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解剖生理学の本を読んだ。
僕が思うに、僕は病気がないところを病気だと思い込んで、過剰に反応しているところがある。
だから、ある意味、足の精神は、アレルギー反応を起こしている。
そのせいでニキビになっている。
昔は、大学に入る前の準備段階をしていた。
自分の力で考え、判断する能力をつけるために、準備的に経験していた。
社会の成立のようなことを考えていた。グループから社会が生まれると言う。
僕は、生物は、環境を生物が住みやすいように綺麗にしているのが、本来の生物の目的だと思う。
僕は、この世界を良い世界に戻したかった。そのために、みんなを気付かせて自由にしたかった。
だが、しばらく書くのをやめただけで、世界はもう正常に治っている。
僕は、医学のことが良く分かったから、次は心理学のことをやりたいと思う。
そして、もう少し、イラストやデッサンのことをやりたい。
あとは、PHPの本も読んだが、SQLの解説で、SQLの基本は取り出し、追加、削除、更新であることを知った。
解剖生理学の本で知ったのは、細胞には呼吸(ミトコンドリア)、タンパク質の合成(小胞体)、タンパク質の運搬(ゴルジ体)などがあって、炭水化物は脳のエネルギー、タンパク質は細胞の形成、脂質は温度の維持に使われること、などだ。だが、そういう細胞や栄養のことだけではなく、内臓や体の部位の解説を中心に、ギャグを取り入れながら分かりやすく解説する、良い本だった。面白くて賢い。
僕の問題は、全て腎臓にある。血を綺麗にしたい、という思いから、腎臓が働きすぎている。腎臓には、血圧や血糖値を調節する役割がある。血圧が高くなると、動脈硬化を引き起こす。結果、血管を綺麗にしたいあまり、血管を破壊しているのが、僕の脳だ。腎臓が過剰に働きすぎている。「この足で生きる」という覚悟をすればすぐに治る。
そして、良く考えると、僕はあまり問題がないのが分かっていない。深層意識が怖いだけで、体の病気ではない。だから、深層意識を理解するための心理学の本を読まなければならない。
それから、空いた時間にハリーポッター英語版の朗読CDをiPodで聴いている。聞き取れるようになってきた。
心理学の本を買った。
自分は、出来ることを覚えるのが悪い。出来ることを覚えさせる、学校が悪い。完璧主義だというのは、中途半端なことをせず、出来ることをするからだ。そこが間違っている。普通、IllustratorやVisual Studioは分からないが、それは完璧主義の一つだと思えば良い。出来ることだけをしていると、出来ないと止めてしまう。やる方法が分からなくなってしまう。最初は教えてもらうのも必要だが、本当は出来ることなんか、誰でもない。出来ることなんか、普通なくて、出来るわけがないことしかない。僕は、完璧にする、という以前に、中途半端にする、ということが出来ていない。それで、長年苦しんできた。出来る人間は、最初から出来る人間は居ないのだ。ある意味、自覚無しに、出来ることを覚えて出来る人間になった。それで、完璧主義になっている。もっと中途半端にやれば良いのだ。
ただ、昔の僕は、そのせいで、全部出来るようになった。自由とは、それぞれが出来ることを考えることだと言う。そこから社会モデルを作った。
解剖生理学の本にあったが、骨の中で血は作られる。だから、カルシウムを取った方が良い。カルシウムは最高の栄養素だ。
学習を予想することは、子供にしか出来ない。賢いのは全部中学生だ。だから、馬鹿な本は悪くない。中学生にしているだけだ。高校生になると、気づきと発見から人生が分かる代わり、みんなと一緒に馬鹿になる。だから、高校に行かない方が、僕は自分なりに社会のことを経験し、理性的になることが出来ると思う。だが、もっと別の勉強をすれば良い。そういうところを、今から変えていかなければいけないのが、今の日本だと僕は思う。全員正社員にして、完全雇用にする代わり、学校ではない新しい学習メソッドを作る。そこに、Linuxが出来ることはあるのかもしれないと僕は思っている。
心理学の本を見ていると、学習は法則化出来るとか、行為は環境に規定されるとか、昔の僕のように考えている心理学者が多い。それから、統合失調症の患者には、ずば抜けた才能を発揮する人間も居るらしい。
あとは、昔は全ての国、全ての社会、あらゆる社会がどのように生まれるか、国家モデルによる全ての社会の生成的原理のようなものを書いていた。
解剖生理学の本は、主に看護師になる方向けに書かれていることもあって、ギャグ満載で面白かったが、心理学の本は、ちょっと辛い感じの本だ。むしろ、僕としては、以前買ったイラストやデッサンの本を読んでも良いと思う。ただ、僕はそろそろ、本を読む方法が分かっていたところがある。文字を読むのではない。ページを眺めながら、色んなページを見て、気になったところだけを詳しく読む。そういう、「概説的な読み方」をすると、難しい本でも読みやすい。ただ文字を追ってすぐ忘れるより、その方が良い。
意識、理性、精神、経験で、宇宙の全て、この世の全ては超えられる。本当にその人と同じになっている、ということが、実感で理解出来る。意識から、全ての本当の姿が分かる。昔は、そういう人間だった。
英語が怖いのは、いつも書いていた文章と英語が同じだからだ。怖い理由を考えなければならない。あれは、戦争のように見えて、壊れながら記録し、みんなを愛している良い人間だ。何が怖いのか、考えないといけない。あれは、滅ぼしたりするわけではない。達成不可能な課題を提示することが、怖くなったのかもしれない。それは、自分は達成不可能なことを達成したかっただけだからだ。そのために頑張っただけだ。
あとは、僕はもう少し、解剖生理学の本を繰り返し読みたいと思う。それから、デザインのことをもっとやりたい。心理学の本は概要的に読むとして、もっとイラスト系の本を読みたい。
昔は、経験に基づく考え方のようなことを言っていたから、日本語は概説的で、英語は記憶的だと言っていた。僕が思うに、日本語は構築的で、英語は説明的なのだと思う。日本語の分かり方は表現的だが、英語の分かり方は想像力でありのままの実際の姿を知る、といったところがある。日本語は表現的観念を作り出して共有するのが得意だが、英語はずばりそれを言い表すのが得意だ。
もう、これ以上、知ることも知りたいこともあまりない。本当は、今から先、知識を手に入れられるだろう。昔は、社会の裏側のようなことを良く知っていたが、今から、この世界に存在する知の裏側のようなことを知っても良いだろう。イスラム教はどのように始まったのか、のような、歴史的なことを知っても良いだろう。だが、きちんと教えてもらいながら、きちんと最初に知るのは、解剖生理学の本で終わったのだ。医学の勉強で、もう終わりだ。だが、僕が予想していた、アミノ酸の分子生物学のようなことは、本当は無かった。父親に聞いて分かった生物の授業と同じだったのが、医学だ。だから、みんなは分からなくて良い。
ありえない意識と経験は、ネットをしながら精神分析をすることで、全て分かっていた。狂っていたが、この宇宙が全ての側面から分かるありえない人間だった。自分で考えたことから、あらゆる考え方を成り立たせて、哲学を分かっていた。だから、僕は哲学とデザインをやるのが良いだろう。Linuxの良かった点は、コンピュータ科学の世界における世界観を、あらゆる角度から分かっていたからだ。数学から宇宙まで、あらゆることを、オープンソースの世界の広がりから分かっていた。自分の分かりたいことが全部分かった、悲しい孤独な引き篭もりの青少年だった。
人間がいかにしてそれを信じ、成長するかを知れ。昔は、そういう、ニーチェのような体験の可能性をいつも人生のプロセスとして、数学的定理のように書いていた。
あとは、Linuxは良いものでない。Linuxは、新しいことを分かるためには良い素材になるが、分かってしまうと、脳が死んでしまう。狂って全ての頭が死ぬ。だから、僕はここで哲学に戻りたい。それも、心理学的な哲学をやりたい。もう一度、哲学名著の本を最後まで読んでも良い。だが、僕は哲学で終わりにはしたくないし、あまり哲学に関してこれ以上やりたいこともないから、そういう、「やらないといけない目標」はもう立てない。もっと、デザインとか哲学とかに関係することで、色んな楽しい体験をしたいと思う。僕は、ユング的タイプ論で言うと、「思考型」か「直観型」のどちらかだと思う。もう少し、そこを変えてみても良いと思う。
心を推論し、社会の未来を考える。それが基本なのに出来ていない。それをするためには、一度固定観念を全て消して、まっさらな気持ちで、偏見や先入観なく、謙虚にこの世界を見ることだ。日本人には、そういう人間が多い。日本人は心が綺麗だ。