最近の日記(忍者ブログ)に戻る | 2016年10月の日記に戻る
自分は、滅びるのは怖くないが、戦争するのが怖い。
そこが矛盾する大きな出来事が起きたから、怖くなった。
滅ぼしたいだけなのに、戦争が怖い。
滅びると、楽になって、昔のような賢い世界になる。
昔から、自分は、世界を滅ぼしたいだけだ。それで、賢くなった。
戦争をまだやっているから、「もう止めたい」といつも言っている。
それは、止めない方が良い。
昔は、環境の自然な変化を許すとか、積み重ねで変わるとか、自分で環境を変え、共同体を作って関与するとか、「滅び」のような社会論を書いていた。
意識を知って、人間のことが分かった。
人間関係は、可能性とチャンスであり、「自分でも変えられる仲間を作る」と言っていた。
学校に見学と相談に行ったが、結構良さそうな学校だった。
場所が近いし、自分のような人間の精神的サポートもしてくれる。
引き篭もりが治って、仲間が出来て、することも生まれるから、良いと思う。
ただ、やっていることは、PHPでもアニメや小説でもなく、イラストのトレースや広告デザインだった。それに、雇用されるのは一割ぐらいと言うことだった。
要は、愛と死が同じなのが怖い。それで、全部怖くなった。
愛するのは良いが、死ぬのは悪いと思えば良い。
こういう、愛する戦争をするのがおかしい。それが悪い。全部、パソコンが悪い。
今のままで良いなら怖くない。あなたは、今のあなたのままで良い。この世界も変わらない。
馬鹿になれば分かるのは当たり前なのに、分からない人間が多い。それで、知性がつくだろう。
この世界は、全員死んで終わり、になるかもしれない。
あとは、観念的で数学的なものを作って、デカルト的にすると、分かる人間が多い。
人間は、知性が無くなって、恐怖を克服すると賢くなる。
自分独自の数学を作りなさい。
良く考えると、安心と恐怖が同じなのが分かる。恐怖することでしか、安心出来ない。
そろそろ、この文章は、理解出来ない。
何を言っているのか、分からないと思う。あまり、確実なことは言っていない。
恐怖が何もない人間は、安心すら出来ない。恐怖がたくさんある人間が安心出来る。
まともな人間は、そういう風に分かる人間が多い。まともな人間には、意味がない。
恐怖がたくさんあった人間が、いきなり急に恐怖が無くなると、狂う人間が多い。
自分も、それでおかしくなった。あるいは、それで一番怖いことをやるようになる。
ある意味、常に恐怖を感じているのが、まともな人間だ。
恐怖は、人間に「気付き」を与えてくれる。恐怖とは、知性をつけるためのスパイスだ。
そういうわけで、怖いものを怖いと思うと、安心出来る人間が多い。
自分は、自分の人生を変えたいのに、変えるのが怖い。そのせいで、歩き回っている。
どこか、状態を固定するのが怖い。
むしろ、そろそろ、そういう怖いのが、まともになる。良く考えると、学校に行けば良い。
要は、歩き回るのを止めれば良い。それは、怖いと思えば止める。それが分かっていない。
日本は、何かがおかしい。それは、僕は分かっている。
全部、インターネットを支配しているLinuxと、マスコミを支配しているロシアが悪い。
それは、不思議と、どちらも自分だ。どちらも自分がやっている。
言論の自由が無くなって、闘争本能が無くなった。
そういうわけで、怒れば良いとは言うが、怒る相手が既に居ない。
「我々が国民だ」と言って、立ち上げれば良いように見えて、そうする相手が居ない。
あまり、考えない方が良い。そのうち、支配されている2ちゃんねるが無くなって、解決する。
日本をまともに治すためには、滅ぼせば良い。滅ぼせば、すぐにまともになる。
自分には治せない。自分は、昔の自分のことを全く覚えていない。
良く考えると、文章を書くのが怖いのがおかしい。毎日かかさず書いているなら、賢いのが分かっていない。それなら、何かが出来るだろう。学校なんか、行かなくて良い。
自分は、怖いだけでおかしくなっているから、「怖くても良い」と思えば治る。
人間共通の問題として、「赤ちゃんは赤ちゃん、子供は子供、大人は大人、老人は老人」と言うイメージがあるが、それはある意味、間違っている。老人も、昔は子供だった。そこが分かると、人間の人生が分かる。若者が何も出来ないで馬鹿なのは仕方ない。老人は、もう既に全部した人間が多い。大人は、賢いどころか、賢い経験はもう終わった人間が多い。人間なんか、老人になっても、子供と何も変わらない。「心は年を取らない」と言う人間が多い。
政治家なんか、子供のまま、遊びのように決めているだけの馬鹿しか居ない。
権力を欲しいままにする、とは、こういうことを言う。世界中を全部自分の思い通りに決める。それが、一番馬鹿になる。政治家には、そういう馬鹿が多い。政治家が一番悪い。
そういうわけで、本当に馬鹿なのが、歴史上の王だ。
自分は、馬鹿が好きなのがおかしい。「賢い」より「馬鹿」の方が好きだ。
それは、賢い子供より、馬鹿な大人の方が好きだからだ。
狂った人間より、まともな人間が好きだ。
頑張らない人間より、頑張る人間が好きだ。
反抗的な人間より、従順な人間の方が好きだ。
だが、それはおかしい。それでは、馬鹿になる。
自分が馬鹿が好きなせいで、みんなが馬鹿になった。誰でも、馬鹿で良い方が楽だ。
馬鹿では悪いことにした方が良い。それなら、誰でも賢くなる。
自分は、すぐに治るのを、ゆっくり、分かりながら治しているだけだ。
それで、こういう風に書いていると、治る。そういうわけで、治したい方が、書くようになる。
社会的インフラとか、集合知とか、制度とか、ある意味「当たり前の社会論」を書いていた。
当たり前のことを言う。
「それぞれの立場に応じて、適切に制度を決めよ。」とかを言っていた。
恐怖は、対策をきちんとすると良くなる。怖いものが事前に何か分かるなら、怖くない。
人間は、周期が違うだけだ。賢い周期を持っている人間が賢くなる。
革命が怖かった。本当に、音楽とテレビと戦うのが怖かった。
世代的に考えると、上の世代なんか、全く違う。それぞれの世界観で考えた時に、全くまともに生まれたせいで、何も分かっていない。
それこそ、自分の生きる前にも、この社会はあった。
上の世代が見ても、新しい方が良い。昔は、「高度成長期」が「新しい時代」に見えた。
ただ、あるのは今だけだ。
今の人間は、シビアなのに楽観的な人間が多い。期待もしないが、失望もしない。
夢の無いつまらない時代だが、本当に、何も無いせいで、馬鹿になっている。
職業的には進歩した。特に、パソコンが良い。パソコンの仕事があるせいで、賢くなった。
ある意味、馬鹿が見ている世界の方が賢い。賢い人間が見ている世界では、何も分からない。
歴史上の時代を見ると、昔はルネサンスの時代が賢く見えた。
仏教も賢いものが伝わったように見えた。
そうすると、大して今ある新しいものは、新しいものではないのが良く分かる。
そのうち、全て、変わる。最終的には、むしろ、滅びずに、馬鹿になりながら続くだけだ。
経済学を作るなら、「いつ何が出来るのか」と「何に対して何を行うのか」を考えて、「潜在的可能性」を考えると良いだろう。そして、経験的に社会を分析することで、あらゆる潜在的可能性を全て知り、全て可能とすることが出来る。そういう経済学があっても良い。「そのために何をする必要があるのか」を、良く考えると良いだろう。実地的な分析もするべきだ。
ある意味、今の科学、今の人類に出来ること、今あるもの、全部変わっていく。何が正しくて、何が強くて、何が出来なくて、何が夢で、何が悪いのか、全部変わっていく。
そうすると、今の人類に分かるわけがない。考えるだけ無駄だ。だが、考えていると、普遍的なものも、どこかにあるはずだ。そして、終着点には、何か完成されたものがあるだろう。
テレビの悪い点は、いじめでも批判でもなくて、あると、家族間のコミュニケーションが出来ない。子供と大人が相談し、子供の問題に気付いてあげる時間が無くなる。そういう理由で、テレビで馬鹿になったのが日本だ。ゲームやネットも悪い。家族が社会から孤立するだけではなく、家の誰かが家族から孤立するようになる。そういう理由で、昔から僕はテレビが嫌いだ。