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融和するのではなく、分裂すると、頭が賢くなる。
細胞の基本は、燃焼と分裂だ。分裂するだけではなく、燃焼すると、賢くなる。
それ以上は、吸収、分解、形成、成長、そして老廃物の廃棄をする。
良く考えると、自分はホルモンがおかしい。
ただ、僕が思うに、医学的知識を考えるのではなく、科学的でない医学を考えた方が良い。
食べるものは、体に必要なものを食べる。
出すものは、体に必要なくなったものを出す。
血液は、体を形成するために必要なものを流す。
手や足、内臓などは、それ以上色んな部位に分解するのではなく、手は掴むため、足は歩くため、内臓は色んなことをしている、だと思えば良い。
そうすると、血がおかしいのは、足の怪我を治すためなのだ、と言うことが分かる。
そして、足が歩き回るのは、血を治すためだ、と言うことが分かる。
自分は、内臓的に言うと、脾臓がおかしい。血液を浄化する機能がおかしくなっている。浄化しすぎている。
自分は、昔から、そういう風に、「何も科学のことを知らずに、考え方から分かる」と言うことをする。
経済学や心理学なんか、知らない方が分かる。
テレビを見た知識で言うと、良く熟睡して、副交感神経を活発にして、ストレスホルモンを消すと血糖値が下がる。
熟睡している時に出る、デルタ波と言う脳波が、デルタパワーと言って、糖尿病に効くと、テレビで言っていた。
だが、僕は睡眠薬を飲みたいわけではない。
今日は、作業所で詩を書いたり、通信のトレースを引き続きやっている。だが、本当に疲れた。
僕は、自分のやりたいことは、やっぱり執筆だと思う。コンピュータ系の専門学校に行くとか考えたり、デザインのやる気を無くしたりして、やることを失って、何をしたいのか分からなくなったが、そんな時詩を書くと、良い詩が書ける。僕は、作家に向いていると思う。デザインの勉強も、そのためだと思えば、出来るのかもしれない。
科学の知識を知らない方が、考え方が分かることは多い。社会における自由とは、どの状態、どの状況で、どのように成り立つだろうか?宇宙の目的とは、何だろうか?四則演算の他に、演算は考えられないだろうか?並び替えや桁の足し算などが考えられる。そのように、色んな考え方が考えられる。それを、考え方と言う。昔の自分は、そういう風に、科学が分からないから、考え方を考える、と言うことが多かった。だから、大学の内容なんか、忘れた方が良い。全てのことが実験出来ることではない。それは、実験が正しい、と言うことではないのだ、と言うことをどこかで気付いている。実験でも、常識でも、経験でも考えられない領域と言うのは確かにあって、それは、「自然」であることが同時に正しさを生む、と言う意味で、人々が心の中ですでに分かっている。そういうものを、宗教と呼ぶのだとは思う。
何のためにあるのか、と言うことと、何の見え方なのか、と言うことは、人間の側にある。だが、それが本当に何であるか、と言うことは、人間の外側にある。理性と経験がどこにあるのか、から、目的や意図、そして実際や真実の在り方を考えられる。そこでは、実例が確かに実例であることは、意味をなさないし、人間と言う存在は普遍的ではない。昔は、そういうことを書いていた。可能性とは、在ることであり、一つの見方を持つことだ。実験すること、経験すること、作ることで、人は可能性を徐々に決めていくが、そこから体験の可能性が増えていくのだ。それが、宇宙の全ての在り様なのだ。
それぞれの関係性を把握して、いつどうなるかから、状況を考えなさい。そこから、実験し、推論し、思考しなさい。そうすることで、日本語だけで思弁哲学者が出来る。社会や人間のことは、その上で、ネットを見ることで分かるだろう。
必要なのは、「なぜ」と「どのように」の中で、「かもしれない」や「はずだ」と考えることだ。そして、そのことが指している意味が本当には何なのか、推論的に考えて行くと良いだろう。そこから、この世界を観察し、正しい見方で経験を知ることを、自分の心の中から学ぶことが出来る。「自分の心の中から学ぶ」と言う姿勢が、この宇宙のある意味で一つの真理であり、理想である、と言えるだろう。そうした経験と精神の現象学を、あなたにも知ってほしい。
ある意味、昔は、「人間を実験する」と言うことをやっていた。ネットを使って、相手が自分にどんなことを言うかを考えた。それは良い体験だった。そして、数学的な体得は、パソコンを「理解する」ことで知った。分かるとか、調べるとか、気付くとかではなく、「理解する」と言う立場で臨むことだ。そこから、この世界をきちんと「本当の意味で分かる」ことが出来る。信じることも重要だが、常に自分を疑いながら、その対象のことをその対象の目線で、そのままに信じるようにしなさい。そこから、知性と精神を作ることが出来る。
僕は、高級ホテルとフランス料理、そして旅行ツアーによって、金持ちやセレブからガッポリ稼いで、その金で慈善団体や環境保護団体に寄付をしたり、太陽光パネルを作ったりして、「金持ちの金を慈善事業へと変換する」と言うNPOを政府がやれば良いと思う。そういう発想も、新しい経済学だ。まあそれはどうでも良いとして、最近日本には金持ち向けの金儲けが多すぎる。どんどん無意味な世界になっている。ある意味、供給過多で滅びる、と言っていたマルクスが当たると思う。むしろ、社会所有にして平等にしなくても、自然に平等な世界になると、僕は思っている。低コストで金持ち産業並みに作ることは、可能だ。
昔は、言葉を作って分かっていた。神が怖いのは、自分で考え、判断することが怖いだけで、それが怖くなくなれば、自然に神は終わる。それで、もう解決だ。パソコンのことをしたくない、と思うのは、「ソフトウェア信仰」が終わったからだ。ソフトウェアは、複雑な手続き的手順書を書いているだけで、ただのカードだと思えば良い。本当に賢いのは、ハードウェアだ。スピーカー、ディスプレイ、CPU、プリンター、マウスなど、パソコンはハードウェアが賢い。僕は、ソフトウェア信仰をやめるなら、パソコンを毛嫌いするのも、同時に治ると思う。ソフトウェアは賢くないが、指示をきちんとするために、例えば運動会のプログラムのような、やるべきことを正確に書き表したプログラムを書いているだけに過ぎない。ソフトウェアは馬鹿ではないが、むしろ、アニメのようなものに近い。ソフトウェアは機械ではない。機械を操作する手順であり、ピアノで言えば五線譜のようなものだ。ソフトウェアは道具によって作り出される映像作品に近い。そして、それは何も賢くない。ただ、指示とは言うが、8ビット時代の単純な指示ではなくなっている。複雑に、高度に、それぞれの指示と指示が重なり合った、ありえない指示書になっている。だが、僕は、それは数式によって表される公理のようなものだと考えれば良い。高度で複雑なように見えても、それぞれの部分部分を見れば、それぞれは適切に動くようになっていて、ある種テクニックのようにコードを作っていく。まさに、パズルのようだ。原理的には道具を使って作るアニメのようなものだが、部分を見ていると数学の公式のようなものだ。あとは、慈善事業の話だが、僕は税金や会社の利益を何パーセントか、慈善事業に渡すと言うのも手だと思うし、どうせなら、カジノの売り上げを全て慈善事業に寄付すれば良い。温暖化対策でもしてくれれば、良い。
Windowsの問題は、独占や不自由ではなく、非公開だと思う。そういう、機械的手順の部分部分の部品が公開されていない。そのことによって、昔のパソコンの面白かった時代が閉ざされている。プログラミングによってパソコンのことを縦横無尽かつ自由自在に操作出来ていた時代が無くなっている。時代的問題ではなくて、公開性の問題だ。公開されていた方が、使うのが楽しいだろう。だから、オープンソースを楽しいと言うハッカーが多い。時代錯誤ではあるが、マイコン世代がLinuxを良いと言う。だが、デスクトップがお粗末だったり、業界標準のアプリケーションが無かったりはする。最初から、Windowsの代わりは目指していない。Windowsよりもっと優れた、公開されたものを目指しているのだ。
ただ、僕個人の経験から言って、Linuxは公開されているものを目指している、と言うと、ちょっと違う。むしろ、最近は、UNIXを知らない世代が、UNIXの優れた操作性を知って、便利だと思っている人間が多い。それから、何かの夢があるし、良く考えると、ネットワーク性に優れている。ネットワークで色んなことをやりたい時、コマンドやapt-getなどのツールで、何でもさっと出来る。あとは、「多様性と無料」だと思う。無料だと言うと、乞食(コジキ)のようなものを連想する人が多いかもしれないが、巨大なシステムで基盤システムは無料かつ自由かつ公開されているものの方が良い。そこから、最低限信頼性のあるものを探っていくと、Linuxになる。カスタマイズ性と多様性はオープンソースと表裏一体で、オープンであるから多様性とカスタマイズ性が高い。フリーだから色んなソフトがある。そういうところが好きな人間が多いから、公開されているのをファンが愛しているかと言うと、それはない。プログラミングなんか出来ないのに、共有するのが楽しく見えるような人間、そして、自分でもプログラミングを独学でしてみたいような人間に向いているが、それは工業大学の学生やプログラマではなく、ネットのオタクなのだ。そして、そのオタクがキモいせいで、キモく見えるが、結構、そういう風にして見ていくと、オープンソースも何も特別なものではなく、ただの機械を作っているだけだ、と言うことが良く分かる。面白いが、キモい機械だ。
パソコンは、色んなプログラムが動作する、「総合スタジオ」のような機械だと思うと良いだろう。アナログな機械と何も変わらない。だから、パソコンをやるより、アナログな機械をやった方が良い。アナログな機械を作るのが、一番賢い。最近の日本は、そこが分かっていない。平成と言う時代は、パソコンが特別だと勘違いし、非公開のソフトウェアに騙された時代だ。むしろ、金儲けが悪いから、Linuxをみんなで無料で作れば良い。無料にすると、金儲けでない分、悪くないだろう。それに、無料でないと、手軽に試すことが出来ない。無料だから、ダウンロード出来る。
僕は、もう少し、アナログな機械を知りたいと思う。あとは、関数のように、ライブラリのように、ものごと、特に社会のことを考えていたことが多かった。僕は、こう見えて、独占的ソフトウェアを否定するわけではない。マイクロソフトは、きちんと社員に金を払っているし、まともな会社の体制と組織で開発を行っている。そういう、きちんとした「金儲け」のソフトウェアも、無いと悪いだろう。標準は、そういう、まともなソフトウェアの方が良い。マイクロソフトも存在し、オープンソースも存在し、両社が互いに共存する、そういう道があるべきだと思っている。だが、そうは言っても、自分のついた方が普及して欲しいのは、矛盾はするが、仕方ない。僕はLinuxが好きだが、今のまま普及するより、もっと改善されてから、文句なしの品質になってから、普及して欲しい。あとは、アナログな機械は馬鹿ではない。きちんと、アナログな機械と資本主義社会のことを分かった方が良い。絵を描きたいのもおかしくはないが、デザインより、普通の機械を作った方が、良いだろうと思う。今日は、色々と、「自分がデザイナーに向いていないのではないか」と言うことを、思い知らされる日だった。良く考えると、物理と化学が賢い。機械とは言うが、機械自体はただ作るだけであって、原理的な物理現象が賢い。火が燃えるのから、航空機が飛ぶのまで、宇宙の原理が全て分かる。だから、物理をすると、分かるようになる。それから、医学をすると良いかもしれない。医学は、体をどうすれば正常な働きになるか、を知ることで、人間の体のことが良く分かる。完全に正常で健康的な人間は、居ない。
物理も良いのだが、数式が出てくるとやっかいだ。普通の物理現象が分かる、普通の物理学が良い。現象だけではなく、作用や法則が分かると良い。それらは、自分で作るべきだ。心理学や経済学も同じで、精神病理や経済理論は要らない。普通の心のこと、普通の社会のことを、経験から分かると良く分かる。学校の問題は、分かった方がそういう普通のことが分からなくなる。大学はおかしい。僕は、それはそれで良いとして、歴史に戻る。哲学や文学のことをもっと知って、歴史のことをやった方が良い。本当にその方が良い。パソコンは出来ないだろうが、パソコンをやるなら、もっとLinuxをやるよりも、違う分野にした方が良い。JavaやWebプログラミング、ネットワーク構築のようなことをやれば良い。Linuxはつまらない。時代錯誤のおかしな狂人に見えるから、Linuxはもう止めた方が良い。
あとは、あまり書いていないが、昔は数学的に全てのことを証明して、原理の発見すらしていた。そういうわけで、数学はもう良い。僕はあまり文学作品を読まないが、自分で詩を書くのは好きだから、それをして、文学だと言うことにする。だから、僕はそういう文芸と歴史に向いているのだ。引き続き、歴史のことをした方が良い。哲学や宗教は一通り知ったから、文化や社会、そして王や革命のことを知れば良い。人物を中心にやるのをやめて、文化や社会を中心にやると良いように思う。歴史は難しくはない。研究の対象が決まってしまえば、あとは調べて訪れたりするだけだ。
歴史はつまらないが、良く考えると、歴史を学ぶと小説が書ける。歴史的なことを書くだけではなく、歴史によってその対象が分かる。例えば、お茶の歴史を学ぶと、お茶を簡単に書くことが出来る。そういう風に書いている作家が多いのかもしれない。
昔は、科学や学問の内容を自分で作って、感覚とモデルで分かっていた。言葉を作っていた。医学のWikipediaの記事を見ていると、構造を作るのも、維持するのも、同じぐらい大切なのだ、と言うことが良く分かる。テレビを見ていると、韓国、アメリカに続いて、北朝鮮ももう終わりだと思う。僕が思うに、そのうち、安倍首相もおかしなことになる。本当に、世界がどんどん滅びていく。僕は何もしていないが、世界はどんどん馬鹿になっている。マレーシアによって北朝鮮がならず者国家なのが、世界中にどんどん判明する。アメリカが終わったように、北朝鮮も終わるのだ。
むしろ、右翼の幼稚園・小学校の話題をやっているが、これは日本もそういう風に終わると思う。終わりの時代だ。