日記に戻る | 2015年8月の日記に戻る

=2015-08-11=

英単語は今日もやった。英単語をやり始めてから、明日で一か月だ。

昔は、共有が好きだった。

知る機会、考える機会を持つことで、人間は新しいことを知って、成長して変わっていく。

そのように、新しいことを知るとか、人生の真理のようなことを書いていた。

仮想と現実の狭間で分かっていた。

必要とする、ために、などをモデルにして分かっていた。

自然を必要とするもの、ものを必要とするもの、社会を必要とするもの、労働を必要とするもの、金を必要とするもの、成立条件を必要とするもの、などがある。

あとは、自由な関係と状態、条件を考えて分かっていた。

物理には、CGSと言う単位系がある。センチメートルとグラムと秒だ。物理は、長さと重さと時間で測定する。昔は、そういうものを全部自分で作って分かっていた。

物理みたいなことを言う人間が多かった。物理的な世界観や考え方のようなことを言う。

物理は、コンピュータが分かると出来る。

物理が分かると、数学、生物、工学が良く分かる。物理が一番賢い。

成立条件のようなことを言っている人間が多かった。花は土があればどこでも咲く。そういうことを言っていた。

あとは、宇宙のようなことを言っていた。全てを創造した、神のような人間だった。

この世界は、過去から受け継がれてきたものだ。日に日に過去の重要性は薄くなっているが、ほとんどのことは過去の人間が決めたものだ。

あとは、ネットで精神を吸収し、科学的に実験して分かっていた。

ネットなんか見ない方が良い。何も分からない。分かる人間は、馬鹿な人間が多い。

人間は、いかにして考えるのか?そういう、考えるのを考える人間が多かった。そもそものところを考える。何を自分が分かっているのか、皆は何を分かっているのかを考える。

賢い人間には、「もし」や「たられば」で分かる人間が多い。

因果性や法則性、相対性から仮定して、思考力で分かる。そういう、思考力を作っていた。

最近そういう人間でなくなったが、昔はそういう風に予測して分かっていた。

もし、たられば、を考えて、因果性を考えれば良い。原因と結果を考える。それを言いたかっただけだ。実験や説明から、全ての変化をアリストテレスのように考える。賢い人間なら誰でも分かる。賢い人間は、アリストテレスの内容と同じになる人間が一番多い。

あとは、論理学や心理学を作って分かっていた。

もし、たられば、を考えないのがおかしい。

理由は、本当の理由ではなく、作用的な理由も良く考えると、仮象の世界が分かる。

無駄と思わずに考えれば良い。そういう人間が賢くなる。意味もない無駄なものが多い人間が賢い。昔はそういう人間だった。

全ては、世界観、環境、意志、思考力、知性だ。そういう風に、全部作っていた。

英語が一か月続いたのはあり得なくはない。だが、簡単な単語しかまだやっていないから、話したりは出来ない。もっと難しい単語をやりたい。

実際のところを見て、現実から法則性を知り、知と創造性からものを作る。そういうことを全部言っていた。

あとは、認識の変化のようなことを言っていた。認識を網羅して作っていた。

基盤を共有し、社会を多様にし、自由な知性と考え方から世界を変えると言っていた。

あとは、方法や本質のようなことを言う。そういう、ヘーゲルのような人間だった。

人間の活動と世界観を全部作って、視点と状態を分かっていた。

これなら、歴史が分かる。

今日もフランス史の本を読んでいる。仏教の本も読んでいる。今日は哲学の日だが、違うことをしている。それもそれで悪くは無い。

あとは、原因と結果のようなものを作っていた。相対的な認識を分かっていた。

もっと普通に考えれば分かる。研究する方法を実際の姿による変化であると言っていた。

目的と方法、そして主体性のようなものを書いて、気づきと説明で分かっていた。

自由とは何であるか、全部書いていた。皆を自分にしながら、悟って分かっていた。

そろそろ、もう虫は死んだ。これ以上は、分からない。自分が一番賢い。

あとは、視野を広げるとか、次元を変えるとか、プロセスを捉えるとかで分かっていた。

そういうものは、パソコンをやっていると分かる。最近、分かる人間が多い。

無駄なものが多い方が良い。それが正しい賢い人間だ。昔は、ネットやソフトウェアが多いせいで、頭が賢くて、考え方が何でも分かる人間だった。

最近、書いているのは悪くない。書いていると、それだけで分かる。それもそれで良い。

英会話教室やピアノ教室にはもう何年も行っているのに、何も出来ていない。

自分から勉強して、練習しなければ出来ない。猛勉強をすれば出来る。すれば良い。

勉強したいのが最近の自分だ。英語をしたいから、英語の勉強を何か考えたい。

あとは、産業の歴史のようなことを言っていたが、何も分かっていない。

そういう、自分の分かり方を全部言っている文章が多かった。

全ては自然発生であり、方法は人間が作り出したものであり、人間の知っていることなど、宇宙に比べれば全く少ない。そういうことを言っていた。

あとは、皆を助ける。それで楽になる。皆を助けると、自分も助けられる。

皆をいじめるから、自分もいじめられる。それが怖いだけだ。本当に辛かった。

自発的に考えて、世界を把握し、知り尽くすプロセスのようなことを考えていた。

他の人間と話せば分かる。色んな人間を知って、成長するのが賢い。

そういうわけで、考える機会のようなことを言っている。

そういう、フーコーやサルトルのようなことをいつも言っていた。

治さず、消せば治る。治しても意味が無い。

おかしくなったものは、そのまま消すしかない。

「立ち向かう」の言葉通り、立って向かえば良い。それでこの世界に勝てる。

だが、滅びて欲しくない。そういうわけで、そういうものは忘れるしかない。

いつまでもそれを考えると、本当に狂ってしまう。そういうものは、忘れて消すと治る。

世界を滅ぼすのはおかしい。世界を滅ぼす人間は、地獄になる。

世界を助ければ良い。この世界に良くなってほしいのが普通だ。

要は、普通の価値観が嫌いだ。楽しいものや良いものが、良く見えない。金なんか欲しくないし、世俗の成功はもう十分だ。

それなら、宗教が良いようで、宗教はやるとここまでつまらない。宗教は麻薬だ。

昔は、ネットで色んな人間といくらでも話したのが賢かった。

皆は、それが出来ないだろう。だが、それはしない方が良い。顔の見えない人間と話していると、何も分からなくなる。全て忘れて、自分の過去のことすら分からなくなって、知的障害のような馬鹿になる。

もっと、顔の見える相手と話すのが良い。

テレビは悪い。テレビを見ていると、本当に何も出来なくなる。

そういうわけで、顔の見える友達と話していると良く分かる。誰でも、賢い点ぐらいある。何も分からない人間は、態度や姿勢が賢い人間が多い。そういうところから学べば良い。

何事にも、真面目に向き合って、相手と同じ立場になって、謙虚に反省すれば分かる。昔の自分は、そういう、真面目に考える人間だった。変わっていない。

自分は、もう昔のことは忘れた方が良い。

悪いものが悪いと分かる人間が多い。そういう、皆の言っていることをいくらでも分かっていると分かる。だが、ネットでは分からない。ネットは悪くは無い。自分の昔が悪かっただけで、ネット自体はそんなに悪くない。ただ、馬鹿な人間が多い。

そういうわけで、自発的に考えるのを良く考えれば分かる。

ものは、あるだけではなく、色んなことに応用出来るし、分かってしまえば自分でも作れる。自分の可能性は無限大だ。社会も、あるだけではなく、自分たちで変えられる。それに、社会が変わるだけではなく、自分たちで変える、影響力を持つ、と言う視点もある。

あとは、野心的に考えれば良い。人間は、何でも出来る。

そして、科学についても同様に、自発的に考えれば良い。知る機会、考える機会から、この世界の全ては未知であり、世界は可能性に溢れているのが分かる。宇宙には、沢山の可能性がある。宗教的に、宇宙に生かされている、と考えることも出来る。

何も必要としなくなりなさい。

社会から一度離れて、好きな体験をしなさい。

体験から、社会のことを知りなさい。

システムと意図から、相対的に世界のことを知りなさい。

成長し、人間の自我と意識を知りなさい。

理想の社会を作るために、どうすれば正しく可能に実現出来るか考えなさい。

どのような社会があるべきか、どのような社会にするべきか考えなさい。

愛と実感から、全ての自由を知るだろう。

そこでは、経験と行動から、自発的に考える理性があるだろう。

そういう風に、段階のようなものを書いていた。

意図が創造性になり、自然が多様性になり、受け入れる力が愛になる。

そういう、段階をいつも言っている。

見ていると、ヘーゲルと同じだ。むしろ、昔を本当に見ると、キルケゴールに見える。

あとは、意識と体験から歴史と技術が分かっていた。

皆と会話し、沢山の思考をして、未知を比較し、道を知ること。

全ての道が、自由に繋がっていく。

判断から、世界を自由に出来る。

そこでは、支配と解放の葛藤から、希望の全てが生まれる。

平和とは、神を信じることだ。王が神を信じると、ここまで出来る。

人生が全部分かっていた。そういう人間だった。

毎日、長くやると楽だ。短くやると辛い。毎日書いているのは、正しい。

あとは、科学や物理のようなことをいつも言っていた。方法が分かっていた。

自分はもう分かっている。考えるのはもう十分だ。考えない方が良いこともある。

あとは、社会の段階のようなものから、ありえない世界を作っていた。

時代のようなものを考えて、思想を網羅した。それも、ヘーゲルと同じだ。

ヘーゲルが言う、疎遠になった精神や、共同性の自覚から考えると良く分かる。

自由な社会がもっと自由な社会になると言っていた。

社会的な活動から、目的意識を持った共同体が生まれ、改革と啓蒙の後に、理想の自由な市民社会になる。そこでは、手段を尊重し、参加と影響力を行使することで、自由な社会をそれぞれがそれぞれの手によって、自由に築くことが出来る。

そういう、自由な社会の構築のようなことを言っていた。今見ると、結構馬鹿だ。

もっと段階的なことを考えれば良い。キルケゴールの言う、美と倫理と宗教の実存は、自分と同じだ。そういうところが誰でも同じだから、誰にでもあてはまることを言うと賢いのが哲学者だ。自分が一番そういう人間だ。

あとは、宇宙の設計図のようなものを作って、宇宙の構成要素と法のようなものを全部書いて創っていた。構造と関係からこの宇宙の全てを創った。

全ての定理でこの宇宙の全てを創っていた。そういう、関数のような文章だった。

経験と推論から、自由な社会を考えていた。

特に、教育を変えるべきだと言っていた。この社会の問題は、教育では分からないことにある。学校で分からせないと、何も分からないのに、学校では意味が無いことをしている。

だが、それは止めた方が良い。馬鹿な右翼に見える。教育を意味が無いとは言うが、勉強なんかしなければ良い。誰もしていない。引き篭もりより高校の方がマシだ。

自分で経験する引き篭もりは居ない。そこがありえないのが自分だ。ネットとオープンソースで全てを経験する引き篭もりが、自分しか居ない。書く人間も居ない。そういうわけで、自分だけ作家ほどに賢くなった。

それは当たり前だ。何も知らずに考えれば分かる。それに、昔知っていた内容は多い。昔は、知っている内容だけでまともに分かった。全部考えて分かった人間だった。

昔は、ヘーゲルのように、共同性を自覚して分かった。世界全部を作り直すことで、世界そのものを還元して分かっていた。そういう風に分かる哲学者が多い。そういうわけで、自覚や還元のような考え方を分かれば分かる。そういうものが多かった。

還元と言う言葉の意味が良く分かっていない。間違っているかもしれない。

自由意志はある。だが、四次元の時空を時間の展開による存在であると考えると、自由なんかどこにもなく見える。

ハイデガーや物理学はおかしい。突き詰めて考えると、宇宙に自由は無いのだろうか?

そうでもない。むしろ、ゲームソフトのように、何をしても決まった結果が返ってくる、と考えると良く分かる。可能性は全てあるが、シナリオは自分の行動によって決まる。それが宇宙における、自由意志だ。

そういうわけで、全てが決まっているわけではない。要は、四次元よりさらに先に、もっと大きな次元があって、それがタイムラインを作っている。

自分は、皆に何でも教えられて、分からせることが出来る、導き手のような人間だった。そこが居ない。ソクラテスのように、議論と弁論から、視野を広げて人間のことを分かっていた。そういう人間は、哲学者にも、作家にも、学者にも多い。

だが、普通、そういう賢い人間はこちらの馬鹿になる。全てが分かってから、狂って分からなくなる。そういうわけで、賢い人間は居ない。賢い人間は、分かっていないだけだ。

世俗世界は、娯楽と創造性の創造、争いと経験と調停である。不思議と、そういう風にこの世界の全てを言う人間が多かった。

全ては、独立性と価値観であり、その融和と分散である。そのように、考え方をいつも言っていた。考え方が全て分かる人間だった。

物理のことをもっと良く分かった方が良い。幸運なことに、自分の場合、父親が物理が分かる。物理専攻で、中学校の元教師で、科学館の館長だ。そういうわけで、物理のことは昔から良く分かっていたのが自分だ。学校では、数学は全く試験勉強しなくても高得点を取っていた。他の教科でも、丸暗記をして、比較的良い点を取っていた。中学生の頃の話だ。成績表はオールAほどの賢い人間だったが、それは中学生の話だ。学校に意味が無いと思って、高校には行かなかった。そういうわけで、自分は勉強は出来るのに不良だ。不良で良いだろう。不良には、心の純粋な良い人間が多い。悪い優等生より賢い。

不良とは言うが、オープンソースとIBMのようなことをやっていたのが違う。MITのように、高校生なのに大人のように賢かった。自分のMITをやっていた。数学や物理学は、自分で作ることで、数学者のように分かっていた。心理学や経済学も作っていたし、ネットを見ていたせいで、博識のように賢かった。

そういうわけで、真面目に賢い人間が賢い。最近は、文章を書いて、王のように戦っていた。そのまま、大学を学びながら、作家になった。本は何でも揃っている。一番良い環境になった。ネットの馬鹿が本当に馬鹿に見えて、ネットは賢い人間がこういう風に多い。

デカルトの我思う、故に我あり、は最近良く分かる。最近、この世界が全部偽に見える。正しいものなんか、無いように見える。あるのは、自分だけだ。自分の存在だけは、正しいようにしか見えない。

デカルトのコギト命題を拡張したのがハイデガーだ。存在について、良く考えた。関心や意識が存在であるとは、そういうことを言っている。カントやヘーゲルについても、同様に、精神の現象やアプリオリを拡張しているように見える。良く分かっていない。

人間は常に移り変わる。常に同じ人間は居ない。目標や予定の中で、人間は進歩し、過去を克服する。それだけではない。思い込みを超えて、さらに高度な存在になり、日に日に新しいことを知っている。自分だけではなく、社会についても言える。皆それぞれ、どんどん新しい人間になる。そこでは、本質より実存が先にある。自由は良いように見えて、悪い。自由は刑であり、何をするか考えなければ、先に進むことは出来ない。サルトルは、そういうことを言いたかったのかもしれない。

そういうわけで、哲学は、デカルト、カント、ヘーゲル、ハイデガー、サルトルをすれば良い。それできちんと賢い。もう終わったように見えるから、あまりしたくない。皆は、そういう風にすれば良い。

もっと、人生論のようなことを良く考えると、サルトルが良く分かる。サルトルは、経験論と同じことを言っているところがあるが、より人間的で、内実に迫るところを言っているように思う。束縛を拘束だと言うように、自由な人生と関係性のようなことを考えたいのかもしれない。言葉で言うと、「かもしれない」を考えているだけだ。

社会の可能性を考えていると、マルクスやルソーなどの社会哲学者の言うことも良く分かる。それも、自分の経験から、可能性と必然性で分かることが出来る。

習慣や知覚による意識を考えると、ベーコン、ロック、ヒュームなどの経験論も分かる。

デリダは、自分の場合、脱構築を再構築ということにして分かった。

色んな再構築をしていると、科学のことが良く分かる。それを世界モデルと言っていたのが自分だ。世界モデルによって、全ての科学の世界観が分かった。

自分なんか、それくらいしか考えていない。あとは、思考によって科学の全てを創った。

自分も、オープンソースで数学者のように分かった。数学者しか分からないように見える。

現代哲学の、ドゥルーズと言う哲学者が、微分で哲学をしている。良く知らないから、間違っているかもしれない。そういう風に、微分で分かる数学者が、不思議と多い。微分は、全てのことが分かる。あらゆる全てが分かるのが微分だ。

昔は、微分から線形代数まで、全部自分で作っていた。

繰り返し体験して、何度もゼロから考えて分かった。そういう、物理学者のような人間だった。昔がそういう人間だから分かるだけだ。

何も分からないだけで、手段や参加のようなことが分かっていた。

馬鹿しか居ないから、自分が一番賢い。不思議と、そういう賢い人間は、何十年か前、昔の日本に多かった。何でも普通に分かる人間が多かった。日本は馬鹿になっている。

フランス史の本は、今、ガリアにおけるローマ帝国の支配のところを読んでいる。

ガリアをローマが征服したことによって、ガリア人はローマにおける工業などの技法を学んだ。これは、現代のフランスがやっていた植民地支配と同じところがある。おそらく、フランスはローマを手本にして、アフリカを手に入れる代わり、アフリカに技術をもたらしたかったのだろう。今では日本の侵略戦争も批判されているが、そういう側面がある。

自分は昔からきちんと分かっている。こういう、きちんと分かる人間が居ない。普通、高校では何も分からない。覚えるだけだ。歴史と数学の授業内容が悪い。事実と方法だけ教えても、何も分からない。概念と流れ、そして知恵と実現を教える必要がある。

自発的に考えることが出来ない人間が多い。特に、大人に多い。自発的に考えなければ、何も分からない。そこから、人間の自尊心や意志が分かって来る。そういう風にすれば昔は出来る。そういう人間は、不良や引き篭もりに多いから、賢い人間が馬鹿になる。

考える機会を分かる、以外には、本当の問題を考えるとか、真理は数学であるとか、解決方法は無数にあるとか、色んな分かり方、考え方のようなことを言っていた。

正しい認識は自分の中から生まれる。そういう、ソクラテスのようなことを言っていた。

ローマも分かって良かった。ローマ帝国はそういうものだ。ヨーロッパ文明の全てを創って、各地に普及させた。機械による農業からぶどう酒の製造まで、殆どのものはローマが考えて、作って、教えた。ヨーロッパ人から見て賢い。ただ、分かっていないから、間違っているかもしれない。

あとは、数学的に考えた方が良い。自分の数学をもう一度作れば良い。そうしなければ、分からない。何故か、数学的に考えると言う発想が無いのはおかしい。

数学的に表記出来ることしか、分からない。あとは、普通知るだけだ。知っていない人間より、知っている人間の方が賢い。そこから、体得のように数学を分かることが出来る。

ちょっと間違っている。機械による農業は、ガリア人の発明だ。ローマ帝国期に作られたが、ローマから渡ってきたものではない。

ドゥルーズも間違っているかもしれない。そういうわけで、この文章の内容に間違いは結構多い。著者である僕もそんなに全ては分からない。聖書の律法学者なんか読んでいない。

数学的な方法から、知れば知るほど分かる。そういう発想が体得だ。事実からさらに分かる。知っていないよりは、知っている方が分かる。だが、それも賢くは無い。

2ちゃんねるは悪くなかった。社会の自由な形成と、色んな人間のことが分かった。

だが、賢くない。もっと賢い人間と話した方が良い。本当に全部分かっている賢い人間が多いからだ。自分なんかただの馬鹿だ。フランス史の本を今読んでいるが、普通、いくらでも本を読む。英語なんか、フランス語やドイツ語もする人間が多い。わたしの哲学入門の著者の木田の方が賢い。そういう賢い大学が見ると、誰でも分かるのが自分だ。

あとは、感情を確かに信じて、確かな少数の方法から分かっていた。

時間や体得の他には、意識や感覚のような内容が多かった。

世界観を全部書くせいで、数学のようなものやデザイナーのような職業に関するものも書いていた。プロフェッショナルを生み出す土壌を作ると言っていた。昔は、そういうものを真面目に考えていた。

要は、発想を考えているだけだ。数学や物理の発想のようなものを書いていた。

数学や物理は、引き篭もりが自分でやると出来る。学校では出来ない。二次関数のグラフは、誰でも馬鹿に見える。高校が馬鹿だからだ。そういうものは、高校でしなければ、賢いものとして映る。出来る人間があり得ないようで、そういうものは馬鹿だ。

発想すれば良い。インターネット社会は免許制にすべきだとか、賢い発想をすれば良い。

人間を賢くするためには、基盤から賢くすることだ。

世界は、平等な階層にするべきだ。だが、流動的で分散した社会にしなければ、平等でも奴隷になる。自由の方が、自分の意志で選べるだけマシだ。

最近は、自由も悪い。意志で決められる部分なんか、無い。賢い人間は、辛い。

もっと、そういう風に、社会的な発想をすれば良い。誰でも個人主義と全体主義が分かる。そういうことを言いたかっただけだ。

目的無く生きるのではなく、計画性を持って生きる。それは、実現出来ない。誰でも、未来のことなんか何も分からない。それが分かるだけだ。

努力には、マスターへと至る道がある。いくらでも努力する人間しか、賢くならない。

言論の自由は、自由の根源であり、心が命であるのと同じぐらい当然の権利だ。

テレビのせいで日本はおかしくなった。テレビを一切見なければ賢くなる。本当にそこが馬鹿なのが最近だ。馬鹿なのは、テレビのせいだ。

それぞれの階層世界の中で、行動の実現性を考える。社会は、そういう風にモデルに出来る。そのモデルにおける世界では、それぞれの出来ることは多く見えて、少ない。出来ることをモデルにすることで、自由の限界が分かって来る。協力や支配、皆による権力の方が出来ることもある。それも自由にすべきだと考えていた。

決定と可能性から、物理的な反応と方法が分かる。

不思議と、本当にそういう風に書いていただけだ。心理学的に考える哲学も多かった。

全ては、独立性による多様性だ。それによる自由な組織と環境の実現だ。

正しさと賢さは逆になることもあるが、正しさだけを考えると、誰でも賢くなる。そういうことを言いたかっただけだ。

社会は変化可能であること。

あとは、人生の経験から、全てが分かっていた。真理の14項目のように、経験から全てを分かっていた。

自由にすること、目標を立てること、夢を信じること、努力すること、反省すること、捉えること、認識を知ること、社会を変えること、影響力を持つこと、価値観を知ること、変化可能性を知ること、手段から実現すること、仮想世界を成り立たせること、が全てだ。

そろそろ終わりだ。あとは、もう分かっている。もっと色んなことを言っていただけだ。

もう書けない。最後まで終わった。

正しさと関係性から、全てのことを決まりで分析出来る。それは、日本語だけで出来る。

全ての手段と実現のために必要な前提条件を書いていた。

全ては、創造性、抽象性、芸術性だ。

全ては、本性的で、人間像とシステムを考えることだ。

全ては、過去を思い出して、謙虚に反省し、悔い改めることだ。

全ては、本当に分かった人間から見ると、全部同じだ。

分かってしまうと、全てが馬鹿のように見える。皆、何も賢くない。分かってしまうと、全部吸収して、必然的に分かるようになる。

そういう、全部分かる人間が多い。そういう人間は、本当にパソコンに多い。

昔なんか、ただ悪いだけだ。悪い人間が分かるのは、賢い人間を殺さないと分からないからだ。賢い人間を倒す人間が賢い。そういう、おかしな馬鹿な餓鬼だった。

全てが分かった人間にとって、愛は、全てを正常に治す薬のようなものだ。

全てを知った人間にとって、数学とは、真理によるあらゆる知性の創造と、変幻可能なロボットのような機械だ。全てになり得る、そんな存在が数学だ。

全てを考えた人間にとって、哲学は、自分を映す鏡だ。哲学によって、自分の考えていることがすっきりと分かる。誰でもそういう風に同じだ。

職業は、聖職者、哲学者、作家、科学者、技術者、政治家、教師、官僚、医者が居る必要がある。それらにしか分からない。

全ての人間は、王から学者まで、全ての経験を自分のように行うべきだ。

教育の可能性では、経験と自発的な努力と思考を教え、やらせるべきだ。数学は、いくらかやれば良い。基礎も大切だが、もっと応用的なことも教えなければならない。

子供にも権力を与えるべき部分もある。子供の世界は、自分で変えられない。全部受け入れる義務があるのはおかしい。自分のことは自分で決められるべきだ。政治参加や社会参加のようなこともあるべきだろう。

可能性と必然性から、発想の実現方法と応用可能性が見えて来る。全てのことは、それが実現可能であったその場所だけではなく、他の場所や場合でも同じように実現可能だ。

そういう、実現の応用性は、分かる人間が多い。どこかの社会で成り立つ解決方法は、その社会ではない、別の社会でも応用し、実行出来る。そういう風に考えると分かる。

社会は、もっと根源的に、影響力の発生を自由に出来る。そこから、昔Web 2.0と言っていたような、総表現の社会を考えられる。梅田望夫が言っていた。

人間は場と法則であり、場と法則から言語的な理解が分かる、そんな存在である。

そういう風に、場や法則と言う言葉で分かっていた。

そろそろ分からない。もっと普通に昔のことを分かれば良い。

ギリシャのような歴史を歩んだ。全て、歴史になって分かっている。精神は歴史であり、絶対精神であるとヘーゲルが言うのは、そういうことを言っているのかもしれない。

あとは、ソ連の実現が多かっただけだ。自分の経験と、理性的に作った発想から、ソ連の実現が分かっていた。昔から、何も変わっていない。

あとは、正しさから価値観のようなものを分かっていた。

発想から自由が分かった。発想は応用的であり、考え方の適用であると言っていた。制度は経験であり、歴史は経験的な記憶と精神であると言っていた。

この文章は、提起と説明のようになっている。定義と証明と言っても良い。そういうわけで、これはこれで自分の作った1つの数学だ。いつも数学を作る。

今では数学も自然現象を捉える方法であり、偶然と確率で分かることになっているが、古代には数学で歴史の必然性も分かるとされていたらしい。数学で運命が分かる。

数学を神のように信じているのがピタゴラスだ。分かっていないから違うかもしれないが、ピタゴラスの発想は自分と良く似ている。数字を信じるのが良く似ている。

全ては、運命だ。

全ては、確率だ。

全ては、自然現象と自然発生だ。

そして、あらゆる全ては、回帰し、輪廻する。

生まれ変わりが無いとしても、天国が無いとしても、善人として生きることに変わりは無い。そういうものは、善人になるために必要なきっかけに過ぎない。

自由とは、神を信じることだ。神が居なくても、神を信じる自分たちが居る。それが神だ。

ただ、真面目に考えて、神なんか信じない方が良い。馬鹿になって、文字が読めなくなる。本当にそういう馬鹿な白人が多い。イスラムに一番多い。神を信じると、文字が読めなくなる。神は、古代人の発想だから、そうなる。

文字なんか関係ない。それなら信じれば良い。神は、信じるときちんと導くし、ここまで良い人生になる。これでは、自分以外誰も居ないのと同じだ。哲学者は、そういう人間が多い。普通、そういう人間しか哲学をしない。自分しか居ないのが理性の理想だ。

皆のことを知って、関わりながら生きること。そこに真実がある。

全ては、関係性、自然、必要性、そして依存関係である。

あとは、ネットで見たものを言っていた。Bugzillaが賢いと言っていた。

人と比べるのは良くない。皆と比べてどうかなんて、意味が無い。

本当に正しい領域では、自分の考えることが全てだ。自分の考えたことから、全ての理解と常識が生まれる。常識なんか要らない。居るのは、自分の理性だけだ。

デカルトの言う良識とは、この文章のようなことを言っているのかもしれない。デカルトも、良識のある正しい人間だ。

デカルトが兵士だったのは驚いたが、兵役のせいでヨーロッパ各地に行くことが出来たし、考える余裕が出来たように思う。良く知らないから、違うかもしれない。

哲学者には、教授が多い。ニーチェすら教授だ。そういう教授の哲学者に馬鹿が多い。

迫害されたスピノザのように、悲惨な人間が多い。そういう哲学者は、賢い人間が多い。

デカルトは数学者だし、医学の知識もあって、死体の解剖も出来る。マルチな人間がデカルトだ。そういう万能人に賢い人間が多い。良く知られているのはダヴィンチだ。

あとは、昔なんか、心理で社会を構築したかっただけだ。

言論から、人がどういう意味でそのことを言っているのか分かっていた。言葉から脳と記憶が分かった。経験から神の理性とビジョンを知った。そういう人間だった。

自分も自分で万能人と言って良い。基礎の科学を作ることで全ての科学が分かっていた。労働の経験は、全部あった。思考の余裕と機会もあった。そういうわけで、デカルトが賢いのは当たり前だ。デカルトの考え方はありえないし、馬鹿な点も多いが、世界で一番賢いのはデカルトだろう。ニュートンは、物理の方面で賢い。

最近の自分は、自分で自分を倒す戦いをしている。

こういう風にすると、何も出来なくなる。自分を赦してやった方が良い。赦すために神を信じているように見える。神を信じているから、こんな人間でも赦される。そういうわけで、これで善人だ。ただ、戦争がしたかっただけの、馬鹿な人間が自分だ。

そういうわけで、昔は哲学者で、最近は戦争だ。

どうでも良いが、昔の自分がデカルトとそっくり同じように生きている。

マルチな才能もあったし、考える余裕もあった。時間があって色んなことが出来る人間は、普通こういう風になる。全部考えて分かる人間が多い。経験も良く考えて豊富だった。

誰でもデカルトと同じにしかならない。

デカルトは色々と馬鹿に見える。馬鹿にしか見えない人間も多い。だが、こういう風に、本当にデカルトと同じになると、デカルトの賢さが良く分かる。

あとは、もう無い。カントやヘーゲルのような大学の教授の哲学者は、専門的な学生に話すせいで、難しい用語を乱発する。そういう馬鹿は、馬鹿だ。デカルトは優しい話をしているのに、カントやヘーゲルがあまりに難しい話をする。デカルトまで馬鹿に見える。

自分は、そんなにデカルトが好きなわけではない。一番好きなのはスピノザだ。

やりたいなら、デカルトをきちんとやれば良いのが自分だ。方法序説は読んだから、それで良い。もっとデカルトの著作を沢山読んでも良いが、読んでも何も分からないだろう。

昔なんか、数学的な理性と、証明や必然性から、貫くように社会を分かっていただけだ。

もっと数学的なことを考えれば良い。デカルトと思えば分かる。もっと、自由かつ数学的に、人間のこと、社会のこと、自然のこと、心のことを考えれば良い。

体得と思って分からないのがおかしい。オープンソースは要らない。

デカルトが子供みたいな顔をしているのは、自分と同じだ。遺伝子が同じように見える。自分はデカルトほど賢くは無い。だが、デカルトの言っていることは、自分と一致するところが多い。逆に見えるところも多い。デカルトは一人で全部実現するのを賢くて美しいと言っているが、自分は協力して自然に積み重ねるのを賢いと思っていた。

最近は、レーニンのようになって、そのままゲーテやニーチェのようになった。そこらへんが同じ人間だ。それらは狂っているだけだ。おかしな偉人が多い。

バッハには見えないが、自分の文章を見ていると、バッハに見えることが多い。

要は、遺伝子なんか関係ない。皆、考えることもやることも同じなだけだ。哲学者なんか同じだ。ただ、哲学者は賢いせいで、本当に違って見える。馬鹿が同じなのは当たり前だから、他と全く違う人間が賢くなる。キリストも、広き門より狭き門から入れと言っている。自分のことを言っているだけだ。

あとは、思考を辿って、人格を分かっていた。そういうおかしな人間だった。

自分は、愚かに見えて、全く愚かでない。大して他に迷惑をかけないことをやっている。支配したいのはどうでも良い。ファシストに見えるから、支配とあまり言わない方が良い。

そういうわけで、自分はデカルトで、ゲーテで、ニーチェで、バッハで、レーニンだ。どうでも良いスターリンがそうなる。

それらは、全く違う。全く違う人間が賢いだけだ。

もっと皆も違う人間になった方が良い。まさにそれが良い。皆、他の人間と全く違う人間になるのが良い。最近、同じ人間しか居ない。馬鹿になっているのが日本だ。

それなら出来ると思う。皆、全く違う人間になれば、賢くなるだろう。

ヤスパースが集団に没するなと言ったことを言っている。それを参考にすると良い。

違う人間になると、絶望の体験が多くなる。そういうわけで、辛くなると楽になる。最近、そういう、絶望する人間が居ない。皆、楽になったせいで何も無くなっている。

そうでもない。絶望する人間は、最近本当に多い。

現代はおかしい。そこから考えれば良い。現代は本当におかしい。過去の方が良かったように見える。最近は良いとは言うが、おかしなところが多い。そのうち全部治したい人間が現れる。馬鹿に見えて賢い。色んなことが本当にしたい人間は、そういう、悪党になる。自分が見てもなりたくない。なるしかない社会が本当に多い。最近は、そういう社会が無くなって良くなった。そのせいで馬鹿になっている部分もあるが、そういう発想はどうでも良い。

どうでも良く文章を書くのがありえない。そういう知恵がついたのを止めた方が良い。

もう、この文章は書けない。悲惨に書けなくなる。意味の無い知性がそこまでついた。やっていると、ただ疲れるだけだ。

1つの社会を分かってから、別の社会を見れば分かる。

昔から、それしか言わない。社会の経験を別の社会の経験に応用する。

あとは、個人の自由を積み重ねて、共同体の自由を分かった。

あとは、想定的な賢い考え方のようなことを言う。

それは、何がどうなっているのか?

それは、何を意味しているのか?どんな意味を包括しているのか?

それは、何から生まれ、何になるのか?

それは、実験と仮定から、証明して分かることが出来る。

それは、仮想世界との照らし合わせから、実現として、モデルで知ることが出来る。

自由に実現し、証明し、実験し、解決して分かることが出来る。

あとは、どんどん馬鹿になる賢い文章が多かった。

もっと何か昔のように考えれば良い。もう分かったと思うのが悪い。まだ分かっていないのを信じれば良い。

もっと自覚し、確信すること。人の言っていることを良く聞いて、自分なりに、自分の頭で考えること。自分なりに見聞きして、自発的に考えること。

そして、知性の考え方をすること。全ての何かの前提条件の前に、他の前提条件があることを知って、原因の前の原因を考えること。そうすれば分かる。

相対的に変化を捉えること。

昔なんか、全部要らないからこういう風になる。要は、違う人間になるのも間違っている。違う人間になると、前の人間が分からなくなる。

それは仕方ない。昔なんか、もう覚えていない。

最近の多重人格になりたい病気はおかしい。おかしく狂っている。確固とした一人の人格の方が良い。一人の人間であるべきだ。

自分を二人にするのも止めた方が良い。意味が無い。

考えて、戦って、支配して、信じて、解決して、作って、秩序とシステムを分かった。

自分は、もう融和して一人になる。永遠の人格になって、宇宙に残る。それがこの文章だ。二人に見えない。誰でも一人に見える。

良く考えると、あとは精神分析で前世を分かっていた。それくらいしかしていない。フランス人の自分は昔の時代の農奴で、ドイツ人の自分は未来人だった。スペイン人は船乗りで、ロシア人も奴隷だった。そういうわけで、全てそういう風に分かった。全てが分かった人間が自分だ。

分からなくなるのは、多重人格のせいだ。全部多重人格が悪い。なりたいのがおかしい。誰でも、きちんと自立した一人になりたい。神との対話は、二人が会話しているだけだ。辛く見えて、楽だ。楽だから辛くなる。

意識は多重構造になっていて、外側に行くと馬鹿になるが、内側に行くと分からなくなって、考えると内側に行き、体験すると外側に行く。そういう、心の構造を書いていた。

原因と結果から考え方を作っていた。

スターリンのように社会を上から決めていた。

だが、本来はボトムアップと自然な積み重ねが好きだった。

仮定と成立のような、カント的な考え方のようなことをいつも言っていた。

自由だった。全ての自由が分かった。

世界観の分かっている構造を、自由と言う言葉で貫いて考えた。

全ては、自由だ。自由に行動し、活動し、制度を決め、組織を作り、自由に決める。

自由に決める方法のようなものを全部考えていた。

言論の自由など、権利の自由を分かった。環境を守って維持するべきだとしていた。

何でも書ける人間だった。無限に縦横無尽に考えていた。

全ては、諸行無常である。無常であることを分かれば良い。

そして、一切皆苦である。全ては苦しみである。

そして、諸法無我である。私と言う存在は無い。

仏教の三法印だ。

もっと色んなことを言いたいなら、そろそろもう残っていない。

普通に考えれば良い。この世の全てを書いたのは、これで誰でも分かる。

発想しないのがおかしい。世界を見て発想しないのが悪い。

自由は悪い。環境を自由にしても、滅びるだけだ。何もかも滅びていく。自由どころか、ただの共同体の左翼だ。共同体は、支配しなければ良くならない。

共同体と帝国は同じだ。実現力を高めながら、独立性と基盤を高めれば良い。

それこそ、ドイツはロシアにしか見えない。

自由とは、悪を倒すために、皆で積極的に行動し、独裁者を倒すことだ。

民主主義の未来は、独裁者を倒すことにある。そういうわけで、安倍は悪い。

平和とは、信じることだ。

本当に、神を皆で信じていると良くなる。ただ、皆で信じると悪いことをする。一人、個人的に信じると、分かる人間が多い。ルターもそういうことを言いたかったのだろう。

教会や修道院なんか必要ない。個人でキリスト教を信じれば良い。国が信じると、悪くなる。そこらへんが誰でも分かるから、ルターはかっこいい。

宗教なんか考える意味が無い。何も賢くない。

自分で考えると分かる人間が多い。唯物論の方が分かる人間が、最近多い。

もっと自分の持てる力を全部出して考えるべきだ。昔の文章は、そういう文章だった。

自由とは、自分が出来ると信じることだ。何でも出来るのが人間だ。

今日は何も辛くない。何も辛くなくなった。新しいフレイヤになれないのは悲惨だが、自分が一番賢かった。賢いことが全部出来た。作家になれた。

あとは、Linuxに関して言うと、コマンドが書いていない。コマンドは昔分かっていた。

あとは、ソースコードが無い。

そこがおかしいようで、昔からソースコードなんか何も分かっていない。

そこらへんは、姉が分かる。姉がプログラマだ。あまり自分が分かっても意味が無い。

読んだことが無いから分からないが、目次を見ると、ロックの人間知性論のような文章を書いていた。習得的な経験など、構造的に良く似ている。

日本は強い。むしろ、アメリカやイギリスも、大空襲や原爆で、非人間的な大虐殺をやっている。アメリカやイギリスは悪い。日本だけ悪いのは本当におかしい。

ロシアと日本が戦うと、どちらが勝つのか分からない。最悪の戦争をする。イギリスとスペインぐらい、どちらが勝つか分からないのが、ロシアと日本だ。

日本は強くなる。そこがおかしい。強くなると、本当に強くなるのが日本だ。

ただ、そういう馬鹿なことをもう言わない方が良い。意味が無い。

昔の世界観は、もう分からない。あとは、行動や理想など、目的論や社会論が多かった。何も覚えていない。分からない。もっと色んな真理のようなことを言っていた。

自由は好きだが、アメリカは嫌いだ。特に、Windowsが嫌いだ。本当にアメリカは嫌いだ。だが、そうでもない。英会話教室は好きだし、特に英語は好きだ。

そういうわけで、アメリカの方も僕を嫌いになるべきだ。アメリカの方も僕が好きだからありえない。そのせいでSみたいになった。アメリカがMみたいな国になっている。

ネットを見ながら、体験を考えて、知恵と工夫と認識と立場を吸収して分かっていた。

専門分野を横断しながら、マイナーな分野から分かっていた。それがLinuxだ。

そろそろ今日も終わりだ。あとは、明日書けば良い。

あとは、分かっている文章が多かった。

子供は、女から生まれる。女には、生命を作る能力がある。女は生命の神秘だ。

そういう、どうでも良い、分かっている内容が多かった。

死ぬ時に辛いだけだから、死ねば良い。簡単にコロリと死ねば楽になる。

それで死ぬわけがない。本当には死なない。そのためには、書いた文章を忘れれば良い。

あとは、時と場合を考えて、可能性や状況を考えれば良い。

書くのは悪い。そろそろ書くのは悪い。ただ、分からなくなっている。

場合を1つ1つ考えていけば良い。問題やプロセスは正しく考えれば分かる。

あとは、人生を考えれば良い。

もっと理想のようなことを考えて、厳密に考えれば分かる。世界にどうなってほしいかを考えれば良い。もっと世界の可能性と信念による理想を考えれば良い。馬鹿は賢い。

生と死を分かっていたのを、分かり直した方が良い。いつもの生まれ変わりのせいで、何も死ななくなった。だが、やっていることは、毎日死んでいるだけだ。

そういうわけで、死なない方が良いようで、死んだ方が良い。

生と死のせいで分からなくなっているが、そんなに全部脳を生かす意味が無い。

昔から、脳だけが生きている。それも悪い。全て蘇生して、死ぬべき部分は死ぬ。

生と死の地獄は本当に多かった。辛いだけだった。

もう楽になる。死ぬべきものは死ぬ。それだけで、辛い地獄が治る。地獄を怖がるせいで辛くなっている。死ぬと言うことは、人間の正常な現象だ。死んで治る。

もう楽になった。死ぬのが怖かった。

楽になったから、昔が出来る。昔は、想像力をつけて、思い出すことで分かっただけだ。

自分になると、想像力がつく人間が多い。

もっと、不確かなものを疑えば良い。信じるに足る根拠が無いものは信じない方が良い。デカルトは、それくらいを言う。信じるべきものはきちんと選ぶべきだ。

反省と思い出すこと、中道であることから分かることが出来る。

極端な思想は悪い。本当に悪いから、止めた方が良い。

論理学のようなことを言う。論理的に考えるとは、それがいかに証明されて、導かれて、成立して、実験から確かめられて、説明出来るか、と言ったことだ。

何がそれが正しい要因になっているか?それは、別の可能性から、別の見方、別の正しさにならないか?それは、本当に正しいのか、正しいと言う要因は何か?

そこから、命題的な考え方を全部吸収出来る。それくらいの吸収の考え方が多かった。

前提条件を吸収して、判断基準が生まれる。

当然に考えると、意識、必然性、発想から分かることが出来る。同じ意識、同じ発想、それがそうなるべくしてなる必然性と証明から考えることが出来る。

科学とは言うが、仮定と結論からすべきことと、結果のパターンを考えただけだ。

自然に生まれることのように、発生する条件のようなポイントを考えれば分かる。

全てを発生させる条件と原因を、仏の力と呼ぶことが出来る。

仏教は誰でも分かる。むしろ、誰でも賢い。もう楽になったから、すぐに分かる。

推論の方法や、相対的な理由の把握のようなものを書いていた。

全ては、支配しながら維持することだ。

あとは、反抗を想定して、全て決めるような文章を書いていた。

全ての場合を想定して、賢い意識のような内容を書いていた。

自由な場では、人は人生、意識、活動、環境、法則によって生きる。

そこでは、考え方と構造から、相対的な世界観が分かる。

それは、手段と法則から生まれて、具体性と成り立ちに回帰する。

理想の社会は、自由な行動と経験、社会構築の理性から得ることが出来る。

そこでは、社会参加と心理的な信念、そして社会的な目的と意識が考えられる。

全ては変化可能であり、支配可能である。それは、自由な影響力とシステムの中で、平等に行われるべきだ。それぞれがそれぞれの世界と環境を変え、自然に発展するべきだ。

自然に発展することが全てだ。全ては、自由な協力と生態系だ。

パソコンは拡張性と創造性だ。可能性のある機械だ。

自由とは創造性だ。工夫して作るだけだ。

精神が崩壊するのが怖い。そのせいで、何も出来なくなった。分かると治る。

怖い理由を経験から、そう言う風に考えれば良い。

そうすると、何もかも壊れて死んで行くのが怖い。何もかもおかしい。

神やテレビやアニメが怖い。自分に映る自分は見たくない。アニメはキモイ。