最近の日記(忍者ブログ)に戻る | 2016年10月の日記に戻る
昔は、引き篭もりの実体験と実経験で分かっていた。
学校でのいじめと、引き篭もりになった体験と、全ての環境を経験することで、全て分かった。
環境から自由になること、色んな社会を経験すること、実体験を考えることで分かった。
議論や抑圧を経験して、ソクラテスのように分かっていた。
悪を許せば自由になる。
自分は、ドイツも、ソ連も、何も悪くないのが分かっていない。
悪だと思っているものは、悪ではない。悪を自ら知ることで、賢者となる。
自分を許すこと。自分だけが賢くなれば良いが、普通、誰でも馬鹿だ。
頑張った自分は、何も悪くない。
日本が辛いのは、最近、全員がセックスをしているからだ。
自分のせいで、全員が全員とセックスをしている。
それを、もっと他に変えれば良い。
昔は、全員でいじめをしている馬鹿が多かった。
戦争、革命、宗教を全員でしている時代が多かった。
今から、全員で文明を最初からやり直すようになる。それが良いだろう。
あとは、本当に色んな体験をした。本当に色んなことがあった。
昔は、子供の環境や、ネットの環境から、世界を救いたかった。
そういうことを、環境への適応と言っていた。
環境で出来ること、分かること、意識することを分かっていた。
社会や色んなことを知る中で、経験から社会のことを救えるようになった。
理想やビジョンもあった。
あとは、歴史的に考えて、場の意識で分かっていた。
知恵のような考え方、仮想的な考え方、実存的な考え方を作っていた。
考え方で、存在、社会、人生、現象のことを分かった。
社会の道理を環境の実際から実例で考えた。
ある意味、チャンスと考えるのは正しい。東大に入るチャンスは誰にでもある。入れない人間が悪い。
そのように、知らない間に、あるはずのチャンスを見失っている。人間には、さまざまなチャンスがある。その人が今どこに居るのか、その人には分からない。分かっている人間が教えてあげるべきだ。
正しいと思っていることは、実際にはそんなに正しいわけではない。変えられる可能性がある。絶対的に正しいものは少ない。社会すら変わっていく。社会すら、権力で、自由に作り出せる。
良く考えると、全てのことは、少数の基礎の構造から、推論的、応用的に、全て理解し、発想し、構築出来る。絶対的な知性とは、そういうものだ。
絶対知とは、経緯と知性の共有であり、ほんの少数の基礎の構造から生まれる、推論の可能性である。
理想と現実から、世界を自分の「善」の権力で変えられるようになった。
みんなを許し、みんなの願いを叶える、という意味での、「許しの権力」だった。
そういう、善の権力が多かった。権力と言うよりは、「自分から救う」と言う行為の愛だった。
善の権力とは、純粋にボトムアップで、対価や代償は要求しないが、その人のことを許し、その人のことが自分によって許されるという意味での、「純粋な自己肯定の喜び」が存在する、そういう愛と、その愛が行う「意図」と言う意味での、支配的な意味も含む、行為と権利のことだ。
難しいことを言ったが、代償の要らない愛が、その人を許し、自分を喜ばせる。それが、許されている状況、これを「権力」と表現している。
ソ連も、ある意味では、そういうところから、共同体の国を作りたかった。だが、ソ連は権力を否定するが、僕が見ると、それは間違っている。権力すら、善であるべきなのだ。世界のことを思い通りに決める、独裁者は必要なのだ。それによってのみ、世界は神の王国へと導かれるのだ。
あとは、何が経験に由来する意識で、何が経験に由来しない意識なのか、をもっと良く考えて、何が環境的に由来するのか、何が遺伝子的に由来するのか、何が精神的に由来するのか、何が肉体的に由来するのか、何が自分に由来するのか、何が他人に由来するのか、何が個人的意志に由来するのか、何が社会的意志に由来するのか、などを考える。
そこから、「あらゆる環境、あらゆる経験、あらゆる意識、あらゆる人格」を「包括的に、全てを包括して全部経験し、融和する」ことで分かる。
そこから、ヘーゲルのような「哲学的経緯と人生の段階」が分かってくる。ヘーゲルは、そういうものを総合して「精神」だと言いたいのだと思う。それを、「作り出されること」と言う意味で、生成的に考えて、僕はそれを「経験」や「自由」と言っていた。
心については、執着心、欲求と無意識、仮想的場、感覚などを分かっていた。
人生の中で何があるか、と言ったことを、認知的、感覚的、行動的、心理的、可能性的、協力的、組織的に分かっていた。テーマは、「人生とはどんな形で行われる現象なのか」と言うことだった。
あまり意味がないが、最近は昔の自分のことすら分かっていない。書いたせいで、忘れた。もっと、普通のことを分かった方が良い。
自分は、哲学者と言うよりは、宗教家だ。この文章も、宗教の経典にしか見えない。
自分は、もっと社会的なことを考えた方が良い。
普通、協力するか、争って勝つか、ぐらいしかない。それが一番強い。
「強くなる」と言う発想は悪くない。それが一番栄える。
強くして、安くして、簡単にして、便利にする。それが、一番日本的だ。
ロシア的、ドイツ的な発想はやめた方が良い。
生産手段は平等だが、奴隷が自分だけで出来るわけがない。
もう少し、世界を発展させる、強い発想を考えた方が良い。
従えるか、影響力を持つか、自由にするか、支配するか、それくらいで、モジュラー的な社会を作ることは出来るだろう。いつも、そういう、「様態的社会論」の考え方を作っていた。
自分は、宗教家には見えない。むしろ、詩人に見える。
もう少し、テーマのような漠然としたことを言っても良いだろう。
人間とは何であるか、と言った洞察から、社会のことを考えなさい。
本当に強い人間とは、弱いもののために、他人のために強い人間であれる人間のことだ。
ソ連は、やり方がおかしかった。生産手段を共有し、奴隷に与えるのも間違っていない。そのために国有化し、計画経済で資本主義の矛盾を解決するのもおかしくない。そのために、独裁的な手段を使って、権力に頼って実現しようとしたのが、間違っている。
そこを、もっと別の手段で実現すれば良いが、中国も中国で、資本主義と同じにしただけだ。
ただ、ソ連はあまり言わない方が良い。共産主義は悪い人間に見える。もう、言いたくない。
資本主義の枠組みの中で、そういう平等がしたかった人間が多いから、そういう思想が良いと思う。
社会主義は、過激な集団だ。もっとおかしなことをいくらでもたくらんでいる。止めた方が良い。
子供は、小学校が馬鹿なのが分からない人間が多い。自分が子供で、子供しか居ないせいで、先生が賢く見える。子供が馬鹿だから、先生のやっていることや言っていることが明らかに馬鹿でも、賢く見える。それは、子供だから仕方ない。小学校は、本当は馬鹿な環境と組織だ。先生なんか、明らかに馬鹿なことをやっている。英会話教室の方が、まだ賢い。特に、テストが馬鹿だ。ただ、覚えこんで当てるだけをしても、何も賢くない。子供は何も知らないから、子供のやっていることは全部悲惨だ。中学校ぐらいになると、そういうことが良く分かるようになる。そういう理由で、中学校にいじめが多い。本当に分かっていない馬鹿な人間が中学生に一番多い。
ロボット技術がもっと高度になると、本当に何でも出来るようになる。人類は、そこが分かっていない。ロボット技術は、本当にありえない技術だ。エネルギー産業も様変わりする。人工衛星を沢山打ち上げて、宇宙からエネルギーを吸収する。そのために、宇宙で工事を行うロボットたちがたくさん生まれるだろう。ただ、人間と同じにはならない。知能は人間以下のロボットにはなるが、出来ることや能力は人間よりはるかに優れたロボットになる。それで、人類はありえない文明になるだろう。今のパソコンなんか、そういう意味では何も新しくないし、何も賢くない。
国際宇宙ステーションで何をやっているかは知らないが、生物学の研究を良くやっていると思う。そのうち、宇宙で野菜が作れるようになる。それも、太陽のエネルギーを効率的に使って、今の何千倍もの野菜を安く作れるようになる。
ただ、嘘八百には見える。自分で考えたことを書いているだけで、確証は全くない。
だが、今の世界のままになるように見えて、本当に全く違う世界になる。マイクロソフトは、今のところ賢く見えるが、今からは、初めからパソコンで作業なんかしなくなる。むしろ、HTMLはもっと違う方式のグラフィックと通信技術に変わるだろう。
分からないのは、IT技術がどうなるのかが分からない。ロボットや人工知能が働くようになるし、家や学校や職場が無くなる可能性もある。家や自動車がコンピュータ制御にもなる。食べ物も安くなるし、病気も治る。だが、温暖化や気象災害は増えるし、格差も深刻化する。何も分からなくなって滅びる国も出るかもしれないし、中国やイスラムの台頭から、今度はアフリカなどの国が進出してくるかもしれない。先は見えない。新しい思想の革命が起きる可能性もある。
ただ、人間が、人間として生きている、そのことは変わらない。恋愛もするし、美味しい食べ物も食べたいし、豊かで便利な生活がしたい。だが、ある意味、個人主義的な価値観が、全体主義的な価値観になってくる。協調から、個人主義や娯楽は協力や国家の理想のようなものになってくる。そのうち、金も無くなるかもしれない。
未来は分からない。それは仕方ない。だが、自分に何が出来るかは、ある程度分かるだろう。
あとは、世界を創っている文章が多かった。仮想世界のようなものを全部作っている。
分類、対応、関係、具体性のようなものから、世界を創っていた。
昔は、論理的に考える力があった。そして、経験からこの世界を全部分かっていた。
そういうわけで、「支配しても戦争にはならない」とか、「自由は戦争も包括する」とか、右翼や左翼のような、具体的世界論、国際関係論のようなものを、いつも知性で考えて作っていた。
見ていると、自分が一番日本人に見える。日本人とは、こういう、馬鹿な人間のことを言う。
今の現代人は、あまり新しくない。一番馬鹿な時代だから、僕も馬鹿だ。だが、この時代は、夢があって、希望を取り戻しかけて、変化の最初の段階を待っているような、「目覚め」の時代だ。そのうち、本当に狂った世界になる。今のところ、まだまともに戻れる可能性がある。そういう時代だ。ただ、本当におかしいのはこの時代だけだ。Windowsのようなものはすぐに無くなる。まともな人間のようなロボットに変わるだろう。
むしろ、未来なんか、何も変わらないように見える人間も多い。大変化なんか、すでに終わったように見える。最近は、音声認識とか、自動運転とか、バーチャル・リアリティとか、パッとしない技術が多い。Androidで終わりにしか見えない。自分の発想なんか、一つも賢い発想は出していない。そんなに馬鹿な発想を量産しても意味がないのが、自分だ。
今からは、どうでも良い時代になる。テレビゲームと似ている。最初のファミコンからプレステぐらいまでが一番面白かった。ゲームボーイはスマホだと思えば良い。Wiiぐらいから、つまらなくなった。それこそ、核兵器なんか、ソ連がすぐに勝って無くなる。アメリカは終わって、つまらない昔の帝国時代に戻る。戦争しかしない。まぁ、それはないだろう。普通にこのままアメリカの民主主義がいつまでも、何千年も続く。中世が何千年も続いたように、あまり変わる意味の無いものは、永遠に同じになる。そういう、成熟と言うよりは、恒常的に変わらない世界になる。
自分の予想では、民主主義がこれから何千年も続くが、IT技術だけがいつまでも発展する。
そういうわけで、自分が一番間違っている。ITを否定して、ソ連にするのは、全くおかしい。
ゲームがWiiぐらいまで、パソコンがWindows XPぐらいまで面白かったのは、みんな、飽きたからだ。「そんなに同じことをしたくない」人間が多い。そういうわけで、Faceobookとツイッターのせいで、Webサービスもそろそろつまらなくなる。あとは、スマホもそのうちすぐに飽きる。ロボット技術を作っても、すぐに飽きると思う。
ソ連でITを無くすのは、間違ってはいない。だが、意味がない。ソ連なんか、自分から無くなった。中国なんか、資本主義経済しかしていない。そういう、意味がないものを意味がないと言う集団は、全く自分の方が意味がないのが分かっていない。
父親は、「そんなに同じままの世界になると、社会は退化する」と言っていたが、そうなる。そんなに進歩しすぎた社会が、民衆の意志で、どんどん昔の社会に戻っていく。手塚治虫がすでに火の鳥などで描いている。あまりに新しくなりすぎた未来社会は、すぐに古いものへと戻っていって、最終的には原始人の生活にまで戻る。火の鳥の未来編だったか、どれかの編に描いてあった。
手塚の賢い点は、それだけを正しいとは言っていない。未来編では、一人の青年が火の鳥に見出されて、核兵器で滅びた世界の中で、一人、「死なない永遠に生きる人間」になる。それが、何十億年も世界を生きて、それが神になって、そのまま、地球は原始時代へと戻って、そのまま、何事もなかったかのように、日本が再び誕生する。
また、生命と機械の識別が逆になった人間が、自ら自分の身体をロボットにして、そのロボットが大量に生産される。人間から、ロボットが生まれる。だが、そのロボットは、集団自殺をして、居なくなってしまう。
そういう、ありえない世界の可能性をいくらでも描いている。手塚治虫は本当に賢い。
僕は、手塚は、むしろ、悲しすぎると思う。世界観があまりに悲しい。
僕は、こう見えて、手塚治虫の作品はあまり読んだことはない。火の鳥は、子供時代に好きだった。ただ、ブラックジャックも、鉄腕アトムも、ブッダも読んだことが無い。手塚ではないが、それこそ、スターウォーズすら見たことがない。自分はそういうところが子供だ。
自分は、あまりに常識を知らないから、良く考えると、ガンダムも、エヴァンゲリオンも見たことがないし、ビートルズもあまり知らない。だが、その代わり、オープンソースや哲学のことを知っているから、「人とは違う」人間になった。そのせいで、キモい人間に見える。
良く分からないが、自分でも知らないのがありえないから、いつか知りたいとは思っている。
音楽に詳しいとは言うが、ミスチルもT.M. Revolutionも知らない。ゲームをやっていたとは言うが、マリオブラザーズもドラクエもやっていない。昔から、自分はそういう王御所を知らないが、それは自分のせいには見えない。漫画も、ジャンプを読んでいない。
あとは、空間の把握、弁論術、感情の自由、それから、経験の比較、認識の段階、相対性など、フッサールのように「全てを厳密に把握する」ことで分かっていた。
自分は、馬鹿ではない。キリスト教とか、哲学者とか、プログラミングとか、色んなことは一応知っている。そういう、「人が知らないところにある知」を知っている。みんなが知らないところを知りたかった。みんなと同じになりたくなかった。ただ、学校のクラスメイトにからかわれているのは、そのせいなのが分かっていない。ただ、それはあまり辛くなかった。自分が相手より賢いのが、いつも分かっていた。辛かったのは、無意味に勉強、剣道部の部活、それからネットゲームなどを努力するのが辛かった。そういう、「無意味な拘束」が嫌いだった。それが、変えるに変えられなくなって、一度、不登校になったが、それで自由になった。そのまま、パソコンの世界を全部知って、「水を得た魚」のようにパソコンのことをした。自分は、そういうところが自由な人間だったが、当時賢いことは何も出来なかった。そういうわけで、何も知らないのに勉強が出来て、ロボットのように機械とパソコンの仕組みが分かった。
自分は、何も知らないとは言うが、知らない中で賢いことを知っている。ドラえもんの映画ぐらいは見たことがあったが、ガンガンと言うマイナーな漫画雑誌を読んでいたし、LinuxやPerlなどのプログラミング言語を知っていたし、ゲームはスターオーシャンセカンドストーリーと言うありえないRPGをやっていた。音楽は、ポルノグラフィティとBUMP OF CHICKENが好きだった。
最近、哲学は大学の教授、哲学者、そして学生が分からないような、自分にしか分からないような哲学史を知っている。ほとんどの哲学者のことを、自分の人生で分かっている。そして、ソ連を知っている。それから、キリスト教は、自ら神と対話している。そして、ありえない「生と死のはざま」の体験をした。そして、歴史は簡単だった。時代を覚えるだけで、簡単に出来た。昔は、自分の数学や科学を作って、UNIXのシステムを「自分なりの調査研究」から分かっていた。そういうところが賢い。最近は、詩集のような本を書いて、出版出来たし、小説もたまに書いている。作家は、こういう人間が多い。全く人と違った人間は、自由でも、賢い作家のようになる。
昔は、「自分の力で世界を知り、分析し、調査研究し、新しいことを分かる人間」だった。そういう、自分の力で分かる開拓の能力があった。最近は、そういうところがない。世界をきちんと知って、自分の力で見極めるような、そういう力があったのが、昔の自分だ。
いつも、そういう文章を書いていた。自由な発見の方法と人生の開拓を書いていた。
社会を見極めること。そういうところが馬鹿になったのが最近だ。社会のことを何も知らない。昔は、ダイナミックに変わっていく社会の中で、自分なりに色んなことを知って考えていた。それで、全て分かったのが、昔の自分だ。
そういうわけで、環境から新しい知や真理が分かるとか、経緯から自由が分かるとか、社会はその環境から必然的に生まれるとか、そういうことをいつも書いていた。
知性からモデルが生まれるとか、環境から捉え方が生まれるとか、自然な歴史過程から多様性と共存が生まれるとか、そういう、「必然的経緯と推論の世界」のような文章を書いていた。意図の集積から社会が生まれる。宗教的生き方から運命が生まれる。そういうことを言っても良い。
出来ることを想定して分かっていた。