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=2016-09-30=

学校は、教え合い、学び合うことから、自由に勉強出来るべきだと思っていた。

トップダウンに、上から従えて教え込むのは良くない。

それぞれが自由活発に学習し、学び合うことで、自由に勉強をする。

そして、「社会を作る練習」や「実践的学習」をするべきだ。

以下は、ツイッターの投稿より。

楽しかった体験のように見えて、本当はあまり意味がなかった、ということが良くある。

学校で「しなさい」と言われることの大部分は、しなくて良いことだ。

いつかどこかに居た悪い人間は、もう居なくなった。

精神は、どこかで覚えているのを忘れれば治る。

自分は、驚くのが怖かった。

悪いことだけでなく、良いことも忘れるべきだ。

ツイッターはここまで。

核兵器は、金で売却することが出来るかもしれない。

どんどん解決して、どんどん実現していた。

悪い人間は居ない。人々が攻撃し、批判するのは、その人のせいではなく、みんなのせいだ。

漠然と考えながら、具体的に捉えることで、世界観と構造が見えてくる。

「治すためにする」のはおかしい。もっと、そのこと自体を目的にするべきだ。

行動を、手段ではなく、目的だと思うこと。治すための手段だと思うと、その方が治らない。

人間が自由であるとは、どういうことを言うのか?

自由であることによって、何が出来るのか?

社会とは、そもそもどんなものであるべきか?

宇宙は、いかにして捉えることが出来るのか?

そういう風に、漠然と考えながら、色んな方法を使って、具体的に捉えれば良い。

実際にするのではなく、想定して、行動と結果を捉えて考えること。

問題を共有し、その問題が何をどう捉えているかを考えること。

問題を、現象の経験的な経緯だと考えること。

ウィトゲンシュタインとヘーゲルの言っていることは、「想定」という意味で同じだ。

それを、純粋に経験として考えること。そして、純粋に意識の現象として考えること。

哲学とは、そういう、「現象の前提と背後に何があるか」を考える学問だ。

昔から、自分は神のように分かるが、昔は神など信じていなかった。

永遠、希望、神、救い、運命、のような、超越的なことは、信じない方が分かる。

そういうものは「信じる対象」ではなく、疑ったあとで、人生として「起きる現象」なのだ。

だから、起きるまで、信じなくて良い。そういうものは、普通は起きないから、疑った方が良い。

ヘーゲルは、人生、社会の経緯、経験と認識を、現象の過程として、観念的に考えている。

要は、「過程の中でどんな観念が生まれるか」を、「人生的現象の背後として」考えている。

そういう発想が、哲学だ。

自分は、これで、もう治った。昔は、これで、心理学のマスターのように考えていた。

最近は、世界全体から人間個人のことを推測するような、そういう文章が多かった。

推論して、書けば何でも分かる人間だった。書いている間に、色んなことを考える。

あとは、条件を考えれば分かる。それは、その時、そうされる時にそうなる。

一度、この世界にあるものをシャットアウトした方が良い。この世界にあるものは、全部馬鹿だ。

昔は世界を広く見ていたが、最近は自分の心だけが世界になった。

ただ、そんなに世界を作り変える最近は意味がない。この世界との関わりを消した方が良い。

馬鹿な仕事にならない方が良い。何も出来なくなって、辛くなる。

何もしない、無職やニートの方が、賢くなる。そこが分かる人間は、賢い。

人間は、みんなの分かることしか分からない。それで、子供のようにきちんと分かる。

昔の自分は、みんなの分かることを分かっただけだ。

認識と心を想定して、みんなの分かることを、状況を判断して分かっていた。

認識と心を想定して、プロセスから因果性を考えれば、何でも理由が分かる。

ただ、ある意味、それは信じたいように信じているだけだ。最初から正しいことを分かっている。

決まりと基盤から、環境を作れる。昔は、そういう発想が多かった。

宇宙は神から生まれたとされているが、もっと別の宇宙から生まれた、とする方が自然だ。

ゲノム編集の怖い点は、200倍に膨らむトマトや、200倍増えるハエなどが作れる。

ゲノム編集は、賢い技術だが、同時に、恐ろしい技術だ。

自分は、義務や責任は無いのが分かっていない。責任を自分で取りたいのは良いが、日本に責任を負わせた方が楽だ。責任を感じるのは、おかしい。

自分は、昔から、最初にしたことや一度したことを変えずに、そのまま永遠に続けてしまう。そこが昔からおかしい。最初におかしいことをすると、あとが全部それだけになってしまう。

言うのは悪くない。もっと、別のことを言えば良い。

狂うように見えて、狂わなかった。馬鹿のフリをしたり、馬鹿になりたいと思ったりするのは、止めた方が良い。それでは、周りはみんな自分のことが馬鹿に見える。賢いことなんか出来なくて、何も分からないように見える。それでは、自分が損をするだけだ。

馬鹿な仕事はしなくて良い。大学も、色々と馬鹿だ。本を読んで、考えて、昔のように積極的に色んなことをした方が良い。みんなの分かっていることを、自分なりに分かれば楽しい。

昔は、認識と人格を想定して、そういう風に認識を作って、心と一致させて分かっていた。

昔は、みんなの分かっていることを自分なりに考えて、「同じになる」ことで分かっていた。

人間の問題は、「自分」があるからだ。地上の生命である、動物は、自己や自分があることが賢いとは言うが、そのせいで、自分に含まれるものしか考えられないし、自分が同時に2つの存在になったり出来ない。自分が一人であるために、常に判断する自分も一人しかいない。

生命は、おそらく、賢い自分を作り出すために、生殖し、遺伝し、増やすようにした。

遺伝子で精神すら決まっている可能性はあるが、むしろ、人格の形成は経験的に生まれるだろう。

日本では戦争が悪のように語られるが、それは太平洋戦争が総力戦だったからだ。戦車やミサイルや戦闘機や軍艦を使う、超近代的で、全力で頑張る戦争だった。

普通、戦争なんか、利害関係の合わない集団をみんなの力で殺すだけだ。あとは、蛮族から国を守り、弱い地域に進出して、国を広げる。

普通、国はそういう風にしか変わらない。近代的戦争のせいで、国は簡単には変わらないし、戦争も出来なくなった。民主主義がファシズムに陥るのは、そのせいだ。イスラム国もそのせいで生まれたのかもしれない。それこそ、近代化したことで、金があればいくらでも最強の軍隊を持つことが出来る。それが、今のアメリカとロシアとイスラムだ。

生命は、増えることによって、可能性を広げていく。昔は、植物でも動物でもない、また、動物の中でも色んな生命があるような、そういう生態系があった可能性がある。増えることも大切だが、同じにすることも大切で、人間や優れた動物が、必然的に一種だけ生き残る。だが、その一種から、多様性が生まれていく。

民主主義の優れた点は、戦争や革命など、殺さなくても国を変えることが出来る。だが、それも、反抗的で、堕落した、知性のない「愚民」を生んだ、という点で、間違っているのかもしれない。

昔は、自分は一度決まったことを決め直して世界の全員を分かっていた。そこがおかしかった。

カラスの鳴き声は、人間には「カー」と聞こえるが、カラスがどう聞こえるかは分からない。何か会話をしている可能性はあるかもしれない。

人間は、自分の「死」と思う体験をすれば、死ぬ。そして、赤ちゃんの時に見た、最初の夢に戻る。

認識と認識を比較して、「普遍的な認識」を作って分かった。

間違いは、間違いであるという指摘だけではならない。「ならば、どうするべきなのか」という、間違っている時の対案と、「何故間違っているのか」という根拠と理由がなければならない。そこから、社会の改善方法や、共同体の自由なビジョンが見えてくる。それを経験しなければならない。そして、全てのことが出来るようになる、という目指すべき目標を持て。

歴史は「必然的にそうなっていった」という事実であり、ある意味、必然的な経緯の共有と個別化である。だが、それは自由でないことを意味するわけではない。自由だが、そうはなされてこなかった、という、「事実上の必然性」であって、神が動かすわけでも、階級闘争でも、運命的にそうなるのでも、自由が全くないのでもない。また、偶然でもない。誰もがそのように、「必然的に行動する」ことから、社会が作り出されていき、それぞれの行動と関係から社会が生まれていった。たくさんの解決方法はとられずに、事実上こういう社会になったのだ。

そういうわけで、未来が全て今より良くなるわけではない。ほとんどのことは悪くなる。だが、それでも、全体としての方向性は変わらない。いや、今まで変わらなかっただけで、変えられないわけではないのだ。ただ、平等にしたり、馬鹿な民衆が勝手に変えられたり、悪い人間に国が乗っ取られたりしても意味がないが、そういうことは起きる。だが、それでは解決しない。もっと、本質的で純粋な、「国をみんなの力でどういうものにするか」というビジョンがなければ、民主主義も、社会主義も、その思想がその思想である、意味がないのだ。

革命家やテロリストが悪いのは分かる。それらを殺しても解決する。それもそれで、一つの解決だ。だが、もっと他に、競争を止めるとか、学校環境を意味のあるものにするとか、全員に教育の機会を与えるとか、格差を是正するとか、やるべきことはたくさんあるはずだ。何もかも、それだけが一つの正しい解決方法ではない。革命家やテロリストだって、何かの理由があって悪いことをしている。攻撃は、心の叫び声であり、誰かに助けを求める哀れな意志なのだ。

ただ、自分の問題は、そんな甘っちょろい問題でないのが分かっていない。ただ、テロリストが数人いて、財産がなくて犯罪を犯すなら、それを助ければ良い。だが、それが国や民族単位で、最強の軍隊を持っていて、取ることが出来る行動は、戦争しかない。イスラム国も、あまりに強くなり過ぎた。そういうものだ。そういう国も、普通の国だ。

環境を実現するとは、前提となる経験や環境など、この世界の全ての実現のことを言っていた。

そういう、ある意味で救世主のような、王のような、エキスパートのような人間だった。

イスラム国も普通の国だ。それこそ、昔からソ連がそういう国だ。

昔は、認識がその認識になる理由を分かっていた。それを良く考えた。

子供なりに、Linuxのシステムの仕組みを知った。そして、何かLinuxのためになることをしようと、FAQを書いていた。高校がなかったせいで、Linuxが恋人のような存在だった。

ハイデガーは、記憶の中の世界のことを言っている。記憶の中では、「見たからそれがある」が正しい。ハイデガーはそういう風にしか考えない人間だが、自分としては、普通の方が正しいのが分かっている。それも、分かっていないのかもしれない。

哲学は、中高生にしか出来ない。中学生の時代に考えて、高校生の時代に世界を全部すると出来る。出来るだけ孤独で、色んな人間と付き合うこと。だが、大学に入ると、何故か、馬鹿になる。大学は、馬鹿な大学が多い。そのまま、馬鹿な大人になる人間が一番多い。大人は何も無いように見えて、最近の自分のような体験をする。本当に馬鹿なだけになって、宗教や右翼になる。それが、賢い人間だ。

こういう風に書くのはやめた方が良い。誰か他人のことをけなす人間は、賢くてもキモイ。

豊洲市場の問題を見ているが、僕は、東京はもう駄目だと思う。オリンピックもまともに出来ないし、秋葉原のような街並みはおかしい。あまり東京のことを知らないが、東京はもう駄目だ。日本全体としても、政治家から知識人まで、みんな、何も分かっていない。悪いというよりは、馬鹿になって、意味が無くなっている。IT産業を悪いというが、悪くない。気象災害だけではない。右翼が増えている。外国ではテロや内戦や難民も起きて、どんどん右翼が勝っている。

この世界はもう駄目だと思う。悪くはないが、駄目だ。

最近の流行なんか、IT産業ぐらいしかない。

ただ、最近、僕はITはまた好きになってきた。特に、ツイッターは、ハッシュタグを使うと面白いのが分かった。こういう、何もないつまらない人間は、ツイッターで良い。

僕は、そろそろ頭がおかしい。全部治ったのに治っていない。これ以降は、何もない。

病院では、そろそろ仕事につく努力をすれば良いという話になった。今日は、通っている精神科の病院の診療を受けた。そろそろ、簡単な作業でもした方が良いだろう。カウンセリングは、今の状態でやると、辛いから、止めた方が良いと言われた。

そうすると、むしろ、これから先に意味がなく見える。ここまでは、文章を書くのが楽しかった。地獄のように辛かったのは悪いが、地獄を乗り越える、そういうタフな楽しさがあった。

ここから先、辛いのが良く分かる。死ぬよりも、頑張って生きた方が良い。

人生に答えはない。自分のやり方で歩むしかない。文章を仕事にするのも、一つの夢だ。

ただ、それはちょっと嫌だ。文章は、書いても書いても、良いことがなくて、辛いだけだ。

昔の日本は、本当に、見える世界が狭かった。何も知らないから幸福だった。楽からありえない世界に行けるように見えた。だが、世界を全部知っても、あるものはそんなに多くない。世界を知るだけで、色んなことは分かるが、そのプロセスに意味がないから、意味がない世界になった。

パソコンとは言うが、昔のパソコンは、未来へのビジョンがある程度共有されていたし、方向性や世界観もまだ少なかった。最近はおかしい。おかしく狂った時代になっている。何もかも意味がないもので埋め尽くされている。昔のテレビゲームは、プレステ2ぐらいからおかしい。

良く考えると、僕は最近の日本が嫌いなだけで、パソコンは嫌いではない。ブログをやったりもするし、パソコンの知識もあるし、Linuxも好きだ。最近の日本がパソコンに勝てないのが嫌いだ。そういうわけで、僕はPerfumeが好きなのからも分かるように、パソコンが好きだ。

それこそ、姉夫婦はプログラマだ。昔から、パソコンが一番好きだったのが自分だ。

ただ、子供時代の自分は、悪い子供だった。ゲームから学校まで、全てがおかしかった。特に、子供時代がちょうどパソコンの最初の時代と重なった。ファミコンからプレステ2までを小学生ぐらいの子供として過ごした。そういう理由で、好きなようで嫌いになった。そこまで本当にパソコンが好きなのは自分ぐらいだ。僕はゲームは昔好きだったが、最近は嫌いだ。むしろ、テレビから、日本まで、全部好きなものばかり嫌いになっている。それもそれでおかしい。

要は、悪いものを悪いと思わずに好きになっている。そこが悪い。日本には、そういう、「悪いのに良いもの」が多すぎる。そういうものが、好きだったようで、最初から嫌いだった。

そういうわけで、自分は、悪いものを悪いと思いたいだけだ。

そうすると、そこが悪い。悪いものを、あまり悪いと思わない方が良い。

日本には悪いものしかない。むしろ、アメリカやフランスやドイツの方が、悪いものが多い。

昔のものが良い。都会のものより、田舎のものが良い。そういうものに、良いものが多い。

自分は、そんなに分かっても意味がないのが分かっていない。

分からないものは、「不思議だ」と思った方が良い。不思議と思うと、子供に戻れる。

良く考えると、最近の理科なんか完全に間違っている。そのうち何もかも変わる。

社会のことなんか、会社がどういう風に動いているか分かる人間が分かる。

会社のことなんか、分からない方が良い。IBMだと思えば良い。金儲けしかしていない。

もう少し、分からなくなって、この世界を不思議と思うと、良く分かる。

神が起きているのに、何も思わないのはおかしい。この世界は本当に不思議だ。

世界なんか、嫌いで良い。この世界は、一番悪い、悪魔しか居ない世界だ。

常識なんか無視して、楽しいことをやった方が良い。その方が、賢い。

一度、ブログを止めて、ホームページのHTMLをそのまま手動で作って日記を書いてみたい。

新・日記より

日記をHTMLで書きます。