日記に戻る | 2016年3月の日記に戻る

=2016-03-10=

夢を見た。男と女の違いが分かった。男は、異性を愛している。他人のことを愛している。そこから、他人のことを守るようになる。女は、同性を愛している。自分のことを愛している。そこから、自分の子供のことを育てるようになる。

あとは、本質的にはそうなっているが、現実的には逆に見える。男は、自分のことが好きなように見える。女は、他人のことが好きなように見える。男は、自分が勝つだけの性別に見える。女は、他人のことを愛する性別に見える。

男は、同性の中で勝ち上がって、異性と快楽的な恋をする。そういう、愚かな性別だ。女は、同性と平等な友愛を育んで、異性を本当に愛する。そういう、賢明な性別だ。ただ、男の方が賢い。それは、男は最初から馬鹿を馬鹿だと思うからだ。女は、馬鹿が好きだ。

男は強いから賢くて、女は弱いから馬鹿だ。強いと良い人間になる。女には、悪い人間が多い。弱いと、悪くなる。そういうわけで、男の方が賢い人間しか居ない。

これなら、男と女は自分が創ったように見える。

昔は、そういう風に、この宇宙の森羅万象を自分で創っている文章が多かった。その理由で、自分のそういうものを神と言っている。

あとは、ただ、女が弱いだけに見える。弱い方が良いから、そういう風になる。男はキモイ。強いだけ悪いから、そういう風になる。

宇宙、社会、人生のことを、法則、社会システム、段階から創っていた。そういう、神みたいに全部創っている文章が本当に多かった。植物や動物や生態系のようなものから、国家や自由や行動や共生社会のようなものまで、全部創造している。

あとは、昔の自分は、哲学みたいなものが既に分かっている。どういう風に考えれば、哲学者や科学者と同じように分かるかが分かっていた。ソクラテスからウィトゲンシュタインまで、全ての哲学者を包括していた。そういう、全員のことが分かる人間だった。

あとは、自分は、悪い。女を差別するとキモイ。そういう、悪い内容を、反省して、悔い改めれば良い。人間は、誰もが悪い。キリストが言うように、悔い改めるしかない。

皆を同じ馬鹿だと言うが、それは悪い。皆が馬鹿なわけがない。皆は、普通の人間だ。分からないのは、頑張っているからだ。皆、頑張っている。馬鹿で、分からないのは自分だ。皆の方が分かっているようで、そうでもない。頑張っているから分からないのが皆だ。

そういうわけで、悔い改めていると、きちんと新しいことが分かる。反省しないで分かるわけがない。きちんと悔い改める人間は、分かる。

頑張らない方が分かる。そういう人間が多い。頑張らないキモイ人間が分かる。

良い人間には分からない。むしろ、良い人間で、何も頑張っていないと分かる。

自分の問題は、「悪い右翼みたいな差別の内容を、書くべきでない」だ。それをきちんと守ると、賢い人間になる。そういうわけで、キリストやブッダは守らないと意味が無い。

自分は、全部間違っている。女にこういう馬鹿が多い。

世界のことは、考えない方が良い。自分のことだけを考えれば良い。

哲学やキリストは悪くないから、それは言って良い。不思議と、プラトンみたいに分かる人間が一番多い。プラトンが一番きちんと分かっている。正しい哲学者だ。

コンピュータ・ウイルスにかかりそうになった。おかしなソフトをインストールした。アンインストールして、ウイルスチェックをして、問題は無かったから、大丈夫だ。Javaのアップデートと言う表示に騙されて、おかしなソフトをインストールしてしまった。インストールしたのは、ウイルスチェックソフトのようなもの2つだった。それで、有料版を買え、と言うことだった。ウイルスにはかかっていない。

ただ、本当に大丈夫なのか、不安だ。

それが怖かった。そろそろ、恐怖も無くなった。もう怖くない。

この世界にあるものは、悪いものと、馬鹿なものしかない。

頑張っていると、辛くても楽だ。辛くなると、頑張らなくなる。それで楽になる。

自分が一番悪くて馬鹿だ。こんな馬鹿しか居ない。皆が馬鹿なだけだ。

最近、詩的な文章を書くようになった。

昔は、戦いと革命の知性のような文章を書いていた。

昔は、真面目に考えただけだ。きちんと真面目に考えただけだ。

最近は、皆を賢くしている。馬鹿にしているとは言うが、馬鹿にはしていない。自分のおかげで、皆本当に賢くなった。良い世界になった。

テレビの方が馬鹿だ。テレビと戦っていた。自分の方が賢い。

今から、英会話教室に行ってくる。もう、怖くない。

英会話教室で怖いことが起きるように見えただけだ。それはさっきのウイルスのことだった。

もう、怖いことは何も起きない。それが分かる。

英会話教室に行ってきた。

英会話教室が怖いのは、怖くない時に「今怖くない」と言えば、怖くなくなる。

そういうわけで、どこかに行った方が治る。

怖いのは、普通の人間になるのが怖い。

何か、分からないことが起きるのが怖い。

それが正しい。分からないことが起きるのが怖いだけだ。

それから、英語は、もう出来た。英語の知性がついて、日本語のまま英語が出来た。

英語は、こういう風になる。馬鹿な人間になる。だから、しない方が良い。

もう、分からないことは起きない。もう安心出来る。

それから、そんなに確かに書きたいのがおかしい。そのせいで、辛くなっている。

英会話教室は、確かに書けなくなるから怖いだけだ。

あとは、トイレに行きたくなるのが怖い。治るせいで、トイレに行きたくなる。

漏らすと悲惨だから怖いだけだ。何故か、本屋や英会話教室に行くと、トイレがしたくなる。

昔は、知覚と感覚と体験から、普通の人間のことを分かっていた。

心と経験から、想像力で普通の人間や人生のことを把握して分かっていた。

これでは普通の人間に見えるが、最近は、永遠の神の戦いの経験が多かった。

いつも、狂って、分からなくなりながら戦っていた。

支配しながら、世界を救うために、本気で頑張っていた。

皆が馬鹿になっている。自分のせいで、分からなくても分かるようになった。

書くのを止めると、皆馬鹿になるから、まだ止めない方が良い。

止めると、皆認知症になって死ぬ。

止めるのも悪いが、止めないのも悪い。こういう風に支配して導くのはおかしい。

皆を馬鹿にする意味が無いから、もっとまともに支配するしかない。

パソコンは本当に悪いから、パソコンなんか、使わない方が良い。

マイクロソフトが嫌いなのに、ワードを使うのはおかしい。

ノートに書けば良い。辛いとは言うが、ノートに漢字を書いていると、治る。

ノートの悪い点は、昔から、僕は小さな漢字が書けない。

それは、能力的な問題では無く、精神的な問題で、漢字を「上手く書けなかった」と思って、治してしまう。母親と同じように、「小さなところを気にする」ようになった。

そういうわけで、むしろ、ノートに書いて、小さな問題を気にしなければ治る。

ノートに書いた方が良い。いつもノートに書いていたから、気にするのがおかしい。

今、いくらかノートに文章を書いたが、ワードの方が良い。

ノートは、本当に、漢字が気になってしまう。ワードの方が楽だ。

足は完全に治った。ノートを書いて、漢字を直さない、と思うと、不思議と治った。

文章に書いた内容は、馬鹿なことしか書いていない。あまり意味が無い。

昔は、人格を変えて相手のことを想定していた。そういう発想が多かった。

経験から、世界のことをモデルにして分かっていた。

昔は、人生の経緯を書いていた。何故か、最高に賢いことを言っている馬鹿が多かった。

経緯と段階から、考え方、真理、概念、説明、成長のようなことを言う。

何が何になるかが分かっていた。

宇宙の道と可能性のようなものが分かっていた。そういう、宇宙のシステムを作った。

本当に賢い段階、経緯、考え方、概念のようなことを言う。

人生にあった全てのことを包括するような、人生の経緯のような文章だった。

昔は、人間の持つ「観念」のようなものを考えていた。観念と言うと、違うかもしれない。「発想」や「認識」や「考え」と言うべきだ。そういう、人間の認識を、何をどうその人間が考えているか、その中にある具体的な考えと普遍的な捉え方は何なのか、を考える。そういう、それぞれが何を考えているのか、を本質的に正しく考えることで、その人間でも、他の人間でも、同じようになりたつような、観念的な世界モデルを考える。

自分は、観念と言う言葉の意味を良く知らないから、おかしいかもしれない。ここでは、その人間が経験的、自発的に思うような、考えのようなもののことを言っている。

そういうわけで、人間は全員同じだが、それぞれの経験と思い方、捉え方が違う。捉え方も、経験的に変わって来るし、思考のプロセスによってその人が思うことは違う。

昔は、そういう風に考えていた。心理学でいう心的現実にも似ている。世界モデルとは、そういう、認識と思考と記憶と対象の意識的な関わりを言っていた。まさに哲学だ。

あとは、ヒュームのように自然法則を考えたり、アリストテレスのように因果性を考えたり、あるいは、環境と習慣の違いを考えたりしていた。

思い込みのようなことは、デカルトのように疑って分かっていた。

まだ、終わらない。この文章は、まだ続く。

昔は、経験的に捉え方と環境が変わるのを分かっていた。学校と人生を想定して考えた。人間が、何をし、何を経験し、何を覚え、何を考えるのか、全て分かっていた。

昔は、それだけだ。そういう、経験論の新しい哲学者だった。

それで、ネットで全て実験して、全てを知り尽くして分かった。

あれは、そういう天才だ。

それも、自分の真面目に考えて会話する経験からそういう風になった。

そして、数学的で相対的にものと心を考えて、本当の理由を分かっていた。

あとは、経験を想定して、心の場合を考えて分かった。いつ何がどうなるか考えた。

それで終わりだ。もう、忘れた方が良い。あれは、意識の狂ったおかしな人間だ。

あとは、環境、学習、習慣の変化を考えて、経験的な学習を分かっていた。

人間が何故負のスパイラルに陥るのか、何故ロボットのように辛くなるのかを考えた。

人間の何が悪いのか、ネットで全て経験して分かった。そういう経験が多かった。

それから、何からどういう経緯を経て、どんな地獄になるのか、どんな望みを間違えるのか、のような経験が、実体験から分かっていた。

そして、社会はいかにして生まれるのかを、ネットでまざまざと分かった。

人間は何を望むべきか、のようなことを考える。「正しい望みとは何か」のようなことを考えていた。そして、経験からどんな捉え方をし、何を望み、どんな結果と新しいプロセスになるのかから人生を分かっていた。「どのように捉え方が経験で変わるのか」を考えた。

まさに、昔はそれだけの人間だ。それで色んな体験をして分かっていたに過ぎない。体験から、「自然とは何か」、「成長とは何か」、「本来の自分とは何か」を考えていた。

何故か、こういう人間が多い。カントの言う、認識は経験的である、とは、そういうことを言っている。同じではないが、似たようなことを分かっている。それこそ、それで仮象の世界が分かる人間が多い。論理学と認識の人間内世界を作る人間が多い。

そろそろ終わりだ。あとは、考え方のようなもので分かっていた。

最近は、自分は賢くない。何も分からなくなってから書いているせいで、分からない。

もっと、きちんと分かれば良いとは言うが、これ以上は賢くならない。

もっと、別のものを書けば良い。昔の自分はもう書けない。新しいことを書けば良い。

あとは、「その環境で何を望むようになるのか」のようなことを考えて、支配していた。

そういう風に、悪魔的にネットの環境と欲望を分かっていた。欲望は悪ではないが、きちんと理性的に考えてコントロールすべきだ。だが、時には欲望も良いものだ。欲望によって、その人が本当に必要としているものが分かる。だが、それは経験的にきちんと分かっている人間に限られる。分かっている人間は、心で分かる。知性で分かるものだ。

あとは、自然な考え方や相対的な場の理性など、基本的な知性のようなことを言う。

何でも、基本的に考えて分かっていた。森羅万象を賢く考えた。

また、1つ分からなくなった。仕方ない。それは、書かない方が分かる。

心理的、社会的、哲学的に全て分かっていた。どんな社会がどんな意識から生まれるのか、価値観はそれぞれ何が違うのか、ネットの環境など、を考えていた。

自然な自由から、何を構築することが出来るのか、それは何を創出出来て、それは世界とどのように関わり合って、どうすれば世界に対して良いものが与えられるのかを考える。

そういうものを、「環境の視点に立つ」ことで分かっていた。そういう人間だった。

そろそろ分かった。もう終わった。

あとは、人格のようなものを考えて、「本当の正しい人格」と「全員との融和」を分かった。

「正しい認識」と「行動的な考え方」から、自由な理想が分かった。

そして、自然から「あらゆるものの発生要因」が分かっていた。

「実際の真実」と「本当の根拠」も分かっていた。

今日は、これで良い。今日が一番賢い。明日もきちんと書いた方が良い。

辛くない。もう、辛くして治すのは終わった。

単純に、楽にすれば良いのが分かっていない。楽をすれば楽になる。いつも頑張っているせいで、そこが分かっていない。単純に、辛いことをせず、休んでいれば良い。

あとは、思考、経験、活動、反応、人格、記憶、世界、存在、などを考えた。

思考の裏側と存在を考えて、この世界の裏側にある何かの存在を考えていた。

思考のプロセスを捉えて考える。予測して、把握して、解明する。

そういう、思考から人間のことを分かる哲学者だった。

また、何か言いたかったことを1つ忘れた。

いつも、記憶の迷宮みたいなことを分かっていた。

思い出した。関係だ。関係のようなことを考えていた。いつも、関係と経験を照らし合わせて、「どの環境で、どの経験が成り立つか」のようなことを考えていた。

普通、パソコンや哲学をやっていると、こういう風になる。誰でもこれの通りになる。哲学者にも、こういう人間が多い。そういうわけで、これで自分の哲学だ。

良く考えると、他にあまりしていない。

意志と自由を考えて、誰がそれをいつどのように変えられるのか、のようなことを考えていた。「誰がそれを変えられるか」から分かった。そこから、環境や影響力のようなものを分かった。自然発生的、相互作用的、自立変化的に分かっていた。

そういう風に考えるせいで、思考の数学が出来ていた。

あとは、パラレルワールドなどの発想のように、根源的、仮想的な発想をして、同じ発想から、この世界の皆のことや、宇宙や科学のことを分かっていた。

あとは、「場がどのように変えられるのか」を意識で歴史的、関係的に分かっていた。

どんな意識からどんな場が生まれるのかを、ネットや現実で考えていた。

現実世界の環境の中で、誰がそれを変えられるか、から世界全体の構造を作っていた。

最近は、哲学的な叙述が多かった。難しい言い方をして、哲学的なことを言い当てる。ヘーゲルのような、そういう、経験的な難しい言葉の叙述が多かった。

経験的なこと、世界的な概念や存在のことを言い表す、と言う意味では、ハイデガーと良く似ている。文章のスタイルは、スピノザやウィトゲンシュタインに似ていた。

全てを開く鍵は、信頼と勇気である。そこから、チャンスと可能性が生まれる。

不思議と、勇気を出して信頼すると、テレビに勝てる。テレビがすぐに負ける。

滅びない。いつまでも永遠に続く、良い世界になる。

最近、滅びている。テレビとのおかしな競争を永遠にして、日本は滅びている。

自分は馬鹿すぎる。テレビが悲惨だ。最近、皆、競争があまりに悪く見える。

セックスも同じだ。競争、発展、セックス、科学が悪い。それらがあまりに悪く見える。

あとは、環境の視点に立つ、と言う発想が本当に多かった。環境、と言う視点から考える、と言う意味でもあるし、その人の環境的な立場に立つ、と言う意味でもある。具体的な環境を考えて、人間を環境の一部であると見なして、世界の全ての環境を考えていた。

自然にその環境がどう変えられるか、「どのように変わる可能性があるか」を考えていた。

あとは、自由は本当に悪い。それでも、本当に正しい概念は自由だ。

それこそ、これで自由に経験していると、本当に分かる。そういう風に、真面目に分かっていただけだ。昔は、そういう、「自由な経験のある分かる人間」だった。

あとは、意識と環境の関係を考えた。「意識は環境に支配される」とか、「どんな意識でその環境をどのように変えられるか」などを分かっていた。

あとは、信頼し、勇気を出すことで、環境を変えられると思っていた。

環境を想定して、「環境をどんな結果に出来るかを予想する」と言う発想を分かっていた。

そろそろ終わりだ。もう、昔を全部書いた。

学校に行かなかったが、学校には所属していた、昔の自分が見える。

あとは、「人生経験の環境理解」が多かった。人生で沢山の環境を経験していた。

意識で人生を分かっていた。そういう人間だった。

手段も、機会も、そういう、環境で分かっていた。環境から考えていた。

環境と認識の関係を考えて、「その環境から、何をどう認識出来るか」を考えていた。

自然な法則が環境でいつ何を成り立たせるのかを考えて、「環境の違い」を考えていた。

環境から人間の成長を分かっていた。成長から、全ての意識を覚えて分かっていた。

何故か、これなら、ヘーゲルと良く似ている。ヘーゲルは、自己意識と言っているが、分かっている内容は同じだ。人生を考えるのも、精神を考えるのも良く似ている。

環境を作り出す「潜在的な可能性」や、「自分を変える」ことによる可能性を分かっていた。

習慣的、人生的、真理的に、自分のことを変える。恐怖に打ち勝つために、ネットで沢山の経験をして、「その感情が何故その感情になるのか」を経験的に分かっていた。

行動規範や判断力があった。それは、全部ネットで経験したせいだった。

色んなことを試して、結果を正しく捉えて、色んな捉え方をして分かっていた。

環境のようなものを全部書いていた。

発想法が賢かった。

感情が何なのか、のようなことを全部分かっていた。

誰にも見せなかったせいで、分からなくなったが、もうきちんと分かった。

自分の人生には、運命みたいなことが多かった。不登校、戦い、作家など。

文章は、人生の発見過程のような内容が多かった。その当時は、まだ人生で発見することがあった。人生経験のようなものを書いている文章が多かった。

自由な人生の発見過程は、本当に多かった。経験から、どのようにして分かるのか、何をどういう風に発見するのか、何を知り、何を分かるのかを書いている。

本当に、それくらいの文章だった。

文章ももう、終わりにして、新しいことを分かった方が良い。