昔は、ブッダのように、人々にアドバイスと助言が出来る、何でも正しく分かる人間だった。全部分かっていた。
自由自在に色んなことが出来る人間だった。人を変えられる人間だった。
あとは、独立、一体、共有、自由と言って、考え方や掲示板や契約のようなことを言っていた。
自由な経済モデルを作った。
共同体、ありえない世界、弁証法、可能性、自分、平等な支配者、記録、定義、全部の論理、発想、本質、方法、法則、歴史、場、時代、自由、ロシア、悟り、日本社会、教育のようなことを言っていた。
ボトムアップ、地方自治、社会システム、普遍性、共有、自然状態、物理学、心理学のようなことを言っていた。
未来は、受け入れていると、分かるようになる。
最初から分かっていることをやっている。それが怖いだけだ。
何も分かっていなかった。
あとは、想像力と思い出すのと回想で分かっていた。
場の変化と可能性、意識で分かった。
成長で分かった。
もう手が治った。楽だ。
ただ、もう一度しただけだ。
全て分かっているのが悪い。
科学とは定義だ。
そういう風に、ミカエルをもう一度しただけだ。
馬鹿になる作家をもう一度した。出来て良かった。
最初から分かっているのが悪い。それで、何かするのが怖い。テレビが怖い。脳もおかしくなった。
ただ、オープンソースのように書いて、最後まで導く。それを最後まで分かっていた。
人格を書いていた。本物はどれ、のような文章が多かった。
人間は、分かるとする。
ネットで仕事が分かったのを書いていた。会社のようなことがネットで分かった。マスターのように色んな仕事が分かった。
地球儀を作ると言っていた。自分の分かったことを教えたかった。看板に広告を載せると言っていた。牛乳の水道を作ると言っていた。
同じことを繰り返し言えば分かる。
創造性を書きたかっただけだ。
なった後の状態になると分かる。力業で分かる。
人生とは、本来の自分を知っていくマラソン会場だ。それが成長だ。
恐怖を乗り越え、戦い続けた先に、勝利がある。
最近は、怖い。この文章を書くのが怖い。辛い。疲れる。精神障害になった。
受け入れる気持ちが大切だ。
辛い地獄を受け入れるしかない。
皆頑張っている。だから、自分を信じてやるしかない。
科学の枠組みにとらわれない科学のようなものを書いていた。
宇宙は、絶対意識、絶対精神だ。
人間は、エネルギー受容体だ。
生物には、生態と習性がある。
生物は、精神と環境の関わり合いである。
そのように、科学を超えた科学のようなものをいつも書いていた。
環境への適応や、未知の可能性のようなことを言っていた。
人間は、神が創造した被造物であり、人生は予定調和だ。
ロシアの歴史のようなものを分かっていた。
ロシアのソ連は失敗したが、日本なら成功するかもしれない。
E=mc2は、三次元の光と物質にエネルギーがあることを表している。
創造性や多様性や可能性を、論理的に考えていた。
今日も英単語をする。今日はピアノ教室がある。
もうこの文章は書きたくない。ただ、書かないよりも、書いた方が、最近楽だ。
今日の英単語をやった。今日はピアノ教室がある。ピアノは楽しいから、早く行きたい。
ただ、ピアノ教室は結構怖い。辛いどころか、練習をあまりしていないから、意味が無い。
ピアノの才能はあるように見えないが、子供時代からやっているせいで、覚えれば難しい曲でも弾ける。ピアノのことをもっと書いても良いと思う。
ただ、練習しないのはおかしい。先週の水曜日、教室の無い日にいくらか練習した。練習すれば上手く弾けるのに、しないのがおかしい。
哲学や歴史はそろそろもう良い。我慢して読めば出来る。読まない人間が多い。
数学は比であると言っていたが、そういうものをもっと良く考えれば分かる。
全て、そういうことを、それぞれ1つずつ、全部書いていた。
人生のようなことを言っていた。本にも書いてあるが、殆どは人生と記憶を書いていた。
あとは、環境を作ったり、視点を成り立たせたりしながら、人間と世界観を書いていた。
人生のようなことを考えれば良い。人生しか言っていないから、もう分かっている。
ピアノは、少し練習した。少しで良いから、練習した方が良い。それで未来が開ける。
人生は、ゆっくり考えれば分かる。ただ、自分の人生で分かることを全部書いていただけだ。まとめて、網羅しながら、段階的な人生と経緯を書いていた。皆の人生を尊重しながら、自分の人生がその通り出来るように、必要なものを全部書いていた。
数学は、抽象的に予測しながら、公理主義で全て正しく証明する。そういう、脳がある。
数学は、人間の脳だから、分かると日本語が分かる。
数学を考えると良く分かる。作用や変化から、関係が分かって来る。公理主義的に関係を考えることで、ものや認識の相対性も分かって来る。数学は、自由だ。
英語をやっているせいで、日本語のまま英語のような言語になった。本当にやっても出来ないから、それで良い。
辛いから、もっと違う言語にする。ギリシャ語やサンスクリットにすれば良い。古代の言語だから、賢い人間になる。そういうわけで、今から古代人になる。
そんな風にしない方が良い。英語で無ければそれで良い。ロシア語が良いと思う。
昔の賢い日本語は、キモイ代わりそこまで賢かった。日本語と英語を融和させて、サンスクリットをやる。このままインド人になる。そのまま、インドの何かの言語になる。
どうでも良い。インド人になんか、なりたくない。もっと良い人種、まともで正常な人間になりたい。おかしな人種になる意味が無い。疲れるし、怖い。人種は日本人で良い。
そういうわけで、日本語と英語を融和したおかしな言語になる。サンスクリットはどうでも良い。むしろ、それならドイツ語になるように見える。ドイツ語はもう十分だ。
アメリカ人が足りないから、アメリカ人を増やした。
ドイツ語に変わると、まともな人間になる。ただ、黙っているようになる。英語は、こんな馬鹿しか居ない。英語しか分からないせいで、自分はアメリカ人に見える。
ギリシャ人になる。古代人になるのが良い。それなら賢い人間になる。
ドイツ語はもう良い。英語とは言うが、いつもドイツ語を話しているだけが自分だ。日本語の英語は、その通りドイツ語だ。今書いているこの言語がドイツ語だ。フランス語は色々と同じだ。現実で、神と話しているありえない言語がフランス語だ。
フランス人、ドイツ人、ロシア人、ユダヤ人、イタリア人、アメリカ人が終わった。
このまま、インド人、中国人、アフリカ人、ムスリム(イスラム教徒)、そしてギリシャ人、ローマ人、になって、最後に日本人になる。
それくらいがしたいといつも言っていた。科学も全部した。コンピュータ科学、数学、物理学、心理学、政治経済、神学、文学、歴史、哲学のようなことをした。
昔、新しい人間になるのが出来た。そのせいで、まだ出来る。新しい自分になれば良い。
昔、一度も失敗せず、最後まで皆を導くことで、新しい人間になれた。
そういうわけで、自分はまだ出来る。
ピアノ教室に行った。曲を弾くのも、作曲するのも、楽しい。
明日は、英会話教室がある。最近、いつも楽しい。充実した毎日を生きている。辛いことは多いが、その分、楽しいことも人一倍多い。そういう人間が自分だ。
物事は、数学のように、記号にすると良く分かる。
まだ、書いていた方が良い。書くのを止めると、怖い。きちんとやっていれば、それで良い。書いた方が賢い。辛くない。最近は、本当にこの文章を書いているだけで良い。
あとは、農園にも毎日行っている。野菜が本当にいくらでも採れる。面白いが、辛いところもある。何もしないのに疲れる。良く分からないが、行くだけで疲れるのが農園だ。
昔は、全てのことに対して縦横無尽に言いながら、自分の世界の延長線上を全て分かる、そういう文章が多かった。
そろそろ、現代の白人が終わって、古代人のアジア人になる。それで賢くなる。
女は終わるようでまだ続く。男が多かったから、女も多い方が良い。
最近は要らない。最近は、何もしていない。
ユメタン方式は無視した方が良い。ユメタン方式をやっていると、馬鹿になる。反復は必要だが、一日に100語も覚えるのはおかしい。反復して一週間で100語はありえない。そんな風にしない方が良い。一日16単語が普通だ。その方が出来る。
英会話教室で話していると、それで良い。アウトプットすれば覚える。むしろ、自分にしか出来ないから、あまり考えなくて良い。好きなようにやれば良いだけだ。
あとは、意識する、しないとか、自由の中に道を作るとか、結構賢い考え方のような内容をいつも分かっていた。
偶然と言う必然から、最高の時間が記録される。
何度も立ち直れば、そこが希望そのものだ。
本に書いてある。昔は、そういうものが実体験で全部分かっていた。ネットで色んな知恵と工夫を吸収して、人生を考えて分かった。昔は賢かった。
あとは、考え方のような内容が多かった。一部と全部とか、独立と従属とか、理性と現実とか、理想と実際とか、考え方のような内容を全部言っていた。
何かしたい。だが、その何かが分からない。何をすれば良いのか、分からなくなった。
あとは、経緯のようなことを言っていた。知を知り、信じることによって、愛と人生が生まれる。影響力によって、正義感と野心が生まれる。全てのことを信じながら、信じる内容を良く考えることで、デカルトのように、実感して全てを分かる、涅槃の境地に達することが出来る。そういう経緯と反省からふり返って分かる実感のようなものを書いていた。
平和は、それぞれの合意から生まれる。本当に地球の全員が正しく合意出来たら、すぐに平和になる。自由は間違っている。皆1つになって、協力すれば良い。
本当に良い意見なら、馬鹿が言っても聞いてもらえる。
差別なく、平等に接し、受け入れること。そこから、全ての愛が始まる。
そういうことを言っていた。自由な意見をいつも言っていた。だが、自由は悪い。
あとは、取り決めとか、契約や合意とか、自由なことを細部まで考えていた。
平等の方が良い。平等の方が自由なこともある。生産手段の共有は理想だ。
受け入れて、自然に任せること、許して、受け入れることから、自由な人間になる。
そういう、心理的な解決の自由のようなことをいつも書いていた。
それくらいを書いていた。全てを決めて、決め直して、断言して分かっていた。
習慣を変えるとか、先入観を無くすとか、人を認めることで自分も認めるとか、どこかの馬鹿な哲学者のようなことを言っていた。そういう心理学だった。
その上で、認識と心の現象学を作っていた。
相手の気持ちに立って、平等で対等な存在として、認め、客観視し、行動と関係を想定し、予測する。それが真理だ。そこから、真理的な法則が分かって来る。あらゆる自由な行動から、それぞれのことを知り、予測し、体験して分かる。その上で、段階的な知と法則の積み重ねを知って、洞察して本当の法則を分かる。
最近いつも言っている、そういう哲学は、ヘーゲル的な弁証法である。
それこそ、弁証法はいつも書いていた。永遠の弁証法だ。そういうわけで、ヘーゲルは、昔ではない最近の自分をしている。昔の自分は、キリストやレーニンやブッダがやっている。キリストとヘーゲルだ。最近は、ヴィトゲンシュタインに見える。
あとは、環境、システム、手段、前提、人格を全部成り立たせて、全パターン書いていた。
もっと最近が良い。普通のまともな人間になった。キリストは馬鹿だし、ヘーゲルは狂っている。最近の自分が良い。おかしな右翼や左翼の悪い人間には見えるが、それはそれで賢いから悪くない。こういう賢い人間が多い。悪いとは言うが、善人も書いている。何も悪くない。神を信じると、こういう、偉大な英雄のような、地獄になる。辛ければ辛いほど賢くなるし、悪いことが起きる人間には良いことも起きる。自分が一番楽しくて、賢かった。全て良かった。完璧だった。
昔は、完璧な文章を書いただけだ。色々とおかしいぐらい馬鹿だが、あれも良い人間だった。世界を支配して、その責任をきちんと果たす、賢い人間だった。
もっと前は、キリストのように全て分かっていたが、馬鹿な人間だった。
オープンソースが好きなのはおかしい。もっとまともなものを好きになった方が良い。
そういうわけで、神は平等で分かると言っている。昔もそういう人間が多かった。自由とは言うが、平等な経験が好きだっただけで、平等に差別せず受け入れることから、全てを分かっていたし、最近は、それぞれが平等に許され、出来て、出来やすい社会を作ることから分かっていた。平等で分かる人間が、本当に多い。
そろそろゴールだ。終点だ。古代ギリシャ人になって、何かを分かる。楽になる。アメリカ人が悪いだけだ。だが、英語は楽しいから、した方が良い。何かが怖いのが英語だ。
それぞれの価値観と考え方と正しさを尊重して、高く積み重ねながら、本当に正しい価値観や理性を追究する。その上で、皆を平等に受け入れる。
創造的な社会を皆で作って、世界の全ては未知であり、実際に変えられると確かに考える。
昔は、そういう、賢くて良い人間だった。
こういう人間は、本当にドイツやアメリカに多い。自由な人間だ。
そういうわけで、昔が本当にドイツ人だ。こちらの馬鹿は、ロシア人やユダヤ人に多い。宗教や共産主義を信じると、こういう、悪いのに分かる人間になる。
そういうわけで、自分をドイツと思えばドイツが分かる。僕はドイツとフランスが好きだ。その点、昔がフランスが好きだから、昔がフランス人だ。最近がドイツ人だ。
知性は最近にある。知性をつければつけるほど、まともになって、無限の可能性が分かる。限界を超えて、いつまでも発見し、自分の全てが宇宙の全てになった。最近はそういう人間だ。神を体験している。もう終わった人間だから、何もしなくても分かる。全てを終わった後で再度作り直した。森羅万象の変化を考え、作り直し、作り変えた。
永遠だった。宣言を全て叶えた。昔が男で、今が女だ。男は革命で死んだ。そういうわけで、女がまだ続く。何も出来ない。おかしなことを何もしないのが悪い。そんなにきちんとやっているから、すぐに終わった。外国の歴史なんか、ドイツ史で充分だ。
神の革命は、日本と戦った。相手を滅ぼし、崩壊させ、破滅させる。それは、自分の方が破滅して、滅びて終わった。そのまま神になった。ユダヤは世界を滅ぼす。それが、一番、簡単にキリストが出来る。イスラム教のように宇宙の全てが神と文章で分かった。ただ、狂っているだけだから、皆そこらへんの中間の時代は出来ないだろう。
昔は、実地的に考えれば誰でも出来る。意識を想定して考えれば良い。最近は、勉強して、書けば出来る。悪人になるのがおかしいが、容易く誰でも出来るだろう。簡単だ。
あとは、歴史的な世界観を書いていただけだ。
最近は馬鹿だ。そんなに文章を分かる必要が無い。もっと新しいことをすれば良い。昔をそんなに好むのはありえない。もっと、自由に、羽ばたいて、歩んでいけば良い。今を良く生きれば、昔なんかどうでも良くなると、本にも書いてある。
言葉が狂っているのは、音を聴けば治る。そこらへんが最近分かっていない。
あとは、信じて治す、解決する、分かるまでの地獄が多かった。地獄にならないと、自分は出来ない。むしろ、自分と同じことなんかやる意味が無い。これなら、全く違うことが誰でも出来る。本人は、それだけが出来ていない。
やるためには、準備をする必要がある。思い出しながら、順序立てて考え、覚えて、継続する必要がある。大学なんかどうでも良い。もっと普通のことを、きちんと正しくやれば良い。そこらへんが分かる人間が多い。自分一人では分からない。色んな手助けを良く使えば良いが、そのためには、親や教師に教えてもらうしかない。何も出来ないから、学校に行った方が良いようで、学校は意味が無い。親と一緒に、自分で考えるしかない。
最近、能天気な女になっている。天気みたいに気分が変わる。すぐに晴れが雨になる。
皆のことを考えると良く分かる。自発的に考えながら、夢を目指して努力すること。
昔の自分は、そこが賢かった。皆の人生を見つめながら、自分の体験から考え方や哲学を分かっていた。
個性を尊重すると同時に、全体に没落せず、世界から離れて、世間を離れたり近づいたりしながら考えていた。ヤスパースや経験論のように考えた。
最近、皆のことが分からなくなっている。皆は、何も分からないぐらい、悪くなっている。豊かだから、批判や反抗は少ない。だが、何も分からなくなっている。
そういうわけで、創造的なものが好きだった。自分から目的意識を持って行動していた。
最近は、精神を治したい。それが一番精神がおかしくなる。もう、治さない方が良い。足は治るわけがない。十分治った。怪我のせいでおかしくなったのが精神だ。
もう何も出来ない。世間を見ながら考えることで、涅槃や解脱のように分かっていた。ブッダもきちんと世界を見ながら、自分なりの指針で考えているのだと思う。
仏教はまともだ。キリスト教は、こういう、何も分からない人間になる。本当に仏教の方が良い。キリスト教は、こちらのアメリカ人になる。白人は全く違う。
ここまでが分かると、経験と発想のモデルが分かる。発想法から哲学が分かる。また、自分の経験から神の眼が分かって来る。ビジョンによって全てのことを見極めることが出来る。昔は、そういう、引き篭もりのブッダのような人間だった。
そういう風に考えると、意識する、意識しないことから、自我や仏の精神が分かって来る。世界のことを正しく分析することで、この世界の裏側にある、仏の存在が分かるだろう。
あとは、カントのように、かもしれない、はずだ、から、どうして、何故、どのように、何が、何を、何に、何から、のようなことを分かって行けば良い。
道や経緯のようなものから、未知のようなものが分かる。全ては、心で吸収出来る。存在は、正しく認識すると、意識になって、認識と対象は同一になる。自分と神も同一になる。そのように、神との合一から世界を神のうちに見ることが出来る。シェリングのような、同一哲学もそこから分かって来るし、フィヒテの言う自我のようなものも分かる。何より、ヘーゲルのような同一化、絶対精神や意識のようなものが分かる。そこでは、全てはカントのような科学的な考え方から、様相と仮象を知ることにも繋がるだろう。
経済学は、社会における経験のようなものから、可能性と手段と成り立ちを考えた。全ては、自己により変えられる。自己に依存する。その「自己」とは、それぞれの構成員であり、存在であり、人間だけではなく、社会的な存在や階層である。自己は、決定者と労働者に分かれる。自己が社会に貢献することをモデルや構造の関係にすることが出来る。
そういう風に、言葉を作って経済学を考えると、哲学的に良く分かる。
それぞれの「決定者」は、「存在」と「環境」を変え、「自己」を支配し、そのことによって「労働者」を支配する。それは、言語的かつ、段階的かつ、限界的に行われる。
マルクスではない。独自の経済学だ。実地的な取り組みと手段と可能性を考えること、それを経験や表現として捉えることから、価値と生産のように、全ての経済学を作っていた。
そういう風に、言葉を作って考えると、良く分かる。
全ては、仮象と様相であり、そこでは存在が経験と理性と価値観に分かれる。
経験は知覚と意識になり、理性は方法と認識になる。また、価値観は世界観と感情になる。
それらは、像と言語によって、悟性と習得になる。
そして、現象を想像力と変化から知り、個別性と普遍性を考えることが出来る。
そこでは、方法と記憶から、全ての構成要素と構造を知り、関係を知ることが出来る。
そして、経験から全てを構築し、可能性として変化と認識を考えることが出来る。
経験を信じること、信じないこと、疑うこと、疑わないことで、経験として理解出来る。
そういう風にすると、ヴィトゲンシュタインの書く文章と良く似ている。
もっと経験と理性を良く考えれば分かる。
経験には、全てが完全に分かっている第一層(基盤)と、そこから推測や推論をして分かることの出来る第二層(推測)がある。そして、そこから変化と可能性を辿って理解する第三層(可能性)が存在する。
そういうわけで、経験は可能性として、経験に先立って世界に存在し、その上で、あらゆる可能性は事前に第一層と第二層で分かることが出来る。
そこでは、ロックなどが言うように、意識にあるものは全て経験したものであり、知覚の束としての人間経験を考えることが出来る。
あまり意味が無いが、そういう風にすると、哲学と言うよりは、既に宗教だ。
ベクトルは、もっと豊かな幾何学的形状をするべきだし、空間の次元は無限にあるべきだ。原因としての作用を変えられるだけではなく、もっと多様なベクトルを作ることが出来る。
西洋哲学史のスピノザの部分を最後まで読んだ。次はロックだ。ゆっくりと読みたい。スピノザは不遇な人生を生きた。僕の人生も、スピノザと比べると、そんなに悪いものではない。引き篭もりとは言うが、社会的なレッテルは張られていない。
経験は可能性である。何かが起きる時、その前の現象から辿って理解することが出来る。あらゆる実際の経験に先立って、あらゆる可能性の経験が存在する。
認識とは経験であり、可能性であり、心と心が融和して存在する。それを捉えるために、正しい認識の方法がある。そういう風に、認識を経験と可能性から分析していた。
経験は、第二層の推論や推測の部分を作ると分かる。最近は、作っていないが、昔はそれを作っただけだ。最近は、第一層だけで分かるようになった。第三層はいつも分かっていない。昔は、そういうところが賢かった。ただ、馬鹿だっただけだ。
そろそろこの文章は2ちゃんねるに見えない。まともな文章に見える。本当に良かった。
推論や推測の部分を作っている文章が、一番多かった。
もう終わりだ。何もしないだけだ。つまらないようで、楽だ。何もしなければ良い。
あとは、世界を作ると思えば分かる。
平静に、自由に、感情豊かに、真実を知り、疑い、取り組むこと。そこから、認識と可能性、そして推論と経験が理解出来る。そういう、推論を書いていただけだ。
正しく感じながら、推論とは何がどうなるか、を考えることだと実感する。
それぞれの具体的な方法から、本質が見えて来る。
愛とは受容であり、精神とは融和である。
それぞれの知る価値観から、それぞれの正しさが見えて来る。
それぞれが何を行動し、知り、感じているのかから、それぞれのイデアを知る。
そこから、平和と愛を知る。
それぞれの具体的な体験から、自由と真実を知る。
そこでは、それぞれの信じることが真実だ。
愛とは、その中で、方法の通り世界を照らし合わせて考えることだ。
全ては、思考の記録だ。
全ては、感情の豊かさの考え方だ。
全ては、本当にそれを正しいと思うか、思わないかだ。
本当に正しいと思えないなら、信じるべきではない。経験から分かる感情の力によって、正しいか間違っているか、と言うことすら、感情で知ることが出来る。
平和とは、それぞれの認識の内部構造を知ることだ。
認識は、存在、証明、識別、理性、感情、に分けることが出来る。
全ては、具体的な存在の、創造性における成り立ちだ。
全ては、言語的な視野の広がりだ。
全ては、運命的な受け入れと、そこから来る全ての感情、そして、経験としての反応だ。
反応で拒否すべきものが分かる。そういうものは、全て拒否すべきだ。
だが、拒否すべきものを受け入れるしか無くなる日が、いつか来る。
その時、全ては混乱し、狂う中で、本当にそれを耐えられるかが、生死を分けるだろう。
愛とは、真実を延長し、伸ばすことだ。
平和とは、存在の価値観を知ることだ。
全ては、可能性と経験の中にある、推論や認識の方法だ。
全ては、完成する前のパズルのようなものだ。
全ては、愛と受容の世界モデルだ。
もっと、推論のようなものを書けば良い。
自由とは、創造性から感受性になり、有用性から応用性になり、意識から体験になり、実感から経験になることであり、その逆でも成り立つ。
それらは、同じものだ。それぞれが、どちらが勝つかによって、人間の本質が決まる。
愛とは、真実から認識を知ることだ。
真理とは、真実がそこに在ることにおいて、それが何を意味するかを知り、実現方法と解決方法を知って、実現し、解決することだ。
全ての法則は、物理的であり、いつでも、何でも、どこでも、全て同じ法則が成り立つ。
だが、人間はそれぞれ違う。僕は、その点、全ての人間を解明し、正しく理解した。
人間の構造は、場に支配される心と、その上での、知覚、意識、感情、感覚、経験、記憶、学習、能力、信念、世界観、価値観、そしてその融和としての世界モデルであり、それは悟性である判断力と理解力によって統括される。
そして、場の構造は、愛と真実であり、真実は法則であり、愛は吸収である。
人間の推論能力は、全て自由と愛であり、それは、法則や制度を自由に捉えながら、思考と経験で知り、全ての前提を疑いながら、作り直すことである。
そして、相対的なものの実現は、人間や心に当てはめて考えることが出来る。
人間の存在性は、時間性であり、同時に、関係性と融和や吸収である。
全ての実現は、愛によって行われる。愛は、吸収すると同時に拒絶することで、正しい自我と感覚を手に入れることが出来る。
そして、自己愛と自己意識が発展して、他者愛が発生する。そこでは、他者は自分と同一化されたものであり、全ての自分に対する愛が他人へと向かう。自分を愛する人間は、他者を愛することが出来る。
全ては、相対的なシステムであり、思考であり、判断であると同時に、考え方である。
考え方とは、人生であり、豊かさであり、考える前提となる世界観であり、それを具体的にどうするか、どうあるべきかを決め、経験からその実存性、それが本当はどのように存在しているのかを決め、説明することである。
システムとは、法則である。法則とは、それを決める現象の裏にある振る舞いである。それはある意味でイデアであり、ある意味で概念であり、意識であり、経験である。
法則とは経験である。だが、経験を支配するものが法則である。
法則とは自由である。法則とは観念の裏にある、正しい理由である。法則とは、現象がどのように起きるかを決める、パターンである。
全てのことは、命題と法則から成り立つ。それは、全てのことを知るシステムであり、プロセスであり、経緯であり、環境である。
数学的な理性だけでは分からない。言語的に考えることは、数学よりも応用的だ。言語を数学にすることも出来るが、より高度な方法は、言語を全て意味を決め、パターン化し、全ての経験を観念で捉え、それを思考にし、言葉と行為を照らし合わせることだ。
考える方法とは、環境を変えることであり、システムを協力して作ることであり、生命を分析し、ものを分析し、社会を分析することであり、それによって、照らし合わせて物事を理解し、自由に考えることである。
最初の方にある文字を消して、実況中継を止める。自分を大きくして考えれば良い。あまりに自分が、今だけしかない小さな存在になった。
ものは、愛すること、信じること、思考すること、可能性を捉えること、自由に変えること、協力すること、関係すること、構造化すること、法則化することで分かる。
光をすぐに消すから、暗闇になる。この文章が暗闇に見える。そういうわけで、最初の方にある文字をまだ書いている。もう忘れた方が良い。書きたいのがおかしい。
影響力を与え、支配し、組織化し、法則から自由自在にものを作ることが出来る。
それぞれの個人の認識は、協力することによって可能性になる。
作用から実験することで、知を作り出せる。
知とは、環境における出来事の記録であり、推論と論述の形式である。
この言葉のように、僕の思考は、色んなものになって飛び回るようになった。
あとは、人間を上から全部創って、社会も上から全部創っていた。
場のようなものや、科学のようなものや、心理学のようなものも創った。
認識から体験、人生から個人、集団から共同体、国家から法律、教育から環境、など、色んなものを上から下まで全部創っていた。
全ては認識である。
全ては体験である。
全ては歴史である。
そういう風に、全部創っていた。何故か、人民を全員創って、ソ連を創っていた。
変化から、世界の全てを考えた。
あらゆる相対的な変化を全部書いて創っていた。
仮想的な世界や社会の発想を全部創って、法律を決めていた。
皆が従うべき戒律のようなものを決めていた。
王になったら、国を作ったら、と言った、発想のようなものを書いていた。
全ての経験と学習から、経緯を創っていた。
想像力、言語、学習、行動、経験、認識、体験、愛、感情、感覚、環境、制度、意見、国、記憶、自由、平等、人生、価値観、信念、世界観、場所、時間などを全部考えていた。
構造と基盤の成り立ちを関係で考えていた。
悟性のようなことを全部言っていた。
皆を導いていた。
そろそろ頭が治った。虫には頭がつくのが良い。それで楽になる。
皆の活動を把握して、それぞれの経験のようなことを言っていた。
数学的な、方法や照らし合わせのような考え方が多かった。
もう、昔の文章は忘れた方が良い。もう分からない。
経験的な知覚のようなものを、判断力と行動のように考えていた。
自由な理想のようなものを書いていたが、今見ると、平等の方が良い。
皆、平等に、同じになって、1つになって、世界を平和に変えよ。
自由な個性は認められるべきだが、それぞれを同じにすることで、解決する部分も多い。
ただ、自由な方が良いとは思う。
自由に体験する中で、世界を知り、運命的なことから自分の境遇を受け入れながら、争いと戦いの中で技術と政治を知る。
むしろ、皆を自分にして自由にするのはおかしい。正して平等にした方が良い。
歴史のようなことを、人間から創っていた。
平和とは、支配されることではないだろう。
支配者は必要だが、支配なんかすべきではない。
あとは、自分の信念を信じて、皆が誰にも支配されないようにしていた。
反抗も出来なくしていたが、結果、反抗しない良い社会になった。
あとは、原因と結果とか、表現とか、予測とか、具体的な発想とかが多かった。
全てを消して、純粋な心でそれを分かっていた。
死んだのが馬鹿だっただけだ。
死んだ部分を元に戻せば治る。
昔のように狂う。狂わないと治らない。
書いているのは、死んでいるだけだ。書くと死ぬから、書かない方が良い。
全部同じにしたのを元に戻すしかない。
赤ちゃんになっている。ただ、良く分からない。
統合が悪い。統合はしなくて良い。
気分が悪くなる。辛い。
認識や研究の方法を書いていた。仮説と実験と説明だと言っていた。
認識を思い出せば分かる。
前世になっているから、前世を止めた方が良い。前世になると、虫みたいにキモイ。
前世のフランス人は止めた方が良い。
もっと思い出すしかない。
もっと逆に回転させると脳が治る。
知性無く言うのが悪い。知性をつけると、すぐに思い出せる。
知性が無いのが悪いから、正しく分かってから言えば良い。
いつもの文章は、悪い。あれは、ミミズを作っているだけだ。
昔は、平和な環境や、創造的な会社をどうやったら作れるか、のようなことを言っていた。
もっとまともに考えれば分かる。
知性無く分かるのはおかしい。
行動には判断力が必要だとは言っていたが、それは賢くない。
もっと賢く考えれば良い。今の文章は、きちんと神ほどに賢くなっている。
人間がいかに生きて、いついかなる環境でどのようになるか、何を考え、何を思い、何を信じるか、のようなことを分かっていたし、書いていた。
昔の自分が言っていたことが、今に聞こえているのかもしれない。
昔の自分を消した方が良いかもしれない。
人間の生きる社会を全部創っていた。考え方のようなものを書いていた。環境と制度の相互作用のようなことを言っていた。ただゼロから考えていただけだ。
昔が話しているのが死んだ。もう黙っていれば良い。
システムは公開して、地域性を高めるべきだと考えていた。
昔が見える。何故か、小泉みたいに狂っている。良く分からない。
全部同じにしたのを治せば良い。それで馬鹿になっているのが治る。