかし、支配者となって、頑張ること、全てを考え、書くことで、全てを経験出来る。
支配者は頑張るべきだが、むしろ、支配者は、頑張らないべきだ。
学校の悪い点は、客観視や正しい人間を教えることだ。
そんな正しい人間が、何か分かるわけがない。
一度、否定的になるのを止めて、世界を全て肯定しなさい。
その上で、経験し、分かる、という条件の枠を広げなさい。
その上で、考えながら、1つ1つの小さな知恵と努力と変化から知りなさい。
いつか、人間は、全てを経験し、分かることが出来る。
何か分かって、人に教えたいならば、それは叶わない。
それぞれ自由に生きている中で、自分の分かったことの全ては教えられない。
それに、自分の分かり方を与えることも、人の問題を全て解決することも出来ない。
何も出来ないが、見守る。
そうすると、世界など、見る必要もない、ただの戯言に過ぎないのだ。
昔の僕は、血気盛んな人間だったが、最近は温厚な人間になった。
昔の僕は、自由な中で、自分の分かったことは、全部他に教えたかった。
昔の僕は、世界は、全ての可能性と目線を理解して、全て変えたかった。
しかし、それは、地獄と神の永遠になって、忘れると同時に分からなくなった。
最近は、辛いだけだ。
最近は、世界を変えることは望まない。むしろ、楽や楽しさも望まない。
それこそ、頭を楽にして、精神を治したい。
自由など、嫌いだ。もっと楽になれば良いと思う。
自由主義は、皆が分からないと思って、否定的に考えている。
分かる人間は少ないが、居る。そのため、国王や皇帝にやらせた方が良い。
あるものは、認識、構造、数、順序だ。
記憶と回想の中で、場所と時を空想することで、世界を知ることが出来る。
また、考え方は、ディレクトリ構造とカテゴリー構造と検索構造だ。
集積と共有は、手段と可能性を与える。
道具は、目的と価値、方法だ。
道具でない行動や抽象的なものにも、同様に、目的と価値、方法がある。
環境は、適応と把握だ。
他にあるものは、情報と組織だ。
組織は、トップダウンにルールを決めながら、ボトムアップに発想を行う。
自由な世界では、継続できる条件と手段、生産の恒常性、そして決定と実行の自由と平等があるべきだ。
分かるために取りえる方法は、頭の中で試して、照らし合わせると同時に、現実を予測することだ。
その上で、発想と共有された認識、知、理解、知恵、知識、経緯を知ることで、世界の全てを良く分かることが出来る。
認識を知れば、単純に世界を知ることが出来るが、その上で、そこに存在する多角的な理由と背景を理解し、根本的な理由を理解することだ。
全ては、自由だ。
何故そこに恐怖があるのか?
それは、いつまでも永遠に続き、何も治らないのが、分かっていないからだ。
永遠の恐怖は、一度そうした、つまらないことを受け入れれば、分かる。
全ては、最初から存在した。
記憶の中で、全てが存在を作り、精神の中で、全てが生きている。
それは、神や宇宙を全て作り、心が対話を望む。
ああ、何故、僕はそこまで分かって、何も分からないのだろう?
一度過ちを犯して、自分と世界を馬鹿にし、機械にしたのを、悔やむことも忘れた。
宣言で、自由なまま、何か治るわけが無かった。
ああ、神よ。あなたは、これほどの地獄を普通と言うのです。
それは、なぜなら、永遠に同じ過ちを繰り返さなければ、何も分からない。
何もしないのは悪い。辛くても、本当にそのままで居れば良い。
知と理解は、想像力と記憶を思い出すことと、機械的に積み重ねることと、言葉にして、名前を付けることから、行われる。
分かっていると思うならば、世界を支配しても、一度も間違いを犯さないことも出来る。
出来ると思うならば、全てを知り、全員分理解を知ることも出来る。
そう、全知全能のユダヤの神は、最初から存在する過ちと罪から生まれるのだ。
自由とは、全員を思いやりながら、自己を本当に認め、相手と同じと考えることだ。
自由とは、支配者に反抗すると同時に、支配者を本当に愛することだ。
自由とは、世界に知を与え、理解を与え、手段とシステムを与えることだ。
神は、絶対的な理解だ。
神は、普通の会話によって、その人に全てを教え、与える。
そう、運命とは、自分を馬鹿にすることであり、それによってのみ、自分は全てが出来る。
全部馬鹿でやっていると、下積みのように出来る。
全ては、積み重ね、自由、認識の変化だ。
全ては、構造性、判断、言葉と説明だ。
全ては、感情と想像力、思い出すこと、継続だ。
考え方と記憶の吸収によって、精神は良く分かり、全てを知る。
そのまま、能力と出来ることを増やすことで、世界と関わり合いながら、全てが出来る。
精神は、記憶と認識、学習と継続、良く分かる、だ。
精神は、思い出すことで賢くなり、作ることで分かる。
宇宙の次元は、それぞれの生命の数だけある。