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自由に行動する中で、方向性のようなものが見えてくる。知性から社会が分かる。
いつも、そういう、自由な中での人生現象を言っていた。
そんなに欲張らない方が良い。デザインだけをすれば良い。
だが、技術家庭科のことをすると良いだろう。
自由に色んなことをしなさい。やりたいことをすると良い。だが、常に全体を見るようにしなさい。常に方向性を見失わないようにしなさい。そして、自らが成長する方向へ進みなさい。全てが分かったら、最初に戻りなさい。
進歩のためには、新しいことをどんどん望むことも必要だが、それを心で制限しなさい。
自分のことは、みんなから見ると、「自分」と言う側面と、その「場」と言う側面で変わってくる。自分が見て、作業所の仲間だと思っている人々は、自分のことを「作業所」と言う場で考える。親は、自分のことを「息子」だと思っている。自分のことを正しく知っている人間は居ない。本当の自分が何なのかなんか、誰も知らない。そして、自分すら、未来の自分を知ることは出来ない。そういう風に世界観を考えることで、この世界も見えてくる。
それぞれの個人個人がどんな風に生きているのか、誰かが知ることは出来ない。それは、ある意味、王一人だけに頼ることは出来ないことを示している。知らなくても、関係のやり方を向上させることで、高度なシステムを作ることは出来る。だが、全体を把握する人間も居る必要がある。それを特別扱いするべきではないのだ。
だが、自分の未来は自分で作ることが出来る。自分の命は自分のものだ。未来の自分から見れば、過去の自分は有効に使えば、色んなことをやりやすくする「手段」や「ネタ」になる。だから、漠然と色んなことに手を出して、色んなことをまんべんなく知ることは、悪いことではない。だから、一つのことを続ければ、それで良いわけではないのだ。時には色んなことを沢山体験する必要もある。
ただ、狂う必要はない。辛いなら、楽をすれば良い。辛くなったなら、昔のようにしていれば良い。だが、仕方なく狂う人間も多い。昔のようにやっていると、何も出来ない人間がそうなる。そういう人間は、既に全て分かっているから、難しいことを努力で分かるようになる。狂った人間は狂っていない。おかしな人間は正常だ。
賢い人間は少ない。むしろ、居ない。出来るように見える人間は、出来てもそんなに大したことは出来ない人間が多い。
一人だけで全てを知ることは不可能だが、不可能だと思ってしまえば何も始まらない。だが、仕事における共同作業はそんなに面白いものではない。だから、オープンソースは悪くないが、逆に、ネットはもう少し共同管理的な方法を整備すべきだと思う。
子供が生まれるかどうかはほとんど偶然だが、生まれた子供はきちんと育つ。この考え方は、色んなことに言える。リーナスがLinuxを作っていなければ、Linuxは無かっただろう。だが、出来たLinuxはきちんとLinuxになる。だから、未来のことなんか、ほとんど完全に白紙だが、どんな風になっても上手くいくのだ。それが、地球と歴史の真理であり、逆に、真理ではなく、経験論である、と言うことだ。
あとは、僕は論理的に考えることが出来ていないが、むしろ、一度忘れた方が良い。論理的思考は、出来ない方が賢い人間になる。だが、そろそろ論理的に考えるしかない。機械だと思えば、良く分かるだろう。動くものが動く。動くものを作れば良い。社会も、同じように、きちんと出来る社会を作れば良い。実現のための方法を考えれば良い。それが、論理的思考だ。
例えば、自分の意見と相手の意見を見て、どちらが正しいか、何が矛盾しているのかを考える。最近、日本が分かっていないのは、ネットが意味の無いファンとアンチに分かれてどこでも戦うからだと思う。良く考えると、それぞれ、大したことは言っていないし、矛盾はしないことの方が多いのだ。それを、論理的な思考と言う。そして、可能性を考えると、どちらを本当に採用した方が良いのか、を考えることも出来る。必要なのは、逆も逆で正しい可能性があることを信じることだ。
論理的な思考が出来ない人間は、狂う。何が正しくて、何が間違っているのか、分からなくなる。そのせいで、病気のようになっているのが、トランプなどのネットの右翼だ。何故か、右翼は平等より不平等を正しいと言う。だが、不平等は論理的に考えて間違いだ。ある意味、間違いの方が可能性を高めることが、本当に多い。正しい発想と、可能性を高める発想は、逆だ。
愛は自由を高める。それだけを言っていた。
ある意味、正しいだけは生産的でない。間違った方が、社会が生産的になる。ものごとには、「可能性を禁止する問題解決」と、「可能性を高める問題解決」がある。いつも、その間違っている方を良いと言っていた。
おそらく、一つの社会をきちんと解決すると、それは統一的になる。全て同じになる。逆に、複数の社会を存在しやすくすると、それは共同体的になる。馬鹿なもので溢れる。だが、同じにしながら、部分的に多様にすることで、全ては良くなると思う。そういう発想が、僕の発想だ。同じで、自由だ。
あとは、変化や因果性を数学的、論理的に考えていた。何が出来るか、を何が必要か、にはめこんで、それを出来るためにどうすれば良いかを考えた。そういう発想を、論理的思考と言う。だから、昔の哲学者をやるのは、難しくはない。
出来ることを増やしながら、社会の実現性を高め、それぞれにその選択肢を与え、それぞれが自分の思いをくみ取ることが出来るようにする。ただ、そういう発想は、右翼だ。
この番組を見て、ストレッチをして血行が良くなった。血が流れないのが治った。
http://www9.nhk.or.jp/gatten/articles/20170208/index.html
自分は、辛くて出来なかった辛いことをするのが怖いだけで、それはすでに楽になっているから、怖くない。辛かったのは、戦争の前を思い出すと、Linuxの精神病が悪いが、それは、剣道部の持久走で、長い階段を上って、フルマラソンのような「最高に辛いこと」が楽しかったのが悪い。それは元をたどれば、小学校で駅伝で走っていたこと、それより前に水泳の潜水が好きだったこと、そして、幼児時代にお母さんと布団で寝て、息が苦しくても布団にもぐっていたのが悪い。それから、ゲームのせいで、昔から自分は超賢いが、こんな賢い子供は居ない。この地域に特有のこととして、みんなゲームが好きで、みんなで遊んでいたが、それは僕の家に招いた友人たちにたくさんゲームをさせていたからだ。僕がゲームを広めた張本人で、そして、ゲームしか引き篭もりにならない。ゲームで友達と遊ぶのが、そのままネットで友達と遊ぶようになり、匿名掲示板が神との対話を生み出す。あとは、昔は、意識の回想で昔の子供時代のことを思い出したり、自立したりして分かっていた。これこそ、僕だ。もう、終わりだ。あとは、もう辛くなくなった辛いことをすれば、血も治るだろう。
理屈と仕組みが分かったら、次は構造と具体例だ。昔は、そういう方法的考え方を書いていた。自分は、「きちんと分かってから次に進む」と言う基本が出来ていない。それをきちんとすると良いだろう。自我流でやるのは良いが、周りが見えていないし、慎重になるべきところで前に出過ぎる。それを止めた方が良い。