昔の日本の生活の世界観。日本史も参照のこと。日本の和の文化も参照のこと。
歴史に詳しい父親の話を参考にしています。
冷蔵庫や炊飯器などが生まれる以前は、日本人は洗濯板と川や井戸の水で洗濯し、まきをたいて火を起こして風呂に入り、米は釜で炊くのが普通でした。質素な和服を着て、食べ物は少しのごはんの他にキュウリや白菜の漬物や自家製の味噌などを作り、いろりで芋煮をするのが御馳走でした。客人が来る時は芋煮会でした。(ちなみに、キュウリは夏に採れ、白菜は冬に採れるため、キュウリと白菜を漬物にして米と味噌を保存すれば、一年中生きられる。)
水は井戸から自分で汲んで運び、火はまきから自分で起こしました。農業用の水路は川から村の村長がひきました。また肥料は人間が出した人糞をくみ取り式の便所から肥だめに溜めて使いました。農業用の工具や生活のための衣服は男や女が自分で作り、家は村のみんなで木造あるいは稲わら式の家屋を作りました。
また、何も取れず餓死することも多く、今の日本人では考えられないほど、人々が死ぬことが当たり前でした。水木しげるも、「昔は人間がよく死んでいた。どこでも死んでいた」と言っています。そうした「死が身近」であったゆえに、「戦争で国のために死ぬことは理想である」と考える人も多かったのです。
また、機械はありませんでしたが、動物が身近で、馬で移動し、牛で畑や田んぼの耕作を行い、犬や猫にも単なるペット以上の役割が与えられていました。今で言うように、ペットとして犬や猫を飼う、ということは当時はできませんでした。
子供の遊びなど、誰も考えませんでしたが、その代わり、相撲やカルタのように多くの誰でもできる遊びがありました。
また、藍染めのような染物や、陶器や磁器のような職人芸は、技術と経験を持った職人にしかできませんでしたが、それがそのまま町や村の伝統工芸品となり、地域の産業を支えました。町にはそれぞれの目的によって必ず何かの得意分野があり、それは多くの場合林業や漁業や畜産業などでした。
日常生活でもっともよく活躍するのは、炭でした。炭がなければ、食べ物を調理することも、暖を取ることもできません。
また、夜は本当に暗くなり、そのためろうそくとマッチがかかせません。
ですが、本当のことを言うと、比較的早くから電球やランプはありましたし、ガスコンロや水道・キッチンは比較的早くから、田舎にも見られました。今の時代、キャンプやアウトドアをするのであれば、ランプやガスコンロは必須アイテムです。逆に、そうしたものが無い場所を「ド田舎」と言いました。
また、時計は振り子式で、よく時間が狂ったため、たまに合わせる必要がありました。ラジオが生まれたぐらいからは、振り子時計の時間を直すための専用のラジオ放送がありました。
また、学校では悪いことをする悪がきはたくさん居ましたが、いじめは少なかったと思います。それは、当時知識や能力を得る手段が学校しかなく、教科書しか文字を読める対象が無く、またごく少数のエリートしか賢い人間が居なかったため、みんな学者や医者や政治家や官僚を目指して真面目に勉強していたからです。当時はサラリーマンが憧れの職業でした。
また、昔の日本には悪い人間が多かったです。町には八百屋や魚屋や豆腐屋のようなまともな店舗だけではなく、決まっておかしな店舗があって、中に入ると中国やインドのような怪しいものを売っていたり、あるいは本当にやくざやチンドン屋や闇屋や闇市のようなものもあり、大きなデパートや百貨店にはとても買えそうもない高価なものが売っていて、「ここから先は上流階級、ここから後は下流階級」のように分かれていたのです。
また、今でいうよりも町と町の間の距離が遠くて、電車に乗って別の町に行くのは就職したり結婚するのと同じくらいの感覚でした。
IT産業やIBMの大型コンピュータのオペレータなどは、上の上の上、とても希少なエリートで、東京大学を出た成功者だけが就ける、最高の仕事でした。
今でも、アフリカや太平洋の島国などではそれが普通です。むしろ、スマホなどのIT技術が流入した分だけ、おかしな発展と進歩を生んでいて、さらに悪くなっている、ということの方が多いと思います。
そうした日本の昔が、高度成長期とバブルによって一変し、クラブで遊び踊るバブリーな女がイメージとしては固定化されていますが、どんどん日本に金が入り、何でもできるかのような錯覚を得ましたが、それは本当に錯覚だった、ということが思い知らされたのです。そうした時代の動きもあって、「金と力と女がすべて」のような人間が増えたのだと思います。そうした点は、中国やインドも同じで、どんどん贅沢かつ大量消費指向になっていますが、彼らもいつか「幻想を見ていたのだ」ということに気が付くでしょう。
また、昔の日本は、都心部と田舎ではまったく違っていて、東京のような都心部ではそうしたバブリーな人々がたくさんいて、逆に秋田や鹿児島のような田舎では前述したド田舎の農業社会を生きていたりもします。また、京都や大阪では、東京でも田舎でもない、独自の伝統的な社会あるいは開放的な社会を作っていて、そうした全てが今の日本社会の源流になっています。また、東京が必ずしも良い社会だったわけでは全くなく、駅前で物乞いをするホームレスなどもいて、また当時はフォークソングが流行ったりしていたことから、路上でパフォーマンスをするストリートミュージシャンなどもいて、「せっかく東京に来たのに、華の都はこんなにひどいところなのか。田舎に帰って牛を飼った方がマシだ」と思う上京した田舎ものが多数いました。
後日注記:昔の日本の生活は、「あるものはなんでも全て使う」というところがある。使えるものは全部使い、食べられるものは全部食べる。糞でも、動物でも、道具でも同じ。全てが必要であり、全ては「もったいないから使う」。それが古来からの日本の文化である。
昔の日本は、水田を使った農業文化であり、稲穂を採った後の藁(稲わら)が残るため、多くの生活に必要なものを藁で作りました。
たとえば、靴となる草鞋(ワラジ)や、筵(ムシロ)、唐傘、縄などを、すべて藁を編んで作ります。
ほかにも、畳なども稲わらで作ります。家の屋根は藁葺きあるいは茅葺きで作ります。
それから、牛には稲わらを食べさせます。もちろん人間が食べるのはお米です。すべて稲と稲わらが中心となる生活をしていたのです。
後日注記:昔の日本は水田で稲作によって米を作るため、「稲わら」が大量にできました。この稲わらを「もったいない」と思って捨てずに大事に使うのが昔の日本の農民(百姓)です。稲わらは牛に食わせることもできますし、生活に必要なわらじや縄を作ったり、さまざまな工芸品を作るために使えます。なので、昔の農民や百姓は稲を作った後に残る稲わらを大切に活用していました。
建築も参照のこと。
2024.05.31編集
昔の農家は、農閑期と言っても暇ではなく、工芸品を作ったり、出稼ぎに行ったりして、お金を稼いでいました。
昔の農家は貧しかったので、農閑期であっても仕事をしていました。
まず、稲を刈り取ると、たくさんの稲わらができます。この稲わらを使って、縄やワラジや籠などの工芸品を作りました。
稲は、ひとつの葉が独り立ちするような構造をしています。そのため、縦の繊維が強く、縄を作るのに使うことができます。
縄を作る際には、複数の藁を重ねるようにした上でねじることで、簡単に外れないようにします。その端に対してさらに藁を続けて繋げていくことで、縄を作ることができます。縄が長くなってくると、足で縄の端を固定しながら、手でねじるような作業を行います。
実際には、稲わらはそのままでは硬すぎて、縄に使うのには向いていません。そのため、小さな丸い木槌のようなものを使って、叩きます。そうすることで、稲わらの周りの部分だけを柔らかくし、中にある硬い繊維の部分だけにすることができます。これを「藁打ち」といいます。
籠やワラジを作る際には、細い縄を使って、縦と横に編んでいきます。ワラジの場合は、履いて歩いていると擦り切れてしまうので、藁の硬くて太い部分を使います。籠を編む場合、縦と横に編んだ上で、籠のように丸くして、繋ぎ目を小さな細い縄で結びます。あるいは、藁を使うのではなく、竹を細くしたものを使うこともあり、そのようなものはザルと言います。
歩くために使うワラジは、昔はしっかりとした履物というよりは、歩いていた時に足が痛くならないように保護するものでした。昔は道路がコンクリートで舗装されておらず、旅行も徒歩が基本だったので、ワラジは足が痛くならないように、旅行では何足か用意し、宿場町で新しいワラジを買いました。その時、おにぎりを竹の皮や笹の葉などに包んだものを買い、それを食料にしました。そのように、宿場は単に泊まるだけのものではなく、新しい旅行用品を手に入れるための場所でもあり、土砂崩れとか洪水とか山賊などの旅の情報を仕入れる場所でもありました。
また、飲み物としては、竹でできた水筒にお茶を入れました。竹は中が空洞になっていて、節によって分かれているので、節に穴を開けて小さな木でその穴を開閉できるようにすれば、水筒として使えます。この水筒は、サバイバル用品として使うことができます。すなわち、川があれば川で水筒に水を入れることができ、非常時であっても水を持ち運べます。唐傘やミノなども、雨を防ぐ目的のほかに、どうしても次の宿場に辿り着けなかった時に、野宿をするためのサバイバルグッズとして使えました。
そのように、昔の農家は、農閑期であっても仕事をしていました。このような工芸品を作る以外に、仕事のできる若者は江戸のような都会に行って出稼ぎをしていました。
稲わらなどで作った工芸品は、市で縄問屋やワラジ問屋などで売ります。これを、出稼ぎに行く息子や娘が、都会の市に立ち寄って売ります。このような工芸品は、ある程度は農家が自分でも作れますが、より凝ったものになると職人が作ります。そのような職人も、すべてを自分で作らず、縄などはほかから買って作ります。そのために、農家は縄を作り、それを職人に売ったりします。
出稼ぎについては、江戸などの都会にはさまざまな仕事があります。ものを運んだり、大工の手伝いをしたり、醤油や酒の量を計ってマスに入れたり、炭を使いやすいように決まった大きさに切ったりします。そのような仕事は、慣れていないとできない仕事もあります。たとえば、宅配や出前の仕事などは、今のように地図やカーナビのない昔の日本の都会では、慣れた人しかできません。なので、出稼ぎに行って都会の主人の下で働いた若者は、真面目に仕事をすると主人から「来年も来てくれや」と言われて、来年には泊まることのできる部屋を用意してくれたりします。
農家の農閑期は主に冬ですが、漁業などをしている人は、魚が獲れる時期と獲れない時期があるので、別の季節に出稼ぎに来たりします。ですが、来るのは毎年いつも同じ季節です。なので、たとえば東北の田舎から江戸に同じ時期に出稼ぎに来て、同じ時期に帰る、という光景がよく見られました。その間実家では稲わらなどを使った工芸品を作り、また田植えが始まると田舎に戻って田んぼの世話をしていました。
2025.03.30
歴史上の灯りである菜種油とあんどんについては菜種油・あんどんを参照のこと。
交通や市については交通を参照のこと。
古文・漢文を参照のこと。
炭のある生活については、エネルギーも参照のこと。
サバイバルも参照のこと。