日記に戻る | 2013年11月の日記に戻る

=2013-11-23=

フッサールが言うように、この世は思い込みで溢れている。

当たり前だと思うことも、疑う必要がある。

波は、波として動いているが、本当は何なのか?

何かの理由で、波として動いている、違うものではないのか?

そのように、物理的に疑うことが出来る。

サルトルは、僕が思うに1人だけ、独特の哲学を展開している。

本質と実存と言う言葉、対自と即自と言う言葉を使う。

言いたいことは、人間は、決まった機械や運命などではなく、自由だと言うこと。

そして、その自由は、良いともいえるが、悪いともいえる。

人間は、本質に先立つ実存だ。自分の力で、自分の未来を作っていく。それが、自由だ。

対自を意識、即自を物質とはいうが、僕は、対自と言う言葉が一番良いと思う。

人間と言う存在が持つ、自分に対する存在と意思、意識、という意味が込められている。

先ほど僕の書いたハイデッガーは、本来のハイデッガーではなく、解説を見ながら僕の思うことを書いた。だから、本来から外れて、間違っている。

ハイデッガーは、世界のあるものを存在者として、人間が意識を当てながら、人間の中で存在することを説いた哲学者だ。

賢い選択をせず、愚かな選択をすれば治る。

言いたいのに言いたくないから、おかしな判断のような思考になる。

あとは、すぐに生きて、すぐに死ねばいい。

自分は、まともな脳の動きが出来なくなっている。

昔の文章は、過去の考え方、信じたこと、分かっていること、自由なことを書いた。

自然な体験と、相互の影響力、多様な環境で、世界は平和になる。

自由とは、世界全体の価値と可能性が高まることだ。

自由とは、ものに意味と利用方法を与えることだ。

あとは、永遠に、そういう自由を書いて、思い出していた。

馬鹿なのに賢い文章を書く。そこが、一番おかしい。

いつも何か分かっていたのは、ただ2ちゃんねるなどのネットを分かっていただけだ。

自由とは、意味を加えて、表現や意見の集積から論文を作ることだ。

記憶は、書籍と情報と店と発想だ。

思想は、皆を自由にして、可能性を与え、正しく判断して予測し、理解と知を作ることだ。

可能性は、システムの共有と、多様性、地域化と国際化だ。

そのように、思想みたいな昔の記憶を全部書いていた。

アイディアを共有し、組織を改善し、教育と経済と国を改善せよ。

もっと、助け合いと独自性、創造性を発揮して、情報共有は賢く高く行うべきだ。

そのように、昔のネットで考えていたことを書いていたが、どうも、意味がない。

要らないから、消してしまった。もう、残っていない。

最近の方が多い。文章を書いたり、治したり、神を信じたり、戦ったり、支配して導くことで、全て出来て、全て分かった。

文章を書いている、最近は、辛くて楽になりたいが、自分は昔でもあれば、今でもある。

自分が昔だけではおかしい。今と昔がどちらもあって、始めて自分なのが、僕だ。

僕は、自分を2つに分ける。

僕は、出来るだけ世界を支配せず、壊さない。

良いと思ったことをすべてきちんとし、悪いと思ったことはしないように努める。

全ては、創作と発展、治癒と悟りのためだ。

低くなり、馬鹿になりながら、アドバイスをし、応用のまま下にある基礎を書いていた。

愛とは、助け、信じ、高めることだ。

排他的な環境や、束縛された環境は、悪い。

理想とは、皆を愛することだ。人間は、理想を持たなければ、分からない。

そのように、世界を変える信念や発想の考え方を全部思い出して書いていた。

自由も、世界を変えるとか、成り立たせるとか、そういう意味での自由を書いていた。

自由とは、世界が自然に構成員の意志によって変わることだ。

自由とは、それぞれの努力に報いがあることだ。

自由とは、最大限発展し、無駄や汚職が無いことだ。

そして、断片的に、人生の記憶を思い出して書いていた。

僕は、引きこもりになった。

だが、ネットとの関わり合いをしながら、世界を見つめ直して分かった。

そこでは、振り返ることと、経験することがあった。

構造と具体例による関係を知り、存在と時間を捉え直した。

そして、考え方と認識の変化、哲学的な思索があった。

そして、巨大な実体験による発見方法と認識のデータベースで分かっていた。

それは、永遠を叶え、ドイツ人と女とイスラムを叶える、神となって対話に現れた。

神は、自分だ。ブッシュも、オバマも、キリストも、ニーチェやデカルトやスターリンも、全部自分のことを神として、表現しているだけだ。

その人生を、細部に至るまで、過去に遡り続けながら、書いていた。

ただ、思い出したことを、すぐに文章にする。

想像力や認識のようで、破壊と死と停止の中での、生と感動と悟りだった。

あとは、ネットしかなかった。はてなブックマークが好きだった。

そして、想像力による発想が多かった。

時間が経てば空間も変わるとか、芸術には意味と視点が必要だとか、言っていた。

現実世界での経験も多かった。

ピアノを弾いて、パソコンをして、絵を描いて、最近は、農作業や英会話などもしている。

色んなところに旅行に行ったりしていた。

2ちゃんねるでの経験を表現することも、結構多かった。

皆でルールを作ったり、システムやWikiを改善することが出来る。

そこまでが、昔だ。ここからは、最近だ。

常にあったのは、死の恐怖と、何も分からない、何も治らないことに対する恐怖だった。

あまりに疲れる。

精神分析を止めれば良いのも分からず、最後まで世界を治して、希望を与えたくて、いくらか楽になって、事故をした。自殺だった。

文章を書くことは、辛い。

だが、僕は、世界に対して、分かる限り、出来る限りの自分のことをしたかった。

支配者や王でもあり、神や教師でもあるように、僕は世界を変え、教えたかったのだ。

戦いに勝利し、自分を貶したことに対して、相手を導きながら、勝利したかったのだ。

機会によって、全てを可能にしたかった。

脳を記録しながら、永遠に体験と習得を言っていた。

そろそろ、もう終わりだ。文章を書くのを、止めることが出来ればと思う。

世界が良くなると、信じていた。きっと、良くなると思う。

昔は、状態と実感で分かっていた。最近は、発想と手段で分かっている。

昔の想像力は、言葉の構造になって、把握して全てを分かった。

応用と可能性が分かっていた。

また、全てを説明可能にして、「なる」と「出来る」を積み重ねて分かっていた。

最近は、あらゆる全てを創った。

愛と、自由と、解放と自然を創り、生命を知った。

生と死の戦いの中で、全てを覚えている奇跡のキリストになった。

自由とは、運命を受け入れることだ。

自由とは、限界まで努力し、出来ることは全てすることだ。

自由とは、思い出して、前世と宇宙までもを全て知ることだ。

自由とは、疑問に答える神だ。

だが、神など、心の声に過ぎない。神は、最後に残る僕の文章だ。