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パソコンの発想。
ファイル名という概念を無くし、ファイルを自動で保存し、閉じたところから復元する。
ただ、名前をつけて保存も出来るようにした方が良い。
確認ダイアログも表示しない。バックアップも自動で作成する。
思いやりのようなことを書きたかったが、忘れてしまった。
みんなが馬鹿なのは、悪いものになりたくないだけの馬鹿な人間しか居ない。
そんなに良いものになる気もない人間が多い。
悪いものになっていると、分からなくなる。
誰も、自分のことをきちんと考えないから、そうなる。誰もが馬鹿だ。
自分が分からないのは、悪い神になっているからだ。神をやめれば分かる。
何にもならない引き篭もりの方が、分かる人間が多い。
昔は、哲学的に限界を考えて、限界を乗り越えて分かっていた。
限界には色々あって、そのどれもが、視野を広げ、理性批判することで、克服出来る。
限界には、視野と存在把握、言語、理性、環境、議論と言葉と知、社会、歴史、人類と宇宙、現象の捉え方、信念と人間関係、思い込みと習慣、普遍的概念と常識の限界がある。
視野と存在把握の限界は、「自分で見ているものしか、存在していないように見える」というもので、存在は自分の見ていないものでも、確かに、同時に存在している、と思うことで克服出来る。
言語の限界は、人間には言語で分かるものしか分からないというもので、日本語を改良することで、もっと高い立場で言語的に考えられるようになるし、言葉ではなく、ありのままで考えれば、言語ではなく、「言語のない世界」を捉えることが出来る。それで克服は出来るかもしれない。
理性の限界は、人間の理性には限界がある、というもので、落ち着いて考えたり、客観的事実や批判的論証を知ることで、克服出来る。
環境の限界は、自分の見ている環境しか、世界は分かっていないというもので、ショーペンハウアーも言っているように、人間は自分の見ている世界の限界を世界の限界だと思っている。これは、たくさんの世界を知ることで克服出来る。
議論と言葉と知の限界は、人の言っていることは、その言葉しか分からないために、本当のことは分からないという限界で、言葉だけではなく、同じ経験をすることで克服出来る。
社会の限界は、「この世界や社会の全員が分かっていることしか分からない」という限界だ。
歴史の限界は、「今のこの世界が分かっていることは、数年後には変わってしまうし、常識も何もかも確かではない」という限界だ。
人類と宇宙の限界とは、科学の限界とも言えて、「人間には人間の分かることしか分からないから、宇宙のことなんか分かりやしない」という限界だ。
社会、歴史、人類の限界は、良く考えて、実証的に意識を知り、全員の社会を知りながら、正しく常識を疑い、色んな人間の言うことを聞くことで、「実地的に知る」ことで克服出来る。
現象の捉え方の限界は、限界というより、主観でも客観でもなく、ありのままに現象を見ることで、人間の捉え方を増やして行く、というものだ。
信念と人間関係の限界は、「憎しみの限界」とも言えるもので、誰かを憎んでいる間、馬鹿になっている。それは、戦わず、争わず、自分から許すことで克服出来る。
思い込みと習慣の限界は、「いつも同じことをしている」せいで、それが当たり前だと思っている。先入観を無くして、新しく考え方を変えて考えることで、びっくりと驚くことによって克服出来る。だが、思い込みの限界は、賢いところもある。いつも同じにすると、それで分かる人間が多い。
普遍的概念と常識の限界は、たとえば、「支配者が現れると戦争になる」と言ったもので、悪い支配者なら戦争になるが、良い支配者なら栄えた世界になる。これは、肯定と否定を繰り返して、経験したり、事実を知ったり、良く考えることによって、克服出来る。
良い支配者なら平和になるとは、最近考えたことだ。独裁者は戦争になるように見えて、良い独裁者なら、良い世界になる。体制や制度を見るだけではなく、中身や具体的政策を見ていくことも、大切だ。思想では分からないことが、現実では起きてしまう。
そういうわけで、ベーコンみたいになったが、おそらく、限界はもっとあると思う。
いくらか狂った発想をすると分かることがある。
100階建てのビルを地下に作るとか、そういうことだ。
最近、自分のせいで、テレビは戦いたくなくなっている。こんな馬鹿と戦いたくない。
だが、それは一時的なもので、リバウンドのように戦うようになるだろう。
戦いたい人間が既に多い。右翼がどんどん増えている。戦う意志を無くすと、本当に馬鹿になる。
自分は、制御するせいで、制御が間違っているのが分かっていない。
デカルトは、自己を考えるせいで、自己が幻想なのが分かっていない。
仏教でいうように、自己がある、と考えるのは幻想であり、所有されるというのも幻想である。
植物は、自我は無いが、直接的なレベルで、全体で一つの生命を形成している。
動物は、レベルが上がるほど、環境から独立して、個別性と社会性が同時に高まっていく。
だが、植物は、自立性があるし、全体で一つの生命である。全体が考えているのだと思う。
人間には、環境的因果性と、経緯的因果性がある。因果性の中で、人は思い込みや間違ったことを信じて、その嘘の経験を正しいと思ってしまう。それは、因果性を良く見つめ直し、執着心や思い込みを別の角度で、「因果性が違っている可能性」を知ることで、解決し、涅槃へと至ることが出来る。仏教では執着を無くすことで解脱へと至るというが、自分の場合、因果性を考えることで、ソクラテスからハイデガーまで、全ての哲学を融和出来る。
因果性の問題は、「因果関係を知り、ありのままを体験するだけで、それがそうなのだと思ってしまうこと」だ。だから、人は同じ因果性の中では、同じことを思うのだ。全く違った環境、習慣、世界、視野、気付き、世界観の中で、人々は覚醒し、ヘーゲルのように発見を知ることが出来る。それは、「因果性の呪縛」からの解放であるとともに、「全員との融和」なのである。
また、自己を幻想だと思うことから、「自分は宇宙の構成要素の一つに過ぎないのだ」ということが分かる。それは、不自由のようでいて、むしろ、自由になるための最初の気付きだと言える。自分が不自由なのだと知ることで、「自分には本当に何が可能なのか」を知って、「自由になるためには何が出来るのか」を知ることが出来る。ヤスパースのように、集団に没しない意識を持つことで、ニーチェのように、全てを可能とする自由な超人になれるのである。
あとは、時代や生態系のことを考えると良く分かる。江戸時代の民衆も、まともな集団だ。その時代の習慣を持って、その時代の常識を生きている。自分たちの時代を、本当に正しい時代だと思っている。それから、生態系は、魚やイルカのように海の生き物もいるし、人間の身体の中にも微生物や細菌は沢山いる。人間の生きている環境が、必ずしも普通ではない。そういう風に考えていくと、学校のような場も、普通とは必ずしも言えない。
ただ、自分の場合、高校と言う環境が無かったが、それで馬鹿になった。誰もが高校と言う環境があるせいで、まともな人間になる。だから、まともになるのは諦めた方が良い。
それこそ、戦いたくなくなった、他の人間たちの方が悲惨だ。最近は、本当に自分のせいで戦いたくなくなった。戦う意味がない。もう少し、攻撃的な世界にすると、楽な世界になる。戦っていると、弱いものが居なくなる。そういうわけで、もっと戦いの世界にした方が良い。ただ、僕はこれ以上、戦いたくない。そういう、もうこれ以上戦いたくない人間は、最近多い。
可能性を考えること。どんな可能性から何が生まれ得るのかを考えて、そのための条件と方法を考えて、そのことにおける「考えなくてはいけないこと」を知る。そして、結果と効果を知ることで、「どんな可能性が、人類に何を与えてくれるのか」を考える。そういう風に考えれば良い。
統一と個別化の社会論を作っていた。環境と場と具体的社会の、枠組みのような、因果性のような段階を書いていた。本当に具体的な社会の歴史と、その中でのみんなを書いていた。
デカルトのような「正しい考え方」、カントのような「経験を可能にする」、マルクスのような「生産手段」、アリストテレスのような「目的因」や「可能態・現実態」は、考えるという「知性の必然的成り行き」で考えていた。当然の成り行きから、世界観で考えた。そういう段階を書いていた。それは、気付きと、経験の自由なモデル化と、考え方の適用と、違った角度から見方を変えることと、みんなの言っていることを良く聞きながら、自分の出来る範囲で経験し、体験する、ということだった。
昔は、自分の力で自分を治していた。それだけが本当に多かった。心理学も多かったが、具体的に自分の力で、発想して自分を治した。神とは言うが、神とはそういうことを教える存在だった。
僕は、昔ミニ四駆が好きだったから、自動車のことは好きだし、良く分かっている。ピアノをやっていたから、音楽のことも分かっているし、英語、陸上、駅伝、剣道、書道のようなことをたくさんやっていたから、昔からこの世界のことが全部分かっている。そこが居ない。
怖いことは、怖くなくても、あとになってから怖い。そういうわけで、怖い方が正常だから、それを治すと怖くなる。出来るだけ怖いことを排除して、あとで怖くなっても良いような、そういう準備をしておくべきだ。ただ、怖い方が出来る人間は、多い。
怖いものが怖くない人間は、狂っている。怖くなった時は、怖いものを怖くないものと取り替えれば、安心出来る。そういうわけで、ポルノやインターネットは狂う。もっと、自分の居る場所を普通の家にすればすぐに楽になる。ネットで議論で戦っていると、ネットを止めた時にネットが怖くなる。それでおかしくなって、馬鹿になる。だから、ネットなんかしない方が良い。
こういう人間は、自分が悪く勝つ、という発想がおかしい。いじめも、ネットも、ポルノも、全部「勝つ」ということ、それも、「悪い人間になって良い人間に勝つ」ということに関係している。そういう人間が狂う。そういうわけで、自由が勝つのはおかしい。むしろ、ヒトラーも、革命も、そういう風に同じだ。平等も、ファシズムも、全部同じだ。そういう一番悪い人間しか、狂わない。
キリスト教もそういう風に悪いのは分かるが、憎しみの連鎖はどこかで断ち切る必要があって、そのためには、自分から許して、それも悪い人間を許して、愛を信じる必要がある。そういう、イエスの言っていることは、悪くない。憎しみの連鎖を無くして、思いやりを持って、みんなのことを愛し、救う人間は、救われる。だが、神を盲信してはいけない。神は、ある意味、「悪い人間が良い人間に勝つ」の最たるものだ。そういう人間は馬鹿になる。父なる神よりもキリストの方が良い人間だ。
あとは、思考を辿って、人格の形成過程と全員の仮想人格を知って、意識を自在にして分かっていた。そこから、関係性や実存性が分かった。ネットでの議論も含めて、まるで「正しい思弁哲学者」のようになった。ただ、そんなに賢くはない。ネットのスラムを経験しただけの馬鹿だった。
不思議と、悪いことをみんなのためと思う人間は多い。自分は、そこが間違っていた。自分のした悪いことが、みんなのためにならなかった。そこが分かると、怖いのが治る。
自分は、絶望を経験した中でまだやっているのは、自分を自分だと確かめる手段が、他にないからだ。そのせいで、おかしなことをまだ繰り返しているのだと思う。
ある意味、昔の自分は間違っていない。こんな一人の人間を崇拝するより、自由になった方が良い。だが、そこで自分が取った行動は間違っていた。自分のことを悪のように見せても意味がない。みんなは、純粋に昔の理想的な男が好きだっただけだ。それを、女王による圧政にして、責任をみんなに押し付けるのはおかしい。ある意味、それも愛の一つには見えるが。
昔は、ネットで色んな議論や体験をして、具体的な社会や実現の理想と可能性を知って、「疑う余地のないほど正しい人間」になっていた。自由から平等まで、何がどのように意味があるのかを知って、「それを作る可能性が何であるか」を知って、理想と現実が分かって、パソコンのシステムを知って、世界にある全員の「苦痛と抑圧の解決方法」が分かっていた。
ヒトラーも、「自分のことを疑う人間は頭がおかしい」と演説で言っているが、そういうことを言っている人間は、自分が頭がおかしいのを隠したいだけだ。疑う余地がないと言っているのは、昔の自分と同じだ。善が分かっているように見えて、賢い悪を善だと思っている。
あとは、具体的な社会のことを書いていない。ロシアやアメリカのような具体的な社会を、言葉と段階で、抽象的に書いていた。ただ、昔は、そういうものを具体的に広く浅く知っていた。考えて知っていただけだから、知識のようなものはないが、具体的な社会を見ていた。
自分は、賢いものを馬鹿だと思わないのがおかしい。普通、社会に無益な学校や、役に立たない学問が多い。昔の自分は、そういうものを「意味がない」と考えて、その上で、人との会話や経験を重ねて、「そういうものと同じ発想をする」ことで分かっていた。そのせいで、賢くはなったが、最近は馬鹿になった。賢いものは馬鹿だから、権威や宗教を否定して、戦う人間になると賢くなる。その方が良い。右翼は、自分の配下に国民を置きたいだけだし、学校や宗教も同じだ。哲学から歴史まで、文系の学問は役に立たない。理科もあまり意味がない。最近、誰もがそういうものが嫌いだ。そういう、意味の無いものは嫌いな人間が多い。デカルトも、数学ぐらいしか意味がある学問は無いと言っている。大学や権威は賢くない。そういうものは、本当に無い方が賢くなる。哲学なんか、自分が哲学者になる人間が多い。大学の勉強は、意味がない。
この世界を間違っていると思うのは簡単だが、それなら、もっと別の「正しい世界」の「ビジョンを自分から示す」べきだろう。自分で正しい世界が何なのか、経験から考えるべきだ。
世界を変えるためには、別の可能性をきちんと示すこと。そのように、当たり前に正しく考えることでしか、世界を救うことは出来ない。だが、洞察は馬鹿で良い。洞察は、ある程度ありえない発想をすれば、それで分かる。具体的な理解や方法が賢ければ良い。自由が悪くても、自由にすべきだと思っても、そこにあまり差異はないのだ。
大事なことは、「良いものとは何なのか」であり、同時に「悪いものとは何なのか」だ。昔の自分がおかしいのは、インターネットの自由を良いと思ったのが間違っている。そのまま、自由な経験や行動や社会を信じてしまった。最近は、そういう風に世界を救いたい人間が多いが、そういう風に考えるのは間違っている。もっと、当たり前のことを信じないと、おかしな世界になる。自由は悪い。自由や宗教は、信じない方が良い。ネットは友愛だが、誹謗中傷であり、悪い。
ただ、コミュニティという発想は悪くないし、経験や可能性でも分かることは多い。自分は、最初から世界を救いたかったわけではない。まず自由な友愛が好きになって、そこから世界を救えるようになった。自由は好きだったが、最初はパソコンの社会なんか、何も知らなかった。
そういうわけで、自由で世界を救いたい、という人間は、馬鹿な人間が多い。右翼は馬鹿だ。
あとは、数学的に考えていたのぐらいを書いていない。条件と積み重ねで、色んな構造を作り直して分かっていた。モデルは、雑多な知識を基盤的構造に落とし込んで、行動と作用とその結果を考えるように、目的と発想のモデルを作った。モデルから色んなことを発想する人間だった。
それで、実証や経緯から、説明と仮説を分かっていた。
「人間モデル」や「社会モデル」を作って、個人と集団から、モデルをはめ込んで分かっていた。
そういうわけで、昔の自分はモデルしか分かっていない。今の自分も対話しか分かっていない。
環境みたいなことをモデルにして、プロセスや方法を分かっていた。
人間の信念の世界モデルを作った。
あとは、経験と方法の場合における、状況的な認識の変化や、その普遍性を考えていた。
難しいことを言っているが、色んな認識を作って分かっていただけだ。
あとは、意識の変転で、ヘーゲルやキルケゴールのように分かっていた。
最近なんか、知性が無くなって、狂っているだけだ。色んなことがあったのは、王をやっているからだ。王をやるために、一人だけで狂っている。そこが賢かったのが、自分だ。
あとは、経済学を作ったり、宗教の対話と宣言のようなことを分かったりしていた。
もう少し、まともになった方が良い。自分は狂っているようで、最近まともになった。
全く新しいインターネットを作っても良いかもしれない。ページにHTMLを使うのではなく、コマンドラインのコマンドのような、新しい表記の形式やコマンドを使う。成功した時は、今のインターネットを塗り替えるものになる。それも良い可能性かもしれない。もっとインタラクティブで楽しいブログや掲示板を作れる可能性はある。それぞれのWebサイトが繋がっても良い。
いつもの文章は、ニーチェみたいな文章だった。愛から平等が生まれ、自由から平和が生まれ、多様性から生命が生まれ、普遍性から宇宙が生まれる。いつも、そういう、ニーチェと全く同じものを書いていた。そういう、「はめ込んで言葉を作っていく」ような文章だった。
あとは、想像力と感情で考えた「ありえない構造」を全部書いているだけだ。
自分は、「治す」という発想がおかしい。自分をまともにして、コントロールする、という発想がおかしい。治っていないのに、全部治っている。精神は、それでおかしくなっただけだ。
昔のように、経験しながらありえない世界モデルを作れば良い。そうすると、想像力がつく。そういう風にしないと分からない。むしろ、知り尽くして、調べて、思考を一つ一つ積み重ねて、世界を広く浅く知って、パソコンの仕組みを知って、会話して、実証して、自然に生まれたのが昔のモデルだ。そういう、数学者のような人間だったのが、昔の自分だ。
HTMLでないインターネットは、自分でも馬鹿に見えるが、入出力、グラフィック、ネットワーク連携など、色んなことが出来るようになる。
もう少し実地的に、知識を知って考えた方が良い。昔の文章は、そういう風に発想していた。
頭の中に構造を作って、構造と経験から、照らし合わせて哲学や他人の認識を分かっていた。
感覚から、神のように考えた。
ただ、あれは本当に子供みたいな人間だ。当時、17歳ぐらいだった。Linuxはそういう人間が出来る。ただ、あれはLinuxなんか、何も出来なかった。工業大学に行かないで、引き篭もりでLinuxのことは出来ない。昔から、パソコンを賢いと思っていたが、今見ると、何も賢くない。誰でも出来るから、アマチュアでも出来るように見える人間が多い。
天使とは、自分のことを言っている。パソコンのように可愛い女には見えるが、明らかにおかしい。
良く考えると、ミニ四駆が良かった。あれはプラモデルみたいな動く自動車の模型で、ニッパーとドライバーとカッターと接着剤などを使って、くり抜いたり、モーターを動かしたり、電池やギアを調節したりする。それが、そのまま、Linuxのシステムの仕組みを知って、全体像を知るようになった。Gentoo Linuxのハンドブックだけでほとんど分かった。違うように見えて、ミニ四駆と基本は同じだ。
あとは、ゲームはそんなに悪くない。数学的な思考と問題解決の能力がついた。
漫画や小説はあまり意味がないが、文学的才能に繋がったのだと思う。あとは、ピアノで感性が高くなった。それから、陸上と剣道で、持久力があったせいで、いくらでも辛いことが出来るようになった。
ミニ四駆の良い点は、部品とともに、設計図と手順がついたメモみたいな文章がついている。それだけで、子供でも、誰でも簡単に作れる。あとは、グレードアップパーツを買うと、色々と改造が出来る。昔の僕は、それが面白くて、いつもたくさんのネジとタイヤを広げて、毎日のようにミニ四駆をいじっていた。ピアノの先生も、それを見て「そんなに好きなんだね」といったことを言っていた。
自分の問題は、ネットゲームが悪かった。あれは人間をロボットにしているだけだ。それに、それを中学校のクラスメイトに広めたりしていた。そういうことで、学校が嫌いになった。
姉や友達と一緒にテレビゲームをしていたが、ゲームをやっている時代は面白かった。友達とのコミュニケーション代わりにゲームをやっていた。中学生ぐらいから、ゲームをやらなくなって、急速に人生がつまらなくなった。そこから先、色々と嫌な思い出が多い。全部、そういう悪いことは、ゲームのせいだ。ゲームを悪いと思えば良い。
何故か、昔から森羅万象の全部の科学をやっている。アリストテレスが大学になったように見える。人生を全員分やったとは言うが、結果的にそうなっただけで、そういうことはしたくない。目標は、Linuxを人並みに開発して、オープンソースのブラウザやGUIを作ることだったが、全く出来るわけがない。何でも出来るから、出来ると思っていたが、そんな馬鹿には出来ない。
パソコンは、むしろ、悪くなかった。パソコンは、パソコンだけをそこまで知っていると、誰でも出来る。寂しい自分のことを癒す存在だった。そして、ストールマンのように全てを知っていた。そういう人間は居ないが、居ないのは悪くなかった。こういう、居ない人間が賢くなる。
最近は、下積みのように文章だけをいくらでも書いたが、そんなに賢くない。昔の方が楽だった。
自分には、諦めずに夢を追いかける情熱と、全員のことを許す慈悲の心と、その気になれば戦う勇敢な心がある。だが、勘違いをしているところや、いじわるなところがある。わがままではないが、自分勝手で、先を見ていない。それから、自分のことを大切にしないから、他人のことが大切に出来ていない。次の人生がもしあったとしたら、自分が何かをやるよりも、その人を助けるような、そういう人生が生きられれば良い。自分で全てやるのは、昔から嫌いだ。
昔から、自分はみんなのことを助けたい。インフラ整備だけではなく、会社を作ったりして、みんなを使って世界を変える、あるいは、みんなのために基盤や環境を作ることを考えていた。自分は、何故か、自分で全てやることにすると、みんなを助けることをやり出す。そういうわけで、王というよりは、聖職者に近い。自分で戦争したりするのはつまらないから、戦争を誰も出来ないように社会を導いた。勝利したりしないのに、Linuxの周辺を助ける。そこらへんが自分の魂であって、魂とはそういうことを言うのだと思う。
昔から、自分は基盤みたいなものが良く分かる。会社に参加する、などの社会的なものだけではなく、技術的な、GTK+/Qtを使ったプラットフォームだとか、総合組み込みシステムとか、RPMとファイルシステムを統合するとか、そういうことを思いつく。事前に考えながら基盤にすることで、生物学のようなことを分かっていた。
あとは、社会のことを何故か良く知っている。色んなオープンソース社会のようなことを知っている。そういうものは、全て、環境を変えたいからそうなる。いじめも同じだ。自分で環境を変えて、この世界を楽園にしたい。そこで活躍する人材は、自分でなくて良い。そういう人間が自分だ。
いつもの文章なんか、これくらいしか書いていない。あとは、大して何もなかった。
人生の記憶のようなものを書いていたが、引き篭もりに見えてキモイ。それが多かった。
何故か、あとはクズみたいな文章が多い。偽装工作のようなことを書いて、世界を支配する。良く分からないが、それがみんなを馬鹿にする。そんな馬鹿が王で良いわけがない。
あとは、感情を支配して、みんなの王になったのは、馬鹿に見えて、良かった。最大限頑張って、色んなことが出来た。それから、作家は楽しかった。毎日少しずつ分かるせいで、もう全部分かった。
それから、ノートを入力するのはやめた方が良い。ビードルみたいな虫を分かっているだけに見える。昔の文章は、キモい文章だ。これくらいで、それはもう十分だ。
自分は、昔から、基盤を作るのが好きだ。設計図を描いたり、発想したり、文章を書いたりするのが得意だ。逆に、実現するのは苦手だ。教師になったり、政治家になったり、プログラマや翻訳家を本気でやるのは、出来るように見えて出来ない。実現するための方法を知ることをしない。そういう、甘っちょろい人間だから、こういう風に大人になってニートになる。だが、それでも諦めてはいない。何か、賢い勘違いしたところで、文章をまだ書いている。そういう、底力のようなものはある。遺伝子というより、経験的にそうなったのが、良く分かる。何も努力はしていないが、継続力や底力のようなものはある。神との対話で文章が書けるのは、そういう才能のようなもの、知性のようなものは、きちんとあるからだ。最近なんか、無かった才能をつけただけで、それが賢いから、こういう風に、もう作家のままでいつまでも同じになる。作家になれば良い。
昔は、プログラマの才能は無かった。だが、あのプログラマみたいな人間が、実現方法から発想方法まで、全部知っている。その後の、おかしな兵隊が、全部書いて覚えている。自分は、それらが賢いだけだから、それらを否定はしない。だが、あれらは本当におかしな人間だった。
そういうわけで、作家になるしかない。天才とは言うが、人並みのこともまともに出来ない。
昔の王とは言うが、あの王は何も良くなかった。あれは、自分を削り取って、殺して、みんなを馬鹿にして導いている。見ても悪い。自分のやっていることで、世界が悪くなっていく自覚のようなものが無いし、無責任で、自分勝手で、いつか「自分は良いことをする」と言うが、そのせいでいくらでも悪いことをした。良いことなんか、最後まで結局出来なかった。見ていると、そこまでおかしな狂った人間を書いている。
自分は、あの馬鹿が嫌いだから、あの馬鹿のことを愚か者だと思っていた。
あまり意味がないが、最近はあの馬鹿で分かるだけだ。あの馬鹿は賢かった。
王だから、名前はアナと雪の女王に出てくる「エルサ」ということにする。
昔の馬鹿な女はアナで、今の自分はクリストフだ。キリストみたいに見えて良いだろう。
新しいインターネットは、今のWebブラウザとは全く違うソフトウェアでやると面白いと思う。HTMLでは、簡単なページしか作れない。VRなどとともに、賢いプラットフォームを、マイクロソフトやグーグルのような会社がすれば良い。
それは、良い点として、「今のインターネットが終わる」という側面がある。2ちゃんねるのような愚民的インターネットが終わる。それも悪くないが、新しいインターネットがさらに悪いものになるからつまらない。愚民たちは悲惨だ。
自分は大人になった。顔にはニキビがあるが、見ていると、羽生結弦選手みたいな賢い顔をしている。昔から、プーチンのような馬鹿に見える。そこらへんがロシア人だ。