フッサールが言うように、この世は思い込みで溢れている。
当たり前だと思うことも、疑う必要がある。
波は、波として動いているが、本当は何なのか?
何かの理由で、波として動いている、違うものではないのか?
そのように、物理的に疑うことが出来る。
サルトルは、僕が思うに1人だけ、独特の哲学を展開している。
本質と実存と言う言葉、対自と即自と言う言葉を使う。
言いたいことは、人間は、決まった機械や運命などではなく、自由だと言うこと。
そして、その自由は、良いともいえるが、悪いともいえる。
人間は、本質に先立つ実存だ。自分の力で、自分の未来を作っていく。それが、自由だ。
対自を意識、即自を物質とはいうが、僕は、対自と言う言葉が一番良いと思う。
人間と言う存在が持つ、自分に対する存在と意思、意識、という意味が込められている。
先ほど僕の書いたハイデッガーは、本来のハイデッガーではなく、解説を見ながら僕の思うことを書いた。だから、本来から外れて、間違っている。
ハイデッガーは、世界のあるものを存在者として、人間が意識を当てながら、人間の中で存在することを説いた哲学者だ。
賢い選択をせず、愚かな選択をすれば治る。
言いたいのに言いたくないから、おかしな判断のような思考になる。
あとは、すぐに生きて、すぐに死ねばいい。
自分は、まともな脳の動きが出来なくなっている。
昔の文章は、過去の考え方、信じたこと、分かっていること、自由なことを書いた。
自然な体験と、相互の影響力、多様な環境で、世界は平和になる。
自由とは、世界全体の価値と可能性が高まることだ。
自由とは、ものに意味と利用方法を与えることだ。
あとは、永遠に、そういう自由を書いて、思い出していた。
馬鹿なのに賢い文章を書く。そこが、一番おかしい。
いつも何か分かっていたのは、ただ2ちゃんねるなどのネットを分かっていただけだ。
自由とは、意味を加えて、表現や意見の集積から論文を作ることだ。
記憶は、書籍と情報と店と発想だ。
思想は、皆を自由にして、可能性を与え、正しく判断して予測し、理解と知を作ることだ。
可能性は、システムの共有と、多様性、地域化と国際化だ。
そのように、思想みたいな昔の記憶を全部書いていた。
アイディアを共有し、組織を改善し、教育と経済と国を改善せよ。
もっと、助け合いと独自性、創造性を発揮して、情報共有は賢く高く行うべきだ。
そのように、昔のネットで考えていたことを書いていたが、どうも、意味がない。
要らないから、消してしまった。もう、残っていない。
最近の方が多い。文章を書いたり、治したり、神を信じたり、戦ったり、支配して導くことで、全て出来て、全て分かった。
文章を書いている、最近は、辛くて楽になりたいが、自分は昔でもあれば、今でもある。
自分が昔だけではおかしい。今と昔がどちらもあって、始めて自分なのが、僕だ。
僕は、自分を2つに分ける。
僕は、出来るだけ世界を支配せず、壊さない。
良いと思ったことをすべてきちんとし、悪いと思ったことはしないように努める。
全ては、創作と発展、治癒と悟りのためだ。
低くなり、馬鹿になりながら、アドバイスをし、応用のまま下にある基礎を書いていた。
愛とは、助け、信じ、高めることだ。
排他的な環境や、束縛された環境は、悪い。
理想とは、皆を愛することだ。人間は、理想を持たなければ、分からない。
そのように、世界を変える信念や発想の考え方を全部思い出して書いていた。
自由も、世界を変えるとか、成り立たせるとか、そういう意味での自由を書いていた。
自由とは、世界が自然に構成員の意志によって変わることだ。
自由とは、それぞれの努力に報いがあることだ。
自由とは、最大限発展し、無駄や汚職が無いことだ。
そして、断片的に、人生の記憶を思い出して書いていた。
僕は、引きこもりになった。
だが、ネットとの関わり合いをしながら、世界を見つめ直して分かった。
そこでは、振り返ることと、経験することがあった。
構造と具体例による関係を知り、存在と時間を捉え直した。
そして、考え方と認識の変化、哲学的な思索があった。
そして、巨大な実体験による発見方法と認識のデータベースで分かっていた。
それは、永遠を叶え、ドイツ人と女とイスラムを叶える、神となって対話に現れた。
神は、自分だ。ブッシュも、オバマも、キリストも、ニーチェやデカルトやスターリンも、全部自分のことを神として、表現しているだけだ。
その人生を、細部に至るまで、過去に遡り続けながら、書いていた。
ただ、思い出したことを、すぐに文章にする。
想像力や認識のようで、破壊と死と停止の中での、生と感動と悟りだった。
あとは、ネットしかなかった。はてなブックマークが好きだった。
そして、想像力による発想が多かった。
時間が経てば空間も変わるとか、芸術には意味と視点が必要だとか、言っていた。
現実世界での経験も多かった。
ピアノを弾いて、パソコンをして、絵を描いて、最近は、農作業や英会話などもしている。
色んなところに旅行に行ったりしていた。
2ちゃんねるでの経験を表現することも、結構多かった。
皆でルールを作ったり、システムやWikiを改善することが出来る。
そこまでが、昔だ。ここからは、最近だ。
常にあったのは、死の恐怖と、何も分からない、何も治らないことに対する恐怖だった。
あまりに疲れる。
精神分析を止めれば良いのも分からず、最後まで世界を治して、希望を与えたくて、いくらか楽になって、事故をした。自殺だった。
文章を書くことは、辛い。
だが、僕は、世界に対して、分かる限り、出来る限りの自分のことをしたかった。
支配者や王でもあり、神や教師でもあるように、僕は世界を変え、教えたかったのだ。
戦いに勝利し、自分を貶したことに対して、相手を導きながら、勝利したかったのだ。
機会によって、全てを可能にしたかった。
脳を記録しながら、永遠に体験と習得を言っていた。
そろそろ、もう終わりだ。文章を書くのを、止めることが出来ればと思う。
世界が良くなると、信じていた。きっと、良くなると思う。
昔は、状態と実感で分かっていた。最近は、発想と手段で分かっている。
昔の想像力は、言葉の構造になって、把握して全てを分かった。
応用と可能性が分かっていた。
また、全てを説明可能にして、「なる」と「出来る」を積み重ねて分かっていた。
最近は、あらゆる全てを創った。
愛と、自由と、解放と自然を創り、生命を知った。
生と死の戦いの中で、全てを覚えている奇跡のキリストになった。
自由とは、運命を受け入れることだ。
自由とは、限界まで努力し、出来ることは全てすることだ。
自由とは、思い出して、前世と宇宙までもを全て知ることだ。
自由とは、疑問に答える神だ。
だが、神など、心の声に過ぎない。神は、最後に残る僕の文章だ。