新・日記に戻る | 2016年10月の日記に戻る

=2016-10-22=

昔は、段階のようなことを良く知っていた。社会的、心理的な、段階的普遍性のようなものを、客体化して考えていた。

神との対話をしていた頃、宗教的に宇宙の真実を考えていた。ドイツやイスラムなどの対話的知識から、宇宙と人生のことを知り、考えた。

「全ては経験である」のように、経験的に世界観のことを考えた。

一行で、作って書いて良く分かる、そんな具体的で網羅的な「頭の中で分かっている」文章を書いていた。

ウィトゲンシュタインのように、仮想的哲学命題を、心の中で共有して考えていた。

自分がしていることに対して、みんなに配慮しているのがおかしい。それが辛い。それは、テレビの情報をシャットアウトすれば、楽になる。

人間のことや意識のことを、感覚的に、心を変えながら根源的に分かっていた。そういう、「感覚」の物理学者の心理学者だった。

頭は、構造を減らすより、構造を増やした方が良い。何でもかんでも消していると、日本語すら分からなくなる。

僕は、人間の前は、猫だった。その前は、牛だった。

猫は、馬鹿だった。神とのメッセンジャーの方の自分をやっていた。

牛は、強かった。GNUのヌーのような、プログラマーの方の自分をやっていた。

牛の前は、カエルだった。その前は、魚だった。その前は、蝶々だった。その前は、カブトムシだった。

そして、その前は、神の一部の光だった。神から、そういう生命が生まれた。

世界観は、人生的、経験的な、この世界を言い表すような自然な世界観の言葉を書いていた。

人間社会は、愛から始まり、自由へと向かう、それぞれの出来ることと想像力による、社会的生成の経験である。

多様性は、それぞれに出来ることを許すこと、可能にすることであり、個性と思いやりと協力の可能性から、正しい多様な土壌が生まれる。

そういう、一行で人生の世界観を言い表すような文章を書いていた。

全否定や完璧主義は良くない。この馬鹿みたいな文章を書いて、辛いのがつまらないのは分かるが、全否定は良くない。

何もしなくなって楽になる、完璧主義の治癒は要らない。

それに、今という時間や最近という期間を全否定するのはおかしい。

まだ、書きたい間、書いていれば良い。書かなくなると、鳥取地震のようなことが起きる。

馬鹿が楽なだけだ。

賢い人間は、辛いところにしか居ない。昔から、自分は、社会の暗部のようなものや、悪い争いや、地獄のような苦しみで賢くなっていた。

そういうわけで、何も分からないところに、楽な人間が多い。馬鹿が楽なだけだ。

だから、馬鹿の方が良い。悪い社会にしか、救世主は現れない。

子供は、この世界のことを知りたい人間が多い。

子供は馬鹿だが、馬鹿だから知性がつく。推論をしたり、社会を部品化して、成り立ちを考えたりするのは、馬鹿だからだ。

そういうわけで、馬鹿になったつもりで考えると、子供のように分かることが出来る。

子供には、疑問に思う気持ちを持たせて、色んなことを自分から試させて、実験や観察をさせると、賢くなる。

糖尿病になったら、頭の活動を減らしなさい。頭でいくらでも考えていると、体の神経や精神が疲れてしまって、本当に辛くなる。

自分は、書かなくてもすぐに辛くなる。頭を使うのではなく、体を使うようにすると、糖尿病は楽になるだろう。

この世界は、そろそろ、全員死ぬ。何故か、僕は、生き延びるが、猫になってしまう。ただ、それは信じたくない。

最近の子供は、悪いことをしない。悪いことをしないから、親も叱らない。それで馬鹿になる。

昔は、良く叱っていたから、賢かった。それは、悪い社会だったからだ。

自分は、この社会を全部作り変えるのは良いが、それはやめた方が良い。

最近は、正常な社会に治して、作り直したいと思っているが、それもやめた方が良い。

そういうことは、しない方が良い。ただ、一度支配したのに、何もしないのは悪い。そういう、支配するのに何もしない、日本一の無責任男が自分だ。

ただ、自分はあまり無責任ではない。きちんと、努力してこの文章を書いている。賢い人間に見えて、良い。

無責任なのは、この文章の形式が無責任だ。全部出来るのに、自由にするせいで、みんなどんどん混沌の極みの世界になっている。

何もやることがないから、少し休みたいとは思うが、むしろ、きちんと責任をもって支配すると、安心出来るようになる。

もう少しの間、この文章が少し分かる間、その支配が続く。支配と思わず、楽しい友達との会話だと思うと良いだろう。ツイッターでもやれば良い。

環境での意識、考え方による科学、精神分析、体得と実感による社会の理解など、そういう、哲学的真理のようなものを、書いていない。

ただ、おそらく、これくらいしか考えていない。あとは、努力したり、出来るようになったりして、色んなことをしていた。

最近は、何もしなくなった代わり、この文章を書くようになった。書き出すと止まらない。辛いからやめたいのは当たり前だが、書きたくなるのも当たり前だ。

悲しくはない。ただ、ケミストリーが言うように、みんながどこかで反すれば、それで終わりだった。こんな、長い地獄の戦いを、しないで済んだはずだ。

地獄は本当に多かったが、全部自分が作り出した地獄だ。作った自分が拾わなければ、誰も拾わないだろう。

説明とプラットフォームの能力的な科学を作っていた。アイデンティティの経済学を作っていた。そういう、真理のようなことが、いくらでもあった。

普通、人間は、「しなければならない」と「してはならない」で分かる。そういうわけで、行動的な人間が分かる。

だが、ある意味、思考をいくらでもしなければ分からない。受動的な人間は、そういう人間が多い。

だから、事前に考えて、悪いものを否定する人間にしか、分からない。悪いものを否定すると分かる人間が多い。

自分は、そんなに悪いものを許すせいで、馬鹿になった。悪いものは悪いのが分からないと、何も分からない。

生物学や経済学は、カントのように「科学的手法」から考えると、全部自分で作れる。アリストテレスに近いが、昔は「自由」からそれを分かっていた。

正しい考え方で考えれば、何でも分かる。その「正しい考え方」すら、考えて自分で作る人間が多い。

そういうわけで、全部知っている人間が、大人に多い。きちんと勉強して、分かって、頑張って、賢くなって、知識と良識を知る人間が一番多い。

昔は、馬鹿な考え方を良く考えていた。

例えば、「生命は生命からしか生まれないのか」のようなことを考える。そうすると、生命の前の生命が居ることになる。

それから、「最初から大量の富を与えるために、みんなが計画経済で働く国は出来ないか」を考えた。それなら、社会所有の方が豊かな国になる。

もっと、自由な考え方や、経験に裏打ちされた思考を、良く考えていた。もっと、考えれば良い。

自分は、賢いのは分かるが、時々ぞっとする。そういうところが怖いのが、キリスト教の天使だ。

FedoraでWaylandが採用されるらしいが、僕は、古いものが無くなって、合理的な新しいものになるのは良いと思う。

ただ、UNIXで古来から伝統的に続いている、X11が無くなるのは、寂しい気もする。

X11が無くなった時点で、UNIXではないような気がする。ただ、GNOMEを標準に採用している時点で、あまり意味はないと思う。

Waylandについて全く知らないから、何が良くなるのか分からないが、高速化して、安定化して、設定も簡単になるのかもしれない。

ある意味、Red Hat LinuxがFedoraになったのと同じで、Linuxの歴史の1つの節目になる可能性はあるかもしれない。

systemd(新しいサービス管理プログラム)は、批判が殺到しているらしい。最初の設計が馬鹿だったと言うことだが、Waylandに批判は多いかもしれない。systemdのことを良く知らないから、あまり言えない。systemdが何なのかも分かっていない。

ただ、Linuxカーネルがモノリシックカーネルであるように、Linuxは最初からお遊びのようなプロダクトだ。お遊びで結構だ。

最近は、Linuxや科学や政治に意見を言うが、昔は、人生や社会に対して意見を言っていた。それも、「ダイナミックな社会になれ」とか、ありえないことを言っていた。

これでは普通の内容に見えるが、昔の文章は、ありえないほどおかしくて、辿って壊して分かる、キモい文章だ。

ある意味、Waylandになると、使えるデスクトップ環境の種類が減るのかもしれない。それで、誰が対応するのか、良く分からない。

それこそ、オープンソースの問題は、「仕様や共通ルールがある程度定まっているものしか、開発出来ない」ということだ。パクリしか出来ない集団だ。

Waylandを標準にした時、Waylandの仕様をどのように標準に定めていくのか、興味深い。Mozillaのように、IT業界全体の規範を向上するものになってほしい。

ただ、一時的にバグだらけのものになって、まともに動かないものになるかもしれない。Linuxが、日常に使えるわけがない、良い例だ。克服を頑張ってほしい。

今、WaylandのWikipediaの記事を読んだが、恥ずかしいことを書いたかもしれない。Waylandで、設定が簡単になったりはしない。新しいXサーバーというわけでもない。

動画などを見ていると、おそらく、のっぺりとした低速動作による使い勝手が、高速になるのだと思う。

Waylandの仕組みは、以下に簡単な概要が書いてあった。

http://d.hatena.ne.jp/devm33/20140414/1397473785

また、以下に印象的な動画へのリンクがあった。

http://futurismo.biz/archives/3099

動画を見ると、Xの衝撃的な遅さが分かる。のっぺりして、本当に遅すぎる。あれが改善するなら、みんな使うように見える。Red Hatはそのために開発しているのだろう。

昔から、自分は必然的な「決まり」とそのための「方法」を考えるが、ある意味、それは同じものだ。経験と認識も、ある意味同じだ。

今、Waylandの動画をもっと見ているが、これは、Linuxは高速化すると思う。WaylandでLinuxは変わるかもしれない。

.NET Coreと言う、LinuxでWindowsの.NETコードが動く、と言うニュース記事を見た。

僕が思うに、マイクロソフトは、そのうち「LinuxをWindowsの中に吸収させる」と言うことをやり出すと思う。

本当に、Linuxが良くなるのであれば、Windowsにも吸収されて良いか、と言うと、それは難しいかもしれない。だが、MSは本当にやると思う。

あまり意味がないが、MSはクラウドでもLinuxを支持するようになって来ている。既に敵ではない。それに、GNUのおかげで、Linuxが消滅したりする可能性はないだろう。

あとは、Linuxがオタクの遊び道具だった時代は、既に終わっている。Red Hatが儲けないと、Linuxは良くならない。Ubuntuも、クラウド版を第一に考えている。デスクトップなんか、どうでも良い。デスクトップLinuxは、本当におかしな人間しか使わない。まさに、それが今の自分だ。

ただ、Red Hatは好きな人間が多い。Red Hat Linuxの時代から、ディストリビューションの事実上標準だったし、色んなオープンソース・プロジェクトをやっているし、コミュニティに対する信頼もある。Red Hatが勝っていると、Linux企業が勝っているように見える。UbuntuやGoogleの方が嫌いな人間が多い。Red HatはGNU本来の伝統的な思想を忠実に守る。Ubuntuは、時にコミュニティに反することがある、という認識があるかもしれない。Googleは、オープンソースでないプロジェクトの方が多い。それこそ、オープンソース・ソフトウェアで「Googleアカウント」を登録して使うのは、何かがおかしいような気がする。あとは、SUSEなんか何も出来ていない。ただ、DebianとRed Hat、GTK+とQt、GNOMEとKDEが対立するのは、昔からの伝統的な対立だから、いつまでも続けばそれで良い。EmacsとVimの論争と同じだ。C++とJavaとPerlの戦いだと思えば良い。

トップページの広告を減らした。これなら、軽くて見やすい。そんなに儲からない(今のところ、20ポイント=10円しか儲かっていない)から、それで良い。

Debianのパッケージ管理システムは、単なるソフトウェアのインストール手段ではなく、設定から管理まで、あらゆることをこなすことが出来るものに出来るかもしれない。

ネットを見ていると、僕のミカエル ◆ebgHt4B05Aというトリップで、僕ではなく、とんでもないことを言っている人間がいる。僕は、イエローハットのようなスレッドに書いていない。

つまらない。不思議と、そんな風になるのが怖かった。