最近の日記(忍者ブログ)に戻る | 2016年10月の日記に戻る

=2016-10-05=

世界観のようなものを書いていた。

時代は、社会と思想と情熱の、意識的な方向性が違う。

社会は、構成員の自由と創造性を考慮すべきだ。

自由とは、配慮することだが、配慮しすぎも問題だ。

ものは、認識の比較と、特性、原理、本質、事の自由だ。

もっと、馬鹿に考えた方が良い。何も分からず考える。

Linuxは、自分のせいで、批判や意見が出来なくなっている。

きちんと意見出来る、互いに向き合う場を作れば治る。

経緯と理由を共有し、疑いのないように議論すれば、誰とでも分かり合える。

権力は、そんなに悪いものではない。

自分は、いくらでも批判出来るようにすることで、批判の意味を無くした。

概念から変えられるのを書いていた。

自分は、Linuxがトラウマになっているだけだ。

まだLinuxを守っている。自分が悪く見えるのが怖い。

何もしない時に治るのが辛い。愛が死ぬのが怖い。

いつまでも治すのをやるから、治らない。

治ったようで、世界に何もなくなった。

自分は、ゲーテだ。

意見はあった方が良い。

だが、一度批判出来なくすると、相手が批判しないから、自分も批判しなくなる。

それで平和になった。

自分は昔から、意見で知が増える、基盤が好きだ。

自分の怖い点は、批判しないのが、悪く見えて、一番良いからだ。

それこそ、アメリカは自由のままだ。

日本には、悪い人間が居ない。日本人は皆同じだ。

日本人は、家族のようにみんなのことを良く知っている。

こう見えて、自分は物理学者のような人間だ。

仮説と実証から心を解明し、相対的な自然発生とメタ論理を考えていた。

自分は悪くない。悪い人間は全部自分が治した。

日本人は悪くない。アジア人が安く自動車を作っても、悪く見えない。

大量に売りつけるのも、賢く見える。

自分は、自分がそんなに批判しても、誰も批判なんかしたくないのが分かっていない。

自己批判をそんなにしても、何も分からない。

分からなくなったのは、自由な批判がないからだ。

むしろ、批判に最初から意味がない。そんなに「見るからに批判すべき」になった社会がおかしいから、それで批判に意味が無くなっただけだ。

自由な批判に戻すべきに見えて、それは最悪の世界になるから、止めた方が良い。

むしろ、批判に意味を無くして、それで終わりなのが悪い。もっと世界を先に進めれば良い。

今からは、「色んなことが出来る」社会になると良いかもしれないが、僕は何も考えていない。

自分は、治すより、治さない方が、治っているのが分かっていない。

昔は、認識と人生の真理や、道案内、そして可能性の決断のような文章が多かった。

いつも、そういう風に、築いたモデルを全部潰す。

あれは、最悪の帝王で、世界を滅ぼす人間だった。だが、愛と情熱のある、優しい人間だった。

むしろ、色んなことが出来るより、何も出来ない方が、賢い人間になる。それに、何も分からず考えた方が、賢いことが分かる。賢い人間の方が、何も考えていない人間が多い。

自分は、そもそものところに立ち帰った方が良い。そもそものところが分かっていない。そもそもそのものが何なのか、その行動が何なのか、その世界はどこにあるのか、その人は何を知っているのか、そういうことを考えていくと、きちんとこの世界が分かる。知りながら、自分の世界を拡大すること。そして、全員の経験を自分なりに吸収して行けば良い。

数学は、単なる数式でも、計算でもない。人間が、理性的に何を導き出せるか、それを考える学問だ。そういう風に、この世界にある知と人生の在り方を、「そもそも」のところから考えれば良い。

言ってみれば、「その問題が言わんとしていることを、数の関係として表現すること」や、「ある程度与えられた条件から、それがどのように正しいと言えるのかを、提示すること」でもある。ただ、正しい、と言うよりは、導き出す、と言った方が良い。ある意味、全く正しくない数学、と言うものも、考えられるかもしれない。「正しくない数学」と言うだけでおかしい。

初等的・中等的な数学には、条件と論理と共通性で分かる部分が多い。高等数学では、本当に、具体的に難しい「数学者の初歩」の数学をやる。大学の数学は、本当に高度な数学を、本気で研究して解き方を考える。高等数学は賢いが、ある意味、初等・中等数学の方が面白い。

良く考えると、教育的な側面だけではなく、数学的に見ても、「答えが一つに定まる」と言う学校数学の方向性がおかしい。x+10=14からx=4を見出すのは簡単だ。x+y=14からxとyのパターンを色々と考えても良い。数学者には、そういう、「答えのない領域の答えの可能性」が分かる人間が一番多い。ある意味、学校数学なんか、単純すぎて、やっても誰も数学者にはなれない。

僕の経験から言って、学校ではプログラミングをさせながら、インターネットを(それも、出来るだけ善良で自由なインターネットを)調べさせるのが良い。それが一番、子供が数学者になれる。プログラミングの発想はまともだ。

だが、パソコンなんか、ただの流行だ。もう、飽きた人間が多い。パソコンはつまらない。

それこそ、絶対値の定義をただ教えても意味がない。教えるべきなのは、「数学において、絶対値と言う概念と方法が、どのように現れて、どのように使われて、どうなればどうなるか、どうすることが出来るか」と言う、様態的で体得的な方法なのだ。それを、体得的な数学と言う。

積み重ね、という数学の方法は、初等的・中等的な領域においては有効だが、僕が考えるに、高等数学では有効ではないのではないかと思う。三角比を教えてから、三角比の問題を解かせるよりも、ある程度「三角比の世界観」を与えてから、その後にそれがどういう意味があるのかを教えてやった方が良いように思う。三角比を覚えて、三角関数を覚えて、それから大学数学を教えていると、何故か、「同じことの繰り返し」ばかりして、「時間の無駄」をしているような感覚になってしまう。ある程度一望出来る、「百科事典的なデータ」があると良い。そういうわけで、高校は問題集が無いと悪いと言う人間が多い。ただ、僕がそんなことを言っても意味がないだろう。僕は、数学の勉強なんか、中学以来、全くしていない。普通、そういうことは、数学的積み重ねが出来る人間が言う。

数学は、数が比であるとか、問題が明確化であるとか、10進数や分数が表記であるとか、計算が意味の一致であるとか、そういうところが分かる人間が出来る。昔の僕が、ちょうどそういう子供だった。子供は、何も分からないせいで、そういうことが分かる。

むしろ、自分は馬鹿過ぎる。三角比の意味もろくに分かっていないのに、こういうことを言う。恥ずかしいから、きちんと分かってから言った方が良い。

ただし、ただ答えを一つ出す数学よりも、答えの可能性や意味、そのための問題が数学的に何を意味しているか、どのような問題や解き方が考えられるか、そもそも問題とは何なのか、歴史的に見て、どのように数学的概念が発展してきたのか、そういう、「バックグランド(背景)的な知」を考える数学を学校でやっても良いと思う。

数学とは、意味を考える学問だから、「その知が何を意味しているか」を良く考えれば良い。ある意味、「合同な三角形」や「二点を繋ぐ直線」が、その条件と仮定が「何を意味しているか」から、「何が成り立つ可能性があるか」のようなことを、条件と方法から考える。数学は、そういう、「その条件が何を正しくさせる意味を持っているか」が分かる人間が出来る。

数学は難しいが、むしろ、何が何を意味しているか、と言う意味で言えば、簡単な学問だ。「何がどうなれば、どういう結果をもたらすか」を「仮定的推論」で考えれば良い。当たり前のことを突き詰めて考えていると、この世の全てが当たり前になると同時に、この世の全てが明晰になって、この世の全てが驚きになる。科学者には、そういう人間が多い。

数学の面白い点は、問題を解いていく方法は、ほとんど同じだ。同じことを応用的に変えていけば、何でも分かる。それで、この世界のことが何でも分かってくる。そういうわけで、数学は楽しい人間が多い。問題の答えが一つだけなのは、ある意味、悪くない。むしろ、問題をいくらか変えれば、一つだけでなくは出来る。それは、普通、証明とか、説明とか、そういう風にするが、そんな数学は、今と何も変わらなく見える。答えが一つなのは明らかに仕方ない。

あとは、物理は、普通現象のことを疑って考える。振る舞いと形態を、実験と仮説から考える。やっていると、「人間の知とは何なのか」が良く分かる。理系には、そういう人間が多い。

自分は、数学は出来ないだろう。昔の文章は、これくらいを書いていた文章が多かった。

僕はあまり重力のことを知らないが、みんなの思っている質量とは、ものの重さのことだが、それは質量と言うよりは、重力による作用なのだ。質量とは、ものの量、と言う意味なのかもしれない。僕が言いたいのは、物理とは、そういう風にこの宇宙のことを全部説明する。ある意味、一番ありえない学問だ。質量が量なら、量は二次元や三次元にはならないのか?あるいは、重力とは本当は何なのか?そういう風に考えることが出来るかもしれない。

注意するべきなのは、力は重力ではない。力は、エネルギーなのだ。それも、計算出来る。やっていると、宇宙が本当に、やればやるほど分からなくなる。不思議な学問が物理学だ。

良く考えて、重力とエネルギーしかない。それが、物理的な宇宙の様相だ。

あとは、共同体を自然にみんなの力で作るとか、ソ連のようなことを言っていた。

青くて、白くて、赤い、フランスのような人間だった。こういう人間が、日本やドイツに多い。

あとは、深層心理や、意識のレベル、執着による心の葛藤を分かった。

執着心を無くすのは間違っていない。だが、ある意味、執着心があるだけ、心には知性がある。恐怖と執着を上手く使うことで、心を進歩させることが出来る。執着がないのは楽だが、必ずしもそれが良いわけではない。

あとは、人間社会と場所のみんなが、どんな空間と経緯を持っているか、そこから、誰がどんな世界観を持っているか、知と社会はどのように自由になっていくか、そこにはどんな知の形相があるか、のようなことをいつも分かっていた。形相・様相的に世界のことを見ていた。

あとは、普通、セックスなんか、そんなにしない。自分にしかセックスの意味は分からないだろう。

ある意味、ブッダは、昔のような「賢者の人生」が分かっている。逆に、キリストは、最近のような「愚者の人生」が分かっている。不思議と、賢者なんか居ない。普通、すぐに愚者になる。そういう理由で、キリスト教の方が流行る。どこにも、愚者が救いを求める人間が多い。日本人が宗教や神をそんなに信じていないのは、賢者は何も無くても自分の力で分かるからだ。日本人には、賢者しか居ない。逆に、ドイツ人やユダヤ人には、本当に愚者が多い。弱者が多いどころか、強いだけの愚者が多い。

数学や物理は、構造と作用と自然発生と思うと良く分かる。そして、構造から作用や方法が生まれ、概念と環境から必然的構造が生まれる。その構造を生むための、「法則的原理」のようなものがある。それは、宇宙に最初からある概念だが、人間の理性を疑うことで、本当の現象のままでその概念を捉え直すことが出来る。そういう発想をしていたのが、昔の自分だ。

哲学は、普通全体と一部とか、普遍性と個別性とか、主観と客観とか、そういう「抽象的理性」を考えるが、それは最近分かっていないが、昔、経験的に、人生的に、発想的に分かっている。「全ては、元の現象から来る、原因と結果である」とか、「人間の理性は平等だが、理性的方法は平等ではない」とか、「本当の知は自分の中から生まれる」とか、そういうことを言いながら、「社会には形成条件、現在状況、過去、未来、未来における実現可能性、そして潜在的可能性がある」とか、哲学のようなことは、いつも書いていた。構造と知性を作った。

そういうわけで、最近はむしろ、そういう抽象的哲学が分かっていない。書くと、思想になる。

あとは、根源的感情や、感情的実感から、人間のことが分かっていた。

それから、「いつ何が自由になるか」と「自由になれば何が出来るか」から、対処策を作った。

そして、制度や社会組織などを、「どのように全員で変えていくべきか」を書いていた。

そういうものを、因果性の状態にして、完全に、ロボットのように、全て黙々と作っていた。

あとは、社会がどのように変わっていくか、発展のようなものを書いていた。

もう、分からなくなる。

数学は、根拠を証明する学問だから、「何故それが正しいのか」を考えないといけない。それを考えていると、環境や感情から、基本的な「実体と仮象」が分かってくる。そして、正しい、と言えなくても、どうにかなっているような、「どういう風にそれが成り立つのか」も同時に見えてくる。そこから、「どういう風に出来るのか」が見えてくる。「そのためにどうするのか」も、同じだ。それらは、同じ問題の中で、どのように可能性を捉えているかが違うだけで、背景としては全て同じだ。いつも、そういうもののことを、「世界観」だと言っていた。そういう、「知の背景にある世界観と段階」をいつも書いていた。そういうわけで、当時は「脳を記録する」とか、「永遠を記録する」とか、「宇宙の歴史を作る」と表現していた。

昔から、心と環境を解明しながら、実存的考え方で人間の人生や知を考える。そういう「実像的段階」をいつも考えていた。自分とは、周りの環境を経験として吸収する生命現象である。それが全員の力で作り出すのが社会と呼ばれる生態系である。いつも、そういう文章を書いていたのが自分だ。

数学は、可能性の世界を良く作っていた。自由な人間モデルから成り立たせた。

そして、創造性から時代のことを考えていた。

昔は、そういう、「人間の数学」を作った人間だった。

自分は、左脳がつくのが怖い。そのせいで、テレビが怖くなった。

左脳は、考えたり、分かったりするより、覚えた方がつく。

子供は、勝ちたい子供が多い。子供は、強くなりたい。そこが分かると楽になる。

相手に悪いことをすると、自分に悪いことが返ってくる。

それも、最悪の悪いことをすると、最悪の悪いことが返ってくる。

ただ、それだけじゃない。最高の良いことをすると、本当に神のような良いことが起きる。

それこそ、宇宙なんか、それだけだ。みんなを楽にすると、自分が楽になる。因果応報だ。

いくらか日本に負ければ良い。それだけで日本に勝てる。

自分は、勝てるわけのないものに、信じる力で勝っている。相手が悪いことを言ったり、もっともらしいことを言っても、自分から信じて、相手の力を合気道のように利用して勝つ。騙しているだけには見えるが、人間のことを熟知しているせいで、そういうことが出来る。

意味がないから、もう、そういう風に勝ちたくない。普通、ユダヤとはそういうことを言う。

子供は、ママに怒られると、「責められている」と思うから、反発する子供が多いが、ママは良い子になってほしいだけだから、良い子になると叱られなくなる。それが、分からない子供が多い。そういう子供には、「良い子になれば良いんだよ」と教えてあげる必要がある。

それから、子供は、怖いものが本当は良いものなのが分からない子供が多い。怖いものは、怖く見えて、実は良いものであることが多い。そこが分かると、幼い子供でも賢い子供になる。

良く考えると、公理的な原理から、全ての個別の法則が生まれる。数学とは、そういう学問だ。そういうことを言っていたのが、基盤や環境や秩序の実現だ。

昔は、人間の心理と人生の延長線上を全部経験して、「この世界と人間がどうなるか」をマスターのように分かっていた。

最近は、死と永遠を体験して、完全なロボットになりながら、宇宙の全てを分かっていた。

自分は、「何故ロボットになりたいのか」を考えれば良い。それは、未来でなるからだと思う。

永遠に生きたい理由や、セックスをしたい理由など、全ての原因は、自分の未来にある。

広島に生まれたのは、放射能を治すことで、永遠に生きられるからだ。

あまり、そういうことを言わない方が良い。狂っているように見える。