新・日記に戻る | 2016年10月の日記に戻る

=2016-10-18=

昔は、それを見ている自分の側にそれがある、と考えて分かっていた。

対象は、それを見ている、自分の側にある。捉え方や習慣も、同じだ。

そこから、心の像のようなことを考えていた。

また、見え方やどう見られているかを考える。

見え方のフィルターや、「それがどのように見られているか」などをいつも書いていた。

治さず、消せば治る。

戦わず、愛を信じれば分かる。自分は、愛を否定して、自由な戦いや反抗を信じるのが悪い。

自分が愛を否定して、自分が愛を言うのも悪いが、それが一番間違っている。

キリストの言うように、戦わず、愛を信じること。

ある意味、人間の「賢い精神」は、愛を信じることから生まれる。ブッダの言っている真理も、愛の精神の中にある。

そして、慈愛と慈悲の精神で、人々や社会や未来を愛すること。そういう、「愛の衝動」が昔の自分の文章に多かった。

自分は、世界を変えられる、と思うのがおかしい。それで、みんなと同じ視点が分からなくなっている。

この世界は、簡単には変えられない。だが、そのために、良い世界になってほしい、と言う、希望が生まれるのだ。

昔は、自発的に考えるとか、自発的に自由にするとか、「自分の善意から自発的に良い社会環境を作る」と言う発想が多かった。

自分は、脳の使い過ぎで、糖尿病になっている。

脳は、糖を使って活動する。脳を常に使い続けていると、糖尿病になる。

糖尿病は、体の疲れを引き起こして、何も出来ないぐらい、精神的にも肉体的にも、疲労するようになる。動脈硬化も引き起こす。

賢いのが悪いから、賢いのをやめた方が良い。自分は、四六時中、限界まで脳を使っている。糖尿病にならない方がおかしい。

怖いのは、昔の自分が怖い。それも、青少年時代の、性的抑圧が悪い。フロイトの言う通り、こういう人間が狂う。

自分は、戦争や革命のような体験のせいで、PTSDになっている。

本当に怖かった。

もう、過去のことだから、忘れた方が良い。

自分のおかしな点は、それで、この文章を書いて、過去の自分を思い出している。怖いのは、その過去の自分だ。

昔と文章が怖い。その裏側にある、性的抑圧とPTSDの原因の戦争が怖い。

もう、昔は忘れた方が良い。馬鹿になったのは治らない。もう一度、子供時代を最初からやるしかない。子供は何もすべきでない。

自分は、そんなに何もかも完全に昔になるのが怖い。それが、うつ病と戦争の地獄なのがおかしい。

認知症とは、昔の自分のことを言う。

文章は、全ての本質をつかんだような文章を書いていた。ヘーゲルやロックのような、経験論・人生論・理性論だった。

最近は、文章を書くと治る。不思議と、文章を書くと、病気が治る人間が多い。

子供になったのは、子供をもう一度やるしかないからだ。全部、昔の時代の性的抑圧が悪い。

一度子供に戻ると、こういう完全におかしな体験をするが、そのまままともになる。まるで、虫のようだ。

足は、ブラックホールで重力を極大化する、と思えば治る。ブラックホールに押しつぶされるようにすれば治る。

だが、生態系や海や太陽でも治る。食べられる、沈んでいく、燃えていく、などでも治る。そういう風にすると治るのが、精神だ。

あとは、常識的概念を疑っていた。「生きているとは何なのか」のようなことを考える。

そういうわけで、本当にロックやヒュームのような人間だった。

怖いのは、昔の自分が怖い。経験だけではなく、精神的に地獄だった。

何も分からない中で、永遠を一瞬にしたり、頭を転がしたり、ボールが跳ね返ったり、幽霊に憑りつかれたりしているが、あれを「神」だと言っている。

もう、覚えていないが、本当に地獄のように疲れた中で頑張っていた。ロボットになって、分からない中で何とか分かった。

そこらへんが怖いだけだ。何故か、哲学の前にあったせいで、全く覚えていないのに、今でも何も変わっていない。

昔の自分のテーマは、「人生」だ。人生のようなことを、全部分かっていた。自分の人生が誰でも出来るような国を作った。

自分に出来ることは誰でも出来る、と言う信念から、「その時出来ること」を共通能力にして分かった。

そして、見方や築き方から、方法を作るという意味での「社会実現」と「社会の可能性」を考えていた。

まるで昔の社会主義者のように、「成り立つ可能性」から、社会のことを良く分かっていた。いじめの解決から国家モデルを考えた。

いじめから貧困まで、全ての社会の問題の原因は、「社会的コミュニティが無くなった」ことだ。それが、近現代の問題の共通のテーマだ。

ものや経済が成長しないなら、精神や社会が成長するしかない。今一度、「社会的コミュニティを作る努力」をするべきだと思う。

それも、学校の教師だけに丸投げするのではなく、村の村長のように、きちんとコミュニティのことが分かる人間を立てていかないといけない。

あまり言わないが、昔は、宗教、国家、人名のようなことを分かっていた。特に、バッハのような人間を神とともに分かった。

そろそろ、もう考えない方が良い。まだ続くのが怖い。そんなに昔のまま、怖いままで良いわけがない。

一度、馬鹿になった方が良い。馬鹿になると、頭が楽になる。昔から、馬鹿になりたかったのが自分だ。

自分は、馬鹿ではない。賢すぎるから、馬鹿になっているだけだ。

昔は、「社会の自然法則」や、「人生の運命的な真理」のようなものを書いていた。

社会は、「社会は移り変わる」とか、「問題は根源となる原因を解決すべきだ」とか、「全ては、自由と変化の許可と実現だ」とか、「環境は、変化を許すことで変えられる」とか、ある意味で真理や法則のようなことを、全部書く。

人生は、最後まで分かった上で、「予測は、確かになってくると、馬鹿になる。不確かな方が良い」とか、「自由へと向かっていく、愛、存在、変化、考え方、意識の発展から、自由な可能性のある人生が生まれる」とか、「人生は教え合い、助け合い、許し合うことだ」とか、「信頼は、自分から信頼することで得られる」などと言う。

そういう風に社会と人生の真理を書きながら、社会の具体的な考え方とプロセスを網羅して、創造性や体験や社会構築から、真面目に社会のことを考えていた。

あとは、体験の予測のように、行動的な真理を書いていた。

また、社会の実現のように、マクロ的な歴史を、社会の成り立ちから考えていた。

そういうわけで、ヘーゲルに似ている。ただ、ロックの方が形式が良く似ている。

自分は、もっと社会科を勉強した方が良い。歴史はやめておいて、経済と哲学をした方が良い。それが一番賢くなる。歴史はフランスが分かるだけだ。

良く考えると、あとは心理学の内容が多かった。認知や学習のようなことを言っている。

歴史は、もっとあとでやれば良い。哲学も、これくらいにしておいて、きちんと経済学をすれば良い。経済学は、良い学問だ。

あとは、「地球実存主義」のような生物学を書いていた。実際のところを、構造的な変化から、意味を成り立たせて考えた。

経済学をするための方法として、テレビを見た方が良い。本を読むより、最近はネットの方が情報が多い。それをしたくないなら、しなくて良い。

最近の日本は、自分のせいで、何もしなくて良い世界になった。自由だが、馬鹿な世界になった。

昔は、「きちんとやりなさい」と教える親が多かった。最近、自分のせいで居なくなった。

そこを、元に戻した方が良い。みんな、そのせいでおかしくなっている。

自分が言う。みんな、きちんとやりなさい。そして、認められるまで、頑張りなさい。

昔は、認められたい、と言う気持ちが強い人間が多かった。

それで、ヘーゲルのような世界に戻る。認められるために、主と奴の自由に分かれるようになる。それが、賢くて正常な世界だ。

昔の文章は、学習、発想、可能性、知性、自由、人生のようなことを言う。

言葉を構造化しながら、一行で全ての意味を言い表す。そういう文章だった。

テレビを見ていると、指導者は賢くなければ意味がない。

会を設置するのは良いが、会は機能しないことが多い。ただ、主張し、説明し、それに主張するだけだ。

指導者をきちんと賢くしなければ意味がない。ソ連の評議会組織は機能していない。イギリスの議会制民主主義も、そんなに良いものではない。

ただ、血筋で良いかと言うと、それには疑問がある。馬鹿を排除する仕組みとしては機能する。

ただ、民主主義も賢い人間をきちんと選ぶ仕組みではない。ただ、ポピュリズムに合わせて、おかしく国を破壊する。

民主主義が優れているように見えて、経済の成長のエンジンがあったから、社会主義と比べて優れているように見えただけだ。

それも、おかしいことではないが、経済が成長しなくなった最近は、大衆に合わせるより、成熟した大人の社会を作るべきだと思う。

昔は、根源的な人生のようなことを書いていた。

自分の夢と現実を比較して、素直に良いと思える方を取りなさい。

自分の経験から、人々との関係を考えなさい。

真実の経験から、社会のことを知りなさい。

夢と挑戦から、出来ることを全てやりなさい。

能力、経緯、経験、発想を吸収しなさい。

自分がしたいことをしながら、一人、同時に沢山の体験や行動をしなさい。

自分が考える内容は、空想し、実地的に社会を知り、人間の環境を考えなさい。

経験を考えることで、全ての哲学と人生論を知りなさい。

知り尽くすことから、体得しなさい。

本当に夢見たことのために、自分が「出来た」と実感するまで、諦めずに取り組みなさい。

昔は、そういう、人生を体験と意識で分かるような、根源的意識の自由な人生論を書いていた。

挑戦から、またやり直せる。期待するのは、自分に対してであって、それは自分で作り出すと言った方が正しい。

先入観無く考えられる人間なら、哲学は誰でも出来る。自分がそうである、と言う「主体」を「客体」にして考えなさい。

この世の中では、悪いことと良いことはセットで起きる。斎藤一人と言う作家が言っている。

悪いことを避けてばかりいたら、良いことは何も起きない。悪いことをドンピシャリ、直球で進んでいくと、本当に良いことも一緒に起きる。

だから、楽しもう。最初から、暗闇だ、暗闇だ、と思っていたら、何も光は訪れない。光が見えた、そう信じることで、そこに光が生まれるのだ。

これでは本気で考えていないように見えるが、いじめや貧困の対策として、地域コミュニティは作っていく必要がある。

ただ革命や冷戦をしても意味がない。きちんと、抑圧とその解消と問題は何なのか検討しながら、横のコミュニティを作る。

それは、2ちゃんねるに逃げるのでもなくて、正しいネットワークのようなものを作るべきだ。

自分には出来ない。手段が分からない。もう少し、賢い政治家にそういうことをやってもらいたい。

あまり意味がないが、地域のコミュニティを作るのは、言うだけ言ってしない学者が多い。

むしろ、自分も似たようなものだ。それこそ、こんなホームページは誰も見ないだろう。

きちんとコミュニティの共同体を作るなら、教会や寺で良く見える。

ある意味、学校や塾のネットワーク、会社の同僚のネットワークを、色んな実現手段を使って、地域全員へと広めて、良いネットワークを作れば良い。

ただ、インターネットで良いわけではない。

インターネットでは、顔が見えないし、友達感覚で悪口を言う。それは、一番間違っている。いじめに対抗するためにいじめをするのはおかしい。

そういう悲惨な国が日本だ。そういうわけで、村社会に戻るしかないのかもしれない。田舎ではいじめは起きないように見えるが。

ただ、ある意味、このコミュニティは、学校と何も変わらない。このコミュニティでもいじめは起きるだろう。

特に、子供だけにしてはならない。大人も入れないと悪い。それから、離脱や離反が出来ないのも悪い。いじめとは逆に、中世の教会のようになる。

問題は、「どのようにして、いじめのないコミュニティを作るか」であって、どんなコミュニティを作るのか、そのものを見つめ直す必要がある。

すぐに、向こう見ずでしない方が良い。すぐにすると、小中学校と何も変わらない、自由の無いソ連のようなコミュニティになる。難しいところだ。

ある意味、小中学校の方を無くせば良い。自由に人々と関われて、自分の自由を守ることが出来る、そういう「本当に自由なコミュニティ」を作る。

それは、コミュニティでなくても良い。連絡先や相談先でも良い。そういうところが無くなっている。

本当に、解決不可能な領域になってきた。こういう時は、沈黙するしかない。

不思議と、一晩寝かせると良い発想をする。

ただ、賢い子供なら、自分の力で世界を知って、自由に歩むだろう。昔の自分が、そういう自由な子供だった。

大学からIBMまで、全ての仕事と研究をしたかった。そういう経験を全部していた。昔は、そういう風に、「自分の自由が好き」な人間だった。

斎藤一人の本を読んでいると、めくるページの全てに発見がある。

自分のことを好きになること。自分のことが好きな人間は、自分のことを追い詰めたりしないし、人のことを追い詰めたりしない。

完璧でなければ我慢できないのは駄目で、一度の失敗を悔やみ続けるのも駄目だ。

最近の自分は、それだけになっている。斎藤一人がそういうものを全部書いている。

一度嫌われるのを覚悟として、それ以上嫌われないようにする。それをしないのがおかしい。他人のことを責めるから、悪いことを言われる。(これは斎藤さんではなく僕の言葉だ。)

愛を振りまいても、何も気持ち良くない。むしろ、もっと別の形でみんなを安心させた方が良い。

それも同じで、いつまでも恐怖を振りまき続けるなら、一度の恐怖を与えて、もうそれ以上振りまかないのが良い。

あとは、きっと自分にも何かが出来る。自分のことを失望し続けるのは悪い。人並みのことなんか、普通、人より優れた人間が出来る。自分がそうだ。

要は、そんなに馬鹿な楽を取らず、賢い楽を取れば良い。

馬鹿は、楽が楽でないのが分からない。本当にきちんと考えて、辛い経験をすれば、「何が正しい人生なのか」が良く分かるようになる。

そういうわけで、むしろ、強くならなければ意味がないのだ。強くなって、賢くなると、本当に全てが明晰に「ビジョン」として見えるように分かることが出来る。

あとは、悪いものは悪い方が良い。立ち歩くのをやめればそれで良いのに、立ち歩くにも意味があると思い出す。そういう発想が狂っている。

それこそ、学校なんか行かなくて良かった。それで大学に行きたいのがおかしい。哲学も歴史もしなくて良い。そんなものは賢くない。

そういうわけで、中卒が社会にいきなり出ると、賢い人間になる。それを選ぶ人間は少ないが、昔の自分はそういう人間だった。高校生とは言うが、高校に行きたくなかった。

違いすぎるのも問題だが、それくらいが違うのが良い。うつ病になって死にたくなっても、そのことによって賢くなる。

絶望は糧になる。思い出は盾になる。笑顔は証で、涙は印だ。AAAが言っている。(本当に正確にこの通り言っているかは、覚えていない。)

昔は、引き篭もりになる前と、引き篭もりになった後を比べて、人生のことを分かっていた。洗脳を解いていたようで、2ちゃんねるに騙されていた。

今思えば、楽しい思い出だ。僕は、思い出は力であり、自由であり、基礎であり、全てを与えるものだと思う。

青春と言う意味ではなく、その後の経験が思い出に依存している。そういう意味で、思い出は力なのだ。

昔の自分は、そういう風に考える「依存」などを、理性的に考えていた。何が何であれば、それが成り立つのか、何に依存し、何からそれは生まれるのか。

そういうところを論理的に考える力があったから、みんなで方法を作るとか、必要なものを共有しながら全員で支配するとか、そういう発想をする。

最近、そういう発想が無くなったのは、言いたくはないが、統合失調症になったのだと思う。それも、最初から変わっていない。誰でも、若くて頑張っている時代は楽だ。

ある意味、「それは本当に何を誰がしているのか」と、「それが成り立つために何を必要とするのか」から、「それは何を意味しているか」を考えれば良い。

そして、そこに必要な個人、集団、出来事、前提、経緯、依存性、発生、契機、手段、機会、システム、可能性、自然、神、方法を考えれば良い。

あとは、具体的に考えるために、ネットの経験を利用する。昔は、それだけだ。

それで、世界を変えたかっただけだ。この世界を救うために何が出来るのか、考えた。

最近の賢い点は、きちんと実行に移した。それも、最初に一度だけ滅ぼして、あとは全て解決し、治し、賢い世界にした。それで、世界中が楽になった。妄想には見えるが。

依存性だけではなく、教育を新しくするなど、「成り立たせる」ために考えること。

それぞれの立場や、どのように見えるのか、から、視覚的な「意識の客体」を考えることが多かった。

最近は、10月ももう半ばを過ぎているのに、まだ暑い。人間は、暑さのせいで本当に滅びるだろう。

台風も多いが、僕は台風が原子力発電所を襲うと思う。それで、放射能汚染になるだろう。ロシアだけが生き延びる。みんな、ロシアに移住するだろう。

そろそろ、もう分からない。AAAが言う、自信が自身になる、のように、「正しい人生の生き方とは何か」が良く分かる人間だった。

良く考えると、日本語を考えただけだ。「ために」と「よって」から「もし」や「ならば」を考えた。それを認識だと言っていた。

イスラム国は、問題はイスラムだけに収まらないかもしれない。アジア人、特にインド人や中国人が、イスラム国につくと、超強い。

イスラム教の組織ではなく、もっと包括的な組織になった時に、世界は滅びる。あるいは、白人の悪が治る。白人には調和的理性がない。それで地球が治る。

キリストが「神を信じることで、ユダヤ人だけではなく、全ての民族は救われる」と言ったり、ブッダが「全ての人間は悟りから仏になれる」と言ったりしているが、昔から、僕はそういう偉人が何を意味してそういうことを言っているのか、考えること、自分で同じように発想することから分かる。

だから、仏教や科学など、何も分かっていないように見えて、きちんと全部分かっている。バンプが言うように、どういじればどうなるかもちゃんと知っている。

自分は神ではない。仏でもない。天皇でもない。「精神の王」だと言うと良いかもしれない。そういう名前をそのうち考えたい。

いつもの文章なんか、想像力と世界観の構造を全部書いていただけだ。想像力で、属性と決まり、「同じと違う」を考えていた。そして、何が何の属性なのか、概念なのか、本質なのか、きちんと分かっていた。ある意味、スピノザと全く似ている。本当にスピノザのような人生で、スピノザのような文章だった。

自分は、キモい虫を殺すのではなく、生かせば治る。そうすると、昔の自分の思考が生きる。キモく見えて、まともに賢いのが、昔の2ちゃんねる思考だ。

本当に、昔の思考は賢かった。一時的に残して、再利用して分かる。だが、全て消え去って、無くなった。そこから、馬鹿になった。

ルソーと似ているが、人々はそういう風にしているからそういう風になるのであって、絶対的なものでもなければ、義務でもなく生物の習性でもない。

全ては変えられるのだ。そういう風に考えると、馬鹿に勝てる。

そういうものに勝つために、一度世界をシャットアウトすることは、必要だし、離脱することも必要だ。

分からない若者が多いのは、当たり前だと思った方が良い。それより、老人になっても大して何も分かっていない方が、馬鹿だ。

あとは、夢の世界や異世界のような、ありえない世界の全体構造を作っていた。

人生は、偉大な人生を破壊した、おかしな人生を書いていた。

AAAが言っているように、未来はちゃんとある。ここから先、何があるかは分からない。だが、君をきちんと連れていく。全て、繋がっている。

自分は、みんなに自分のことを認めさせている。

許されたいのか、正当化がしたいのか、言い訳をしているのか、どれも正しいが、全てを認めさせることで、世界を滅ぼした。

もう、僕の言っていることを、認めなくて良い。

すぐにそれを言えば良かった。そんなに認めるせいで、滅びた世界になった。それをやめても、それはそれで滅びる。

むしろ、逆に、今ある宗教を信じれば良い。そこから認めれば良い。

人生は、その人生から生まれる。信じた通りに信じ、価値観を知るように知る。そういう風に、人生が人生になる。

だが、真実は複雑で、信じた通りに起きるのではない。信じることが未熟だと、何も起きない。だが成熟すると、本当に起きるようになる。

虫を生かせば治るのは、虫は比較的植物に近くて、何でも再生し、何にでも変化出来る。あとは、ブラックホールと思えば、何でも治る。

昔は、意識の客体や留保などを自由に考えていた。

虫がキモいのは、おそらく、昔は再生能力が高い生き物だったのだと思う。切られたり潰されたりする可能性が高かったから、再生能力の高い生命を生み出した。そのうち、小さくなって、そんなに再生能力は必要なくなった。そういうわけで、足は、再生能力の高い虫になると、すぐに精神が治る。

虫になって、虫が生きると、精神が治る。あとは、大きくなるだけだ。虫が大きくなるように、心が大きくなる。

虫は、そういう、「精神が何でも再生する」生き物だ。

こういう人間は、白人の男に多い。白人の男には、本当に何もない。精神があるようで、無いように見える人間が多い。

虫を人間だと思わない方が良い。おそらく、幼虫の体には、精神が均等に全ての体に存在する。成虫になると、心が一つになる代り、触角で動くようになる。だから、幼虫はあのように頭から手足まで均等な姿をしている。そういう、「均等に精神が存在する」と言う発想が気持ちが悪いのだと思う。

ゴキブリやダンゴムシが汚いところに生息しているように、虫の再生能力は異常なほど高い。

そういうわけで、虫になった方が楽だ。虫になると、どんな悪い環境も良くなる。そういう発想が、昔からの男の自分だ。

自分を、悪い、最悪だ、などと言うが、自分が勝った方が良いのが分かっていない。

負けた方が、はるかに悲惨だ。

それこそ、こういう馬鹿が悪いのは当たり前だ。むしろ、真面目に弱者だから、国が悪い。こういう馬鹿を生み出す国がどうかしている。

自分は分からない。自分が見ると、自分が悪いだけに見える。

日本人だけではなく、アメリカ人やシリア人も同じだ。「自分が悪い」と考えるのが一番どうかしている。自分は悪くない。

順番通りするのではなく、飛ばして、最後の方を最初にすれば良い。それで、虫になっていると、簡単に精神が治る。

いつも、順番通りパターンをしているが、順番通りでは治らない。すぐに最後をした方が治る。

今日は眠れない。ただ、いつもいくらでも寝ているから、そんなに眠る意味がない。今日は、起きていて良い。

ただ、急に変えない方が良い。良いことでも、急にやるとすぐに反動が来る。急に変えず、常に続けることだ。

昔は、思弁哲学のような考え方の世界を全部書いていた。Wikipediaの知識と自分の考え方だけで、全て分かった。

いつ何を誰がどのように必要としているか、それをどう成り立たせるか、実際はどうなるか、目的や問題をどのように共有出来るか、など。

あとは、ネットの体験や知識のようなことを言う。2ちゃんねるは、歴史的経緯を考え、情報共有で新しいことを知るために参考になる。

ある意味、本当に現実と全く近い、リアルな絵画は作れるかもしれない。その中に、現実には無いような、色んな創造物を描いても良いだろう。

そういう、「過去に自分が考えた発想と人生の思い全て」のようなものを書いて、自分を最後まで辿れるように、「全ての始点」を書いていた。

今までやったことをいくらか繰り返せば治る。

昔は、矛盾の無い「絶対論理」のようなものを作っていた。全部の論理を矛盾の無いように作る。

ただ、それは一面的で、ある意味、完全に間違ったものだった。

そういう、矛盾を矛盾だと考えて、矛盾するものを排除するか、最初から矛盾でも矛盾しないでもないものにして、きちんと考えた方が良い。

神の論理を言いながら、自由な科学の論理を言うが、そういうところがおかしい。それを、決定し、判断するだけの作る文章にしていた。

神は居るが、宇宙はビッグバンで正しい。そういうことを、いつも真理のように矛盾しないように作っていた。

自由と平等も矛盾しない。

それから、それぞれが知っていることは少ないと考えていたが、それぞれしか知らないことも多いと考えていた。

それこそ、地球全体が知っていることとは言うが、「地球全体」とは誰のことを指すのか?それぞれが、それぞれなりに知っているだけだ。

そういうわけで、おそらく、誰か賢い人間がいつかどこかに居た可能性はある。

それこそ、自分の家のことなんか、自分しか知らない。

そういうことがあるからこそ、論文の発表の場は重要なのである。

そういう「可能性」は、ある意味「奇跡」のようでもあるが、奇跡ではない。自然の結露であり、必然なのである。

そこに、神は居る。神は、そういう、「自然の中での運命的必然」のために居る。だから、自然だと言っても問題はないのだ。

世界は共通認識と共通知であり、場は共有されていて、事実はそれぞれ確かにある。そういう発想が、宇宙の時間と空間の中での、事実だ。

それは、ある意味、歴史であり、精神であり、意識であり、経験であり、言語活動であると考えられるだろう。

そこにある光と、光そのものの現象は、分けて考えられるかもしれない。

重力は、空間に存在する普遍的な法則だが、目に見えるものではない。本当はどんな法則なのか、分からないだろう。

ある意味、「分からないという可能性を残す」ことは重要だ。もう分かった、と思ってしまうと、それ以上分からない。それはまだ分かっていない。

世界は、一つしかない。可能性を残す、と言う意味で、多様性は重要だ。

日本と言う日本民族の島国は、一つ、日本しかない。戦争や左翼にするのは、間違っている。自由なまま、多様にした方が良い。

実現力や実行力と言うが、そんなものは要らない。一つの社会を破壊しているだけだ。社会は慎重に、自由に作られるべきだ。

何も出来ないのを良いと言いたいわけではない。その逆に、何か出来るのを良いと言いたい。だから、自由にそれぞれが変えられるようにすべきだ。

それぞれが社会を作ることで、実現力が高まると同時に、柔軟性が高まる。何も出来ない統一より、何か出来る自由の方が良い。

ただ、実現力は必ずしも必要ないのだ。柔軟に、それぞれがスピーディに決めることは、実現力とは矛盾することなのである。

そういう、何が矛盾するか、何が実現可能か、何が問題なのか、きちんと分かる人間は分かる。統合失調症になると、そこが分からなくなる。