ドラえもんの世界観です。
子供の頃は、映画ドラえもんを見るのが一番良かったです。漫画で読むと、テイストが違います。僕は漫画の方が好きです。
特に好きなのは、のび太の宇宙小戦争。他にも、恐竜、鉄人兵団、魔界大冒険、日本誕生、海底鬼岩城、雲の王国など、最高の映画がたくさんある。
特に、宇宙小戦争はテーマ曲の海援隊による少年期という歌が最高。僕は足の骨折で病院に入院していた時、いつも聴いていて、歌詞を全部覚えた。
作者は藤子・F・不二雄。
2024.11.23編集
ドラえもんの重要な特徴は、「面白くて、そしてとても怖い」ということ。ドラえもんの映画は、毎回毎回夢いっぱいに始まりながら、ダイナミックにものがたりが展開し、わくわくドキドキはらはらしながら見て、最後に感動する。だが、そこに至る経緯が、小学生にとっては凄まじいほど「怖い」。特に、雲の王国でドラえもんが壊れるシーンや、天上人が洪水でのび太の家ごと流していくシーンはありえない。恐ろしすぎて、本当に面白かった。
最近は、そうした作家や漫画家が少なくなっている。同じようなアニメ絵で、ただの普通の物語を書いて、「そうですか、よかったですね」で終わり、そんなアニメや映画が増えている。ドラえもんを見習ってほしい。F先生のドラえもんは最高の映画の教材である。
また、コロコロコミックなどで連載されていた漫画のドラえもんについて言えるのは、F先生は時にとても良いことを言うが時にとてもブラックなことを言う、ということ。たとえば、ジャイ子が「どれもこれも、プロのまねじゃないの。私の描きたかった漫画はこんなものじゃないんだわ」とか、ドラえもんが「君は勘違いしているんだ。道を選ぶってことは、必ずしも平坦で楽な道を選ぶってことじゃないんだぞ」などと名言を言うこともあれば、ジャイアンが「逆らうものは死刑。アハハ、良い気持ちだ」とか「お前のものは俺のもの。俺のものも俺のもの」など、ありえないほどヤバいことを言う。
F先生が存命中は良い世界だった。F先生が死んだぐらいから、世界が急速につまらなくなった。Androidどころか、藤子・F・不二雄が死んで以後の日本の時代は、本当に無意味かつ無価値である。
藤子先生の素晴らしい点は、とてもたくさんの資料を調べながら、たくさんの夢あふれる秘密道具を作ったこと。テレビで先日ドラえもんの特集を見て、「現代科学ではドラえもんの道具がこんなに実現が近づいている」という番組をやっていたが、現代の科学はドラえもんの道具のほんの始まりをやっている。藤子先生の書いたドラえもんの道具の、足もとにも及んでいない。特に、「世界のどこにでも行けるどこでもドアができた」といって、ただGoogleで写真を検索して表示する小さなドア型の画面を紹介していたが、ただの写真ビューアである。ドラえもんの道具ははるかに進んでいる。また、一流の科学者や研究者も、ドラえもんの漫画を参考にして開発を行っていて、たとえば何でもつかめる「ドラえもんハンド」がその例である。藤子先生はとても高い境地に達している。現代の科学技術はまだまだである。
ただし、このドラえもんの番組(ドラえもんなのにNHKの番組)は、決して馬鹿な番組でもつまらない番組でもなく、ドラえもんの漫画にでてきた秘密道具と現代の科学技術をよく調べていた。たとえば、オルフェウスという自動作曲ソフトウェアは、歌詞となる文章を入れると曲の作風(リズム感など)とコード進行と日本語の抑揚から、わずか1秒未満で自動的に作曲してくれる。とても優れた技術である。また、タケコプターは頭につけると首に力がかかり、体がタケコプターの回転と逆回りに回転してしまうが、これを足にドローンのような形でプロペラを取り付けて、既に空を飛んでいる人が居る。また、人間操り機と呼ばれる他の人間の体を操ることができる技術は、ロボットのような装置を体につけてある人の体の動きを遠隔操作する機械を作っている人が居る。また、水を酒の味に変える粉末状のアルコール(でんぷんを酒に混ぜて蒸発させ粉末状にすることで実現)とか、背景の映像をプロジェクターで映すことで実現する透明マントとか、自分ではない別の声でしゃべることのできる技術(おそらくボーカロイドのように実現しているのではないかと思う)、あるいは他人の今いる場所を追跡してモニタリングする技術はGPSで実現できる。だが、F先生のすごいところは、単なる便利な道具を作っただけではなく、「どのようにすればその道具を上手く使えるのか」(どのように使ってはいけないのか)まで考えるところ。たとえば、邪魔者を最初から居なかったことにできる「どくさいスイッチ」などがその例。のび太はジャイアンにいじめられて、ジャイアンを最初から居なかったことにする。ジャイアンは世界から消えてしまう。ひとりひとり邪魔者を消していくのび太は、最後に人類全員を消してしまう。ひとりも人間が居なくなった世界で、のび太は「ひとりでなんか生きられないよ」と絶望する。そんなのび太に、優しく諭す声が聞こえる。それは、ドラえもんの声。ドラえもんはロボットであり機械であるため、人類を消しても消えずに残っていたのである。
なぜ、F先生がこんなにも発想でき素晴らしいものがたりを描けるのか。藤子・F・不二雄ミュージアムでは、F先生のたくさんの資料を棚に配置したF先生の仕事場が展示されている。そこには、生物図鑑、科学、宇宙、歴史、文学、はては落語のCDや恐竜図鑑のようなものまで、ありとあらゆる森羅万象の資料がものすごく大量に置かれている。F先生はこれらの資料を元に、ドラえもんを描いたのである。
また、F先生は子供たちとの対談で、「藤子先生自身が願いを言うとしたら、何を叶えてほしいですか」と子供たちが尋ねると、「アイディアがたくさん浮かぶ力」と「絵をすらすら描ける力」と笑顔で話した。F先生はあれだけの作品を描いて、なお「ドラえもんをもっと描きたい」と話したのである。
2020-03-20より。
最近、ドラえもんにハマっている。それもインターネットで見れる漫画ドラえもんが最高に面白い。
ドラえもんの漫画は、Google画像検索などでコマを見ているだけであり、海賊版サイトなどは見ていない。
ドラえもんの情報として、ドラえもんは「ジャイアンやスネ夫にいじめられるのび太に対して、ドラえもんが道具を出し、それはある程度問題を解決するが、使い方を誤って間違ったことに道具を使い、しっぺ返しを食らう」という、典型的なプロットがあることを知った。
そういえば、今まで読んだドラえもんはどれもそんな感じである。
また、最初のうちはドラえもんはギャグ漫画だった。「日本一のギャグまんが ドラえもん」と呼ばれていたようである。
藤子不二雄は映画化の話が出た時、当初は「自分は短編作家だから」と断ったが、短編の「のび太の恐竜」の続きを書いてほしいという提案に対して「それなら描けます」と言って大長編と映画のドラえもんが始まった。要するに、藤子の答え次第では映画ドラえもんは無かった可能性の方が大きかった。
また、ネットでは「原作ドラは傍観者、大山ドラは保護者、わさドラは友達」といったところがあるようである。僕も最近のドラえもんは子供っぽくなっていると思っていたが、ファンの間では「むしろ良くなった」とする意見もあるようである。
自分の書いた「ニュース - 2021-05-第二週」2021/05/05より。
僕が、映画ドラえもんを最初に見たのは、テレビのドラえもんの大型特集番組か何かで、雲の王国を見たのが最初であったと思う。
僕が映画ドラえもんでもっとも好きなのは宇宙小戦争だが、それに次いで、僕はこの雲の王国という作品が好きだ。
今日は、たて続いていた「史上最難関クラス」のデザインの仕事を終えて、仕事が少なかったため、空き時間にインターネットでドラえもんの情報を見ていた。
ここで、僕は、F先生の書く雲の王国の実際のシナリオを見て、あまりのストーリーの巧みさ、賢さ、そして悲しさに、感動して泣いてしまった。
雲の王国という作品は、「雲の上に自分たちの王国を作ろう」という前半の無邪気なストーリーに反して、ものすごく怖い、トラウマになるかのようなシーンが多く、また環境問題のメッセージ性がとても強いため、「説教臭い」と言われて、よく「ドラえもんの嫌いな映画ワースト」に入ってくるような、賛否両論のある作品だが、僕は大好きである。
僕が覚えていたのは、ドラえもんが壊れるシーン(天上人に出会ったドラえもんたちは、宿泊施設での待遇に違和感を感じて脱出したが、それぞれが離れ離れになり、また雷に遭遇してドラえもんが故障してしまい、パーチクリンな壊れかけのロボットになってしまって、のび太の保護者のような関係だったドラえもんが、逆にのび太に介護される側となり、のび太とドラえもんの関係が逆になる)とか、ノア計画(天上人は地上人の環境破壊のために絶滅の危機に追いやられており、天上人は地上人に復讐するため、のび太の家を含む地上を大洪水で流してしまい、文明を消し去って最初の原始文明に戻す)といったところだけだった。
しかしながら、ネットを見ていると、パラレルワールドを上手く使った展開(どこでもドアは10日後に時間設定されており、のび太の見た大洪水の景色は10日後の世界だった。ドラえもんの故障は洪水のふとしたショックで直る)とか、力には力(天上人と地上人の裁判で、圧倒的不利になった地上人側のため、ドラえもんは雲戻しガスを使った、実際には使うつもりのない最強の兵器を作り、対等に話し合いをするために「僕たちの側もあなたがたの世界を一瞬にして破壊できる」と主張する)や、それが招いた惨事(ドラえもんの王冠が悪い密猟者に奪われてしまい、天上人に対する攻撃を正当化して、同時に絶滅動物の密猟を狙い、最強兵器が実際に使われてしまい、天上人の一部の州が消滅する)、そしてドラえもんの責任の取り方(責任を感じたドラえもんは、弾丸ミサイルのような特攻をして雲戻しガスの入ったタンクに突っ込み、自らが作った雲の王国を完全に崩壊させ、自らの王国をなきものにしてもう一度壊れる)、といった、とても悲しいシナリオがあることを知り、僕は最後のドラえもんの悲しいシーンを思い出して泣いてしまったのである。
また、この作品は、例外的に漫画ドラえもんのキャラクターが再登場する。キー坊というキャラクターは漫画ドラえもんで過去にのび太が助けたキャラクターであり、このキー坊が最後に地上人を擁護する。
しかしながら、こんなに考えられた、素晴らしいシナリオを書けるF先生はありえない。偉大を通り越して、わたしには神にしか見えない。
オープンソースとか、大学とか、そんなものはまったく賢くない。F先生のような作家にならなければならない。僕は、そう決断した次第である。
後日注記:ドラえもん雲の王国のあらすじは、実際の映画を見ずにネットのシナリオだけを見て書いているので、なにかしら間違いがあるかもしれない。真実は自分で映画を見てお確かめください。
後日注記:雲の王国が駄作だと言われたのは、未来のことをあまりに克明に書きすぎたからかもしれません。「のび太の家が大洪水で流される」「人類が制御できないほど巨大な力を政治利用した時、自分自身がその力によってしっぺ返しを食らう」「天上人すなわち神が人類に復讐する」といった描写は、あまりに未来のことを言い当てすぎていて、また、「このような未来になってしまうかもしれないから環境保護をしなさい」と言われるのは、映画を見ている子供たち自身が「今の素晴らしいこの現代社会は間違っている」と言われたような気がして、「説教臭い」と感じてしまったのです。また、このような過激な描写は、子供たちの保護者などからも「子供に見せるのは不謹慎だ」と言われかねません。今のアニメ業界では、このような過激な描写はもうできないでしょう。
後日注記:ドラえもんなどSF映画について言えるのは、パラレルワールドを持ち出すことです。雲の王国では、作中でのび太が「もし人類に未来がないのであれば、どうしてドラえもんが未来からやってきたのだろう」と疑問に思うところから、ドラえもんが反撃します。このような「なんらかの矛盾を上手く使う」というのが、ドラえもんはとても上手です。逆に、エンディングが馬鹿であると言われるのは、納期が迫っていたりするなどの関係から、「適当に矛盾を使って簡単なエンディングをでっちあげている」からではないでしょうか。納期が迫ってくると、もはや完成させなければならないため、F先生は最後の手段として、矛盾を上手く使って適当なエンディングにしているのだと思います。
なぜ、ドラえもんが、ここまで国民的なアニメになれたのか。
それは、秘密道具が出てくる時の、効果音にあると思います。
ドラえもんでは、のび太が「ドラえもーん、何か道具出してよ~」とドラえもんに頼むと、ドラえもんが大山のぶ代のだみ声で「スモールライト!」などと言いながら、効果音が「パンワカパッパッパー」という感じで流れます。
この効果音が、とても分かりやすかった、そして面白かったということに、ドラえもんのヒットした理由があると思います。
同時に、当時のアニメスタッフも、視聴者も、みんな純粋な心を持っていて、そのような「単純な面白さ」を愛していたということがあると思います。
今、当時のドラえもんと同じことをやっても、きっと純粋な心を失った今の日本国民には、同じようにはウケないでしょう。ドラえもんのような作品が再び流行することは、もう二度とないのではないかと思います。
むしろ、今の世界を見ていると、ドラえもんの作者であるF先生が亡くなったあたりから、本当に少しずつつまらない世界になってきています。
当時、ドラえもんの映画に対する子供には、「絶対にF先生は裏切ったりしないだろう」という、確信に満ちた期待がありました。
同時に、ドラえもんの映画だと言うだけで、「絶対に面白いやつだ」という確信があり、見ていると、シナリオは単純で、子供にも分かりやすく、演出が上手いせいで、よく考えるといつも同じワンパターンなシナリオなのに、その結末を待ちながら映画を見ていること自体にワクワクドキドキし、見終わるとなぜかとても悲しい「またドラえもんが終わってしまった」という気持ちになります。
そして、コロコロコミックなどで次回作の話題が出ると、「次はどこに行くのだろう」という期待と、「もっと早く見たい」という待ちわびる気持ちがありました。
驚くべきことに、こうしたドラえもんに対する子供の期待は全国で小学生などに共通であり、すなわち、「みんなドラえもんに多くの期待をしていた」のです。
当時は、ガンダムとか、ジブリとか、男はつらいよとか、ほかにもたくさんの「期待できる作品」がありました。音楽なら、千秋とか、もっと上の世代向けのさまざまな音楽とか、色々とありました。ですが、ドラえもんは、その中においても「期待の筆頭」だったと思います。
そのような楽しかった少年時代の「絶対に裏切られない期待」が、F先生が亡くなったことで無くなってしまいました。最近は、ドラえもんだけではなく、ルパン三世のモンキーパンチ先生、ゲゲゲの鬼太郎の水木しげる先生、アンパンマンのやなせたかし先生、ちびまる子ちゃんのさくらももこ先生、どんどん素晴らしい先生が亡くなってしまいます。手塚治虫も赤塚不二夫も渥美清もはるか以前に亡くなられました。つい先日、ゴルゴ13のさいとうたかを先生も亡くなりました。なぜ、こうなったのか、この現象はなんなのか分かりません。日本は急速につまらなくなっています。
むしろ、当時は少し、面白いものが多すぎたのかもしれません。テレビゲームなら、ポケモンやドラゴンクエストやファイナルファンタジーなどのシリーズがあり、これらの新作が、待ちわびるほど楽しみでした。また、映画はスターウォーズやスピルバーグ作品、あるいはディズニー作品などがあり、僕はバックトゥザフューチャーをテレビで何度も何度も見て好きになりました。僕はまだ幼かったため、記憶があいまいですが、鳥山明のアラレちゃんやドラゴンボール、高橋留美子のうる星やつらやらんま1/2などは金字塔だったのではないかと思います。
亡くなった人を挙げていくときりがありませんが、ほかにも志村けんや田村正和などが亡くなったのは記憶に新しいところです。大橋巨泉も亡くなりました。また、IT業界で言えば、なんといってもスティーブ・ジョブズが亡くなってしまって、IT業界そのものが本当につまらなくなりました。
僕が考えるに、ドラえもんの面白さは、その世界観描写にあると思います。
恐竜から始まった映画ドラえもんは、その後に、魔界に行ったり、ロボットの世界と戦ったり、あるいは宇宙の小人の惑星で少年の大統領のために戦争をしたりします。
このどの作品であっても、その世界観の描き方が卓越していて、子供にも分かりやすいのです。
たとえば、魔界大冒険において石ころ帽子を使ってそれぞれの姿が見えない中で一歩一歩魔界の荒野の中を進んでいくのび太たちの描写、あるいは鉄人兵団でロボットたちと山びこ山を使って自分たちを多勢であると偽りながら鏡面世界で戦う描写や、リルルを包帯を巻いて介抱する描写、日本誕生で雪山をひとりで遭難し彷徨うのび太がラーメンのおつゆの幻覚を見る描写、あるいは宇宙小戦争で戦争に向かうことを怯えたスネ夫が見せる「女の子だけを戦争に向かわせて、自分がそこからひとり逃げ出したりなんてできない」という男らしく勇敢に戦いに向かって戦車に乗り込む描写など、すべての描写が、映画の中でありありと見せられ、引き込まれていく感じは、子供にとっては不思議と驚きではないものの、なんというかその情景を脳裏に刻み付けるような、強烈さが存在するのです。
だから、たとえばアニマル惑星でピンクのガスに迷い込むとニムゲの星に行ってしまう描写や、パラレル西遊記でのび太のママが妖怪になってしまう描写などは、本当に怖くて、絶対に思い出したくないトラウマを作ります。
そのような「強烈な描写」があり、その意味や意義が子供にとってはただ「面白い」というだけであっても、大人になるといかに多くのことをF先生に学んだのかということを知り、大人になって再度感動したりということが味わえるのかもしれません。
ネットでは、魔界大冒険を推す声が強いようです。石になったドラえもんとのび太の意味がストーリーが進まなければ分からない点や、満月美夜子が猫になるのが単純に可愛い点、大魔王が簡単には死なない点、メドゥーサが恐ろしすぎる点など、たくさんの面白いポイントがあります。また、僕は子供心に海底鬼岩城が好きでした。バギーの特攻は絶対に泣くしかありません。バギーが単なる機械だったとしても、人間と同じです。
ここまで、映画ドラえもん(大長編ドラえもん)の話をしてきましたが、ドラえもんの真の面白さは、映画でもテレビアニメでもなく、漫画にあると思います。
ドラえもんは、原画の中で登場人物が面白い表情と台詞を言うところが、一番面白いです。
たとえば、Google画像検索で「ドラえもん 漫画」と検索してください。ドラえもんの名言や暴言とともに、めちゃくちゃ面白いドラえもんの「まさに傍観者」という一コマを見ることができます。
まさに、藤子・F・不二雄先生は漫画家です。最高に笑える、そしてとても深い、素晴らしいコメントを登場人物が喋ります。そして、登場人物の表情は、「ユーモアがある」という言葉だけでは伝わりません。F先生は最高の画家だと思います。
2020-03-10より。
あなたとわたしの心はここに重なり合って溶けていく。全てを、神の秩序に染め上げる僕と、それを観客のように見つめるあなたは、僕のこの些細な言葉によってひとつになる。そして、その時間は僕よりも速く、時には僕よりも遅くなって、「本当のスピードは違えど、実質的な速度はみんな同じ」になる。僕たちは同じ道、同じ人生、同じく描いた未来の想像図を共有する。
そう、これこそ、新しい「未来予想図」である。僕たちは互いに離れていても、同じ道と同じゴールに向かって、一緒に歩んでいる。どんなにそれが迷子の状態であっても、僕たちは迷子の中で同じグループに居る。運命共同体の僕たちは、喩えるならドラえもんとのび太とジャイアンとスネ夫としずかちゃんである。もし、途中でタケコプターが壊れてしまえば、僕たちはみんな一緒に何もできなくなって、恐竜の時代から現代には戻れなくなる。それを覚悟できるならば、僕たちは一番強い。ドラえもんの秘密道具は、全てこの文章が未来において作り出すものである。僕たちはロビタという機械を、もっと子供っぽいデザインに改良した。初期の「ドラえもん」は猫型だった。アッシーとレオは、どちらも猫の名前だから、デザインはトラ猫が相応しい。猫耳がなくなったのは、僕たち以外に人類が居なくなって、他の人間の声を聞く必要が無くなり、また、めんどくさくなったからである。猫耳があると、ドラえもんの頭をころころと転がす時に邪魔になる。単純な球の方が、工場でも作りやすい。
また、ドラえもんのデザインは素晴らしいものである。まず、色が青である、ということ。多くの生物が青以外の色をしているため、「生物ではないロボットである」ということが分かりやすく、目にもつきやすい。また、四次元ポケットの周りだけが白いのは、「ポケットが中心にありここを操作すればいい」ということが分かりやすい。これはWindowsのスタートボタンが使いやすいのと同じデザインスタイルである。そして、ドラえもんには手足があるが、どちらも単純なお饅頭型をしている。これは、人間と同じ手足が必ずしも必要でないことを示している。ロビタにも足はなかったが、ドラえもんは歩く必要がある。それは現代の家屋は二階建ての階段が多く、ドラえもんは家の中で使うことを前提としている。また、手は「今の科学技術ではまだ発見されていない物理的な力」を用いて、どんな秘密道具でもひっつくことができるようになっている。
ドラえもんの「ポケットと秘密道具」というスタイルは、OSのカーネルとユーザーアプリケーションをそのまま継承している。ドラえもんがカーネルであり、ポケットがデータベースであり、その中にある道具はフロントエンド・アプリケーションである。実際のところ、ドラえもんの秘密道具の多くは、単に形がある模型のような素材の中に、複雑なプログラミングを行ったチップを搭載して作る。ひとつひとつの秘密道具が小さなマイクロコンピュータであり、外部の操作に応じてイベント駆動で処理を行う。そして、物質とコンピュータ世界を結びつける「物理情報工学」の技術を用いて、秘密道具はこの現実世界と関わり合う。そのような内部の仕組みがあるから秘密道具は面白い色んなことができるのである。あえて言えば、今のコンピュータとは違う考え方である、「物理的な新しい中央処理技術」を使っている。この「次世代IC」を使えば、計算をする以外に、現実のものや空間などに対して、さまざまな「魔法のようなありえないこと」を現象として発生させることが可能になる。これが21世紀の未来デパートの裏側にある技術である。
2020-03-12より。
今からの日本と世界は、厳しい状況に置かれるだろう。温暖化による異常気象で、台風や巨大地震が発生し、夏は暑くなり、大雨やゲリラ豪雨により川が氾濫する。また、新型コロナウイルスによって、オリンピックの開催も危ぶまれるだろう。だが、日本は滅びない。僕が居るからである。世界中全員を、自分のことのように愛し続ける僕の巨大な愛は、この世界全体へと広がっていく。全員がこの愛によって正気になり、今までの間違った資本主義も社会主義も全て消え去り、本当に平和で健やかな王国が生まれることだろう。僕はその王国を築く使命がある。そう、僕の手によって、天国は訪れる。その天国は寝る時に見る夢の世界であり、多くは変わらないが、物理現象の中で原子と電子にまつわる電磁気と力と熱のエネルギーの方向や変化を支配し、周りの空間と物体に作用することのできる「新しい中央物理処理装置」がさまざまなことを可能にする。全ての物理現象を操作することのできるICチップの上で、人々は新しい「プログラミングのようなソースコードと言語記述によるドラえもんの秘密道具のような機器の開発」を行う。夢で起きるありえない現象は、全てその「次世代ICチップ」によって可能になるだろう。私たちは遠い未来ではなく、近い未来に、夢とドラえもんの世界を実現するだろう。
ドラえもんは、誰もが憧れる「作家にとっての夢」です。作家は、誰もがドラえもんのような作品を自分でも書いてみたいと、一度は憧れるものです。
ですが、実際のところ、映画ドラえもんは難しい作品ではありません。
なぜなら、どのドラえもん映画にも共通しているポイントは、「キャラクターと漫画設定をドラえもんにすること」「悪人を倒すこと」「テーマを決めること」だからです。
実際のところ、漫画設定をドラえもんにするところが一番重要です。ドラえもんというロボットが居て、秘密道具を使うことができて、ドラえもんの友達五人組(のび太、ドラえもん、ジャイアン、スネ夫、しずかちゃん)が居なければいけません。
ですが、あとの設定を見ると、むしろ、「悪人を倒している」というところが重要でしょう。ドラえもんだけでなく、ガンダムやドラゴンボールも、単に「悪人を出して、それと戦う」というところを、単純に戦うだけではなく、ストーリー仕立てで巧みに書いているところが面白いのです。
そして、最後に、テーマを決めます。恐竜ならば恐竜のものがたり、鉄人兵団ならロボットの物語にします。
そして、ドラえもんという漫画で、テーマは恐竜で、悪人と戦う、というところが決まれば、あとはそれを書くだけです。もっとも面白く、夢憧れる場面やハラハラドキドキする場面や奇想天外な場面をいくらでも作ればいいのです。
そう、映画ドラえもんは決して書くのが難しい作品ではなく、漫画ドラえもんを毎週のように書いているF先生の頭脳があれば、長い年月に渡っていくらでも量産できるぐらい書きやすいアニメ映画なのです。
僕はこう見えて映画ドラえもんの音楽が好きです。僕はドラえもんの音楽のアルバムは「映画ドラえもん25周年 ドラえもん映画主題歌篇」を持っています。
中でも好きなのは、海援隊の「少年期」です。足を骨折して病院に入院していた時、いつも聴いていて、歌詞を全部覚えてしまいました。
以下は武田鉄矢による映画ドラえもんの主題歌。
歌手(旧世代・昭和)も参照のこと。
2024.08.13
2024.10.05編集
2024.11.04編集
2024-03-28、2024-06-05に関連する内容があります。
死んだ大山のぶ代さん(昔のドラえもん役の声優)について言うと、いろいろと辛いことばかりの人生だったでしょうが、天国でようやく藤子・F・不二雄先生に会えて、嬉しいでしょう。夫とも再会できて、F先生といつまでも天国でドラえもんを続けてください。
本当に、僕の人生にとってもっとも素晴らしい時代を作ってくれて、大山のぶ代さん、そしてF先生には感謝しかありません。いずれ僕が死んだ時、少しだけ出会いの機会があれば、よろしくお願いします。
大山のぶ代死去については2024-10-11に関連する内容があります。
2025.01.11編集
書籍