儒教の世界観(1.基本)です。
「理解しやすい倫理(文英堂, 2008年発行版)」を参考にしました。
儒教や道教と同時期に、諸子百家と呼ばれるさまざまな思想家が、同じころの中国で活躍した。
家 | 人物 |
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儒家 | 孔子・曾子・孟子・荀子 |
道家 | 老子・荘子 |
墨家 | 墨子・告子 |
名家 | 恵子・公孫竜 |
農家 | 許行 |
陰陽家 | 鄒衍 |
縦横家 | 蘇秦・張儀 |
兵家 | 孫子・呉起 |
法家 | 菅子・韓非 |
「理解しやすい倫理(文英堂, 2008年発行版)」を参考に執筆しました。
孔子は、仁(人間と人間が支え合う人間関係や存在の在り方を示す言葉)を中心に自らの思想を教えた。
仁の道 | 説明 |
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忠 | 誠実に、自分自身に嘘をつかず、正しく生きること |
恕 | 他人の心と立場に立って理解し、思いやりを持って、相手の立場で心を理解し、尊重すること |
また、孔子は、仁とともに礼を重要視した。単に周代の社会秩序を守り維持するだけの慣習としてではなく、道徳としての礼を重要視した。
また、孔子は当時の乱れた世界から社会秩序が蘇るために、周の封建制度の回復を求めた。
徳治主義 | 説明 |
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孝 | 子が親に対して持つような、祖先へと仕える畏敬の念 |
悌 | 年長者に対する尊敬の念と道徳心 |
修身 | 人生において、社会などの経験から徳を身につけること |
斉家 | 円満な家庭 |
治国 | 修身(徳)と斉家(円満な家庭)ができてはじめて、国は正しく治めることができる |
平天下 | そして天下は太平となる |
そして、このような有徳者となるもの(なれるもの)こそ、王(君主)でなければならない。このような修己治人の考え方を徳治主義と呼ぶ。
2024.01.06編集
「理解しやすい倫理(文英堂, 2008年発行版)」を参考に執筆しました。
儒教の教えを継承して発展させたのが、性善説の側に立った孟子と、性悪説の側に立った荀子。
孟子は、四端の心から、人間は仁・義・礼・智の四徳を体得することができると教えた。
四端の心 | 説明 |
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惻隠 | 他人の不幸を憐れむ気持ち |
羞悪 | 自分の悪を恥じ、他人の悪を憎む気持ち |
辞譲 | 他人に譲渡する気持ち |
是非 | 善悪を見極める気持ち |
そして、浩然の気(精神的な強さ)と四徳を体得した「理想の人間」を「大丈夫」とした。
荀子は、人は放っておくと欲望に基づいて行動するため、社会の秩序を保つために欲望を制限しなければならないと教えた。そのために荀子は礼を重要視した。
朱子学は、南宋の朱子(朱熹)による儒教の新しい学問的思想・体系。
陽明学は、中国の明代における、王陽明による儒教の一派。
昔の日本にも強い影響を残した。日本には朱子学者がたくさん居る。
後日注記:江戸時代の江戸幕府の公式思想は朱子学。孔子は周の封建制度を理想としたことから、「封建社会を支える思想」として教育や社会の思想として江戸幕府が採用した。
後日注記:儒学の中でも朱子学では、「主従関係」「上下関係」「目上の人や偉い身分には従うべき」ということが強調されており(大義名分論)、江戸時代の幕府体制を支えるのにちょうどよかった。
日本史(江戸時代)も参照のこと。
2024.12.14編集
また、昔の子供たちに文字や計算を教えていた学校である寺子屋では、決まって孔子による格言の訓である論語を教える。論語の内容は分かるがその意味までは分からない大衆が多いことから、「論語読みの論語知らず」と言われることもある。
このように、神道(日本神話)と仏教を信じる日本でも、意外と孔子や儒教はよく知られている。
後日注記:日本では伝統的に、学問の基本は論語です。論語は孔子の編纂した格言や訓の本であり、後世に伝えるべきさまざまな「教え」や「真理」が書いてあります。
2024.12.06編集
儒教、道教、仏教は、中国における三教(三つの主な宗教思想)として知られます。
僕は、儒教とは「正しい人間・社会とは何であるかを決める宗教」だと思います。
それは、人を敬い、また支え合う中での、一種の「コミュニティ」を形成するための宗教である、と言えるでしょう。
人々を間違った道へと向かわせず、正しい人間であることこそ、本当の人類の目的である、としたのです。
孔子は、儒教の祖であるとして知られるが、古代儒教自体は古代から見られたものであり、実際の孔子の人生についていえば、思想家や学者であるというより、その人生から言って「教師」や「教育者」であったと言った方が正しい。
彼はそもそも魯国で私塾を開いており、その後に国の建設大臣・法務大臣の役職に就き、流浪の旅に出ざるを得なくなってさまざまな国を転々とする人生を生きたが、そこで自らの政治的理想が理解されることはほとんどなく、自らが唱える理想の国を自分が実現出来ないならば、理想の国を構築する弟子を教育する必要があると考え、最終的には祖国に戻って、自らの学校で弟子たちに教えた。
門下生は三千余人、六芸に通じたものは72人居たとされる。
(物語 中国の歴史―文明史的序説 (中公新書)を参考に執筆しました。)
前319年~前301年に在位した斉の宣王は、学者や思想家のパトロンとなったことで知られ、戦国期最大の巨大都市臨淄は権力と富の中心地でありながら学問の拠点でもあった。
全国から思想家や学者がこの場所に集まり、宣王はまるで貴族のように彼らを優遇・支援し、稷門(西門のひとつ)の近くに邸宅を与えて、生活や活動を援助したため、彼らは「稷下の学士」と呼ばれる。
孟子も臨淄に訪れて滞在している。また、70年経って旬子も滞在し、この門から韓非子などが出ている。老荘の学も、稷下において広く知られて著名となった。
これらの学者は「諸子百家」と呼ばれ、それぞれ自由に討論し、影響を与え合い、相互に支援し合ったため、「百家争鳴」とも呼ばれる。これは学問や思想の自由を意味する代名詞ともなっている。
(物語 中国の歴史―文明史的序説 (中公新書)を参考に執筆しました。)
2024.01.06編集
中国史・モンゴル史を参照のこと。
孔子を中心的な始祖とする中国の宗教。
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