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昔は、会社ではない自由な労働の可能性を考えていた。
文章は、行動や世界の広がり、人生の段階を書いていた。何をどのように分かっていき、知っていき、気付いていくか、のような段階を書く。
僕は、もっと正気に戻った方が良い。
分からないのは、催眠にかかっているからだ。精神分析が悪い。
正気に戻れば良い。
自分は、書かないと面白いことがないから、書いている。むしろ、治るわけがないどころか、治りたくない。治るのは、怖い。
日本が賢いのは、良いことをしてくれた人間にはきちんと代償を与え、悪いものは処罰する、と言うところがきちんとしているからだ。
学校のいじめのような問題は、教育倫理的なことを裁く、専門の裁判所を作れば良い。
オープンソースを間違っているとは言うが、分かる人間がソフトウェアなんか、誰でも作れる。手続き的な手順を書けば良いだけだ。最初に作るのが難しいから、みんなで作ったものを共有する。パクリを悪いとは言うが、PHPはパクリながら賢くなっている。そういうものを、目指しているだけだ。それに、趣味でやっている。きちんと対価を払いたいなら、公務員に開発させれば良いだけだ。
あとは、何をすればどうなるか、のような因果性から、構造的な社会モデルを作るような、そういう発想が多かった。
それこそ、専門のプログラマなんか、コードのネタがたくさんあるだけだ。ネットにいくらでもあるから、ネットをコピーして作っている人間しか居ない。そもそもが、プログラマなんか要らない。Windowsを最初に作るのだけが難しい。
パソコンを考えると、ファイルマネージャをGUIと統合するデスクトップが多いが、僕はそれを変えても良いと思う。Webと統合すれば良い。昔、Windowsがやっていた。Webやコマンドのシェルと統合して、「ページ的デスクトップ環境」を作るのも悪くないと思う。全てを操作出来るシェルとしてのデスクトップだ。
ある意味、GUIをファイルマネージャでないものにするだけで、出来ることが格段に広がる。URLを変更して、色んなページを表示することが出来るようにすれば良い。だが、それは、昔Windowsがやっていたが、あまり面白くなかった。
ある意味、Vistaがやっていた「ウィジェット」も良く似ているし、Windows 8が導入したタイル型も良く似ている。ページのようにすると、AndroidやiOSとも良く似ている。会社がGUIを考えると、そういうものになる。マイクロソフトは、そういうところを考えているだけで、何も考えていない。オープンソースの方も、最近はまだ考えている方だ。
ある意味、「全てのウィンドウをタブブラウザにする」と言うことは出来るかもしれない。だが、僕が思うに、そんな風に変えるぐらいなら、Windows 95を使い続けた方がマシだ。95が一番普通だった。アラン・ケイとMacが賢かったのだと思う。
ただのWindows 95を模倣するだけの、「Open95」と言うデスクトップ環境を作ると、流行るかもしれない。
ビル・ゲイツを色々と馬鹿だとは言うが、Windows 95が一番賢かった。それだけは変わらないだろう。
パソコンは、事務用品、アニメ閲覧機、コミュニケーションツール、そして情報端末だ。それらが好きでないなら、やめた方が良い。僕は、そういうものが一番嫌いだ。最近は、デザインをしているが、良く考えると、単純なのに賢いところが賢い。シンプルだから、Windowsをコンピュータだと思わない方が良い。もっと単純で、もっとシンプルなものが、本来のコンピュータだ。
要は、オープンソースやWindowsが馬鹿なのは、アラン・ケイの思想が分かっていない。もう少し、アラン・ケイの思想や哲学を考えた方が良い。LinuxはやけにUNIXに忠実だが、GUIは出来損ないだ。アラン・ケイが何を目指しているのかを知らないから、そういうことになる。ただ、僕も知らないから、あまり大きな声では言えない。僕としては、もっと自然でナチュラルなデスクトップ環境を作れば良いと思っている。
明らかに、Macはジョブズが分かっているが、ジョブズが死んだせいで、そのうち馬鹿なものになる。だが、Macはアラン・ケイ以上にきちんと考えている。そういうわけで、MacのGUIがやけに賢い。アップルは唯一かっこいいものが作れる。
どこかの大学や企業の研究所に、アラン・ケイを再度考える部署を作って、その研究所がLinuxのGUI設計をすれば良い。それで良いものが作れる。だが、それはやけにオープンソース的でない。だから、オープンソースにも限界があるように思う。
オープンソースは、個人の成果の積み重ねによる、ダイナミックな開発は出来るかもしれない。だが、大規模な研究や全体の統合された設計は出来ない。だから、オープンソースは賢くない。それをするとしたら、どうすれば良いのか、考えた方が良い。
Windowsが賢く見えたのは、アラン・ケイの実装の一つだから賢く見えただけだ。UNIXと同じだ。だから、アラン・ケイが賢いだけで、他の人間は賢くない。最近のバージョンは、安定化はしたが、新しいものになるわけが無い。
僕は分かっていないから、本当はどこが始まりで、誰がGUIを考えたのか、分からない。アラン・ケイではないかもしれない。Lisaはアップルが作ったが、元々はXeroxのパロアルト研究所が作っていたはずだ。
良く考えると、オープンソース陣営は最近、アラン・ケイの焼き直しが一番多い。特に、UbuntuのUnityが「ユーザー・インターフェースの再考」をやっている。だが、賢くなるように見えない。本当に、オブジェクトやワークスペースではない考え方をするしかない。それが出来ないから、最近のWindows以降のIT技術は、今一つパッとしないのだ。アラン・ケイだけが賢い。
オープンソース陣営は、アラン・ケイのようなことをもう一度やるしかない。それなら、オープンソースで良く見える。
自分がおかしいのは、自分に良いことを言って、嬉しく思わないからだ。自分が悪いような気がしてしまう。
最近のアメリカは、平等や理想と言う発想がない。平等や理想ではなく、真実や事実を取ろうとする。理想がウソに見えてしまう。それは、ある意味、理想をもっと正しい形でみんなの手で作れば良い。極右思想は、そういう風に発生しているから、いくらでも嘘や非常識を言う。
良く考えると、民主主義や資本主義が強かったのは、ただアメリカが強かっただけだ。トランプで、それは終わりになるだろう。昔は、特性や原因と結果のような、関係的なものごとの知性とプロセスを書いていた。それを考えれば良い。あとは、社会的な成り立ちのようなことも、同時に考えた方が良い。それで、分かる。パソコンは、HTMLのように、リンクと画面幅に合わせるデザインをすれば、SVGのような高度なグラフィックスでも、Webと同じものは作れると思う。昔は、知性を減らしながら、構造的に、大量に文章を量産していた。そういう、おかしな文章を書いている。脳は、怖くないのが悪い。普通、脳は、怖いことは出来ない。怖くないのをやめれば、脳は楽になる。僕は、永久に覚えることが無いのがおかしい。誰でも、きちんと覚えないと分からない。きちんと覚えた方が良い。それから、僕のことを神だと言っている人間が多いが、僕は神ではない。僕は人間だ。一度、そういうことをはっきりと分からせる出来事をしたい。多様性と統一は、むしろ、あっても無くても良い。ツイッターが統一されているのは良いし、ブログがAmebaとはてなに分かれているのも良い。ある意味、多様性のある社会、統一された社会、などの多様性があった方が良い。多様か統一かが違う可能性もあるべきだし、そこでは、まるで一つしかその世界が無かったようにすべきでもある。僕は、前々から生物学をやりたいと言っているが、むしろ、今では、法律と医学のことをやりたい。僕は、人体の構造に興味がある。そして、法律は、憲法のことをやりたい。社会のことをきちんと分かりたいと、いつも思っている。むしろ、昔のアメリカは良かった。オープンソース的に言えば、「OpenUSA」が必要だろう。昔のアメリカや日本が中心となって作った工業製品は、本当に良い家電が多かった。
僕が思うに、給与と会社の自由はあるべきだが、それはプロファイルを作れば良いと思う。工業プロファイルの会社、農業プロファイルの会社、サービスプロファイルの会社、広告プロファイルの会社を作って、プロファイルに応じて自由な給与を与え、それぞれの多様な会社を作る。自由は疎外しないが、基本的に平等にし、悪いことをした時は罰則を決める。そういう風にして、平等にすることは出来る。
昔は、色んな概念をバラバラのパーツにして、それを考え方として組み合わせるような、「パーツを組み立てる文章」を良く書いていた。僕は、医学の勉強をしようと思う。それも、人体の働きを知りたい。人体のことを知れば、自分のことが分かる。僕は、ただ自分のことを知りたいだけだ。見ていると、憲法の解説はつまらないが、人体の解説は良く分かる。あとは、むしろ、「OpenNation」が必要だと思う。オープンに、みんなのことをみんなで決める。オープン政府と言う発想をすれば良い。
ある意味、民主主義や社会主義の次に来る思想は、僕は「オープン」だと思う。それこそ、北欧では、税金が高い代わり、医療や教育は無料らしい。そういう風に、無料にしながら、みんながみんなのものをみんなで作るような、自由な発想が良い。それが、ネット時代の次に来る思想だと、僕は思っている。みんなの権利と能力が、各段に高くなった、そういう社会だ。
医学は治るだけ、とは言うが、治るのは結構賢い。治ると、正常に働いているのが、人間だ。それから、病気を分かる意味が無いとは言うが、病気を分かると、人間の死が分かる。どんな栄養が良くて、どんな生活を送るべきなのかが分かる。それは、人生と毎日のことが良く分かる。
昔は、町のデザインを公募で決めれば良いと言っていたが、僕は、会社の事業のようなことも、全部公募で決めれば良いと思う。本当に良いアイディアなら、みんなで決めて、みんなでやる。やり方は別の人間が決める。そういう風にすることで、最大限のやることを全部やる。要らないものはすぐに消す。あまり意味が無いが、昔は、そういう、「どういう風に実現するか」のようなことを良く書いていた。それで、歴史のようなことを改善の積み重ねだと、良く言っていた。
自由とは、存在の存在性を高めることだ。愛とは、相手をどうであるかではなく、どう出来るかと考えることだ。人々は、運命の中で、右往左往するものだ。考え方とは、自由の中で平和な考え方と、システムの自然を自由にすることだ。そういう風に、「全ての論理を全ての論理で考える」ような、「関数」のような文章を書いていた。斜め上から世界を支配し、導いて、意識と人格の全てを書いていたが、馬鹿に一人だけでおかしくなっていた。賢くはないが、ウィトゲンシュタインの文章と良く似ている。
あとは、社会を成り立たせていた。ありえない社会のようなものを、自由に成り立たせる。メタや多様性のようなものを作る。例えば、僕は、これから先、儲からない産業は公務員化すると思う。公社にして、税金で成り立たせる。オープンソースだけではなく、ネットに記事を奪われるマスコミのジャーナリストや、著作権侵害が著しい歌手のような、「今までは賢かったが、ネットの出現によって儲かる手段を失った業界」が、どんどん公務員化を余儀なくされるだろう。JRの赤字路線のように、公務員(国営)にならなくてはならない産業も出てくる。社会の多様化とともに、儲かる産業だけが残れば良い時代はもう終わった。ここからは、儲からないが社会に必要な産業や業界を、どう、生かしていくか、と言うところだと思う。あとは、そろそろ何かが死んだ。精神が死んでいる。死んだ先は天国で、猫が居るはずだ。