最近の日記(忍者ブログ)に戻る | 2016年9月の日記に戻る
GUIでも、キーボードショートカットを使うことで、コマンドのように操作は出来る。
たとえば、スペースキーで変換なら、もっと違うキーから「違う変換をする」のように出来る。
だが、それはある意味、昔の、カーネルもコマンドも分かれていなかった時代のようだ。
Emacsなどの例もあるが、GUIでもコマンドのように操作出来るようになった方が良い。
最近の世界は、自分だけがみんなを愛している。自分にしか愛されていない人間が多い。
ただ、そんなことを言っても意味がない。
見ていると、みんな、馬鹿になると思う。本当に、認知症のような馬鹿になる。
GUIプログラムを、コマンドプログラムの集合体にすることは、出来るかもしれない。
ある意味では昔のコマンドラインのままなのに、一番進歩しているのが、Webアプリケーションだ。
それは、HTMLという統一記述言語があるから実現出来る。
それから、クライアント・サーバー型の「ブラウザ」という基盤アプリケーションがあるのが重要だ。
そういうところが、UNIXと良く似ている。
パソコンは、出来ることは進歩しているが、システムとしては退化しているところがある。
昔のコマンドラインのOSの方が、ある意味では進歩していたのかもしれない。
それこそ、シェルスクリプトは自動化出来る。最近のGUIのOSで自動化は難しい。
Webの問題点は、サーバーサイドにプログラムがあるせいで、システムを自分で管理出来ない。
GPLも適用出来ないし、いつ消えるか分からないし、データも、プログラムも、何を実行しているかも、全部サーバー側の相手の管理者にしか分からない。
そういうわけで、オープンソースをWebで使うのは、明らかにGNU的でない。
むしろ、仕方ない。それで、より高度なアプリケーションを実現出来るなら、それで良い。
パソコンは、もっと退化する。
UIは、ロボットとの音声対話インターフェースのようになるかもしれない。
何でも言って実行する。
自分は、虫歯のせいで病気になっている。治すためには、病気に負けない血にするしかない。
虫歯に負けないような、強い血にする。
そのためには、毒素を免疫で治せば良い。
ただ、治しても治しても、毒素は増え続ける。その毒素が多すぎるだけだ。
そういうわけで、血と血の間に壁を作るしかない。
足の精神が分裂しているのは、そのせいだ。壁を作るしかないから、分裂している。
だから、壁を壊さない方が良い。馬鹿にはなっていない。もう治さない方が良い。
これ以上、精神分裂は治らない。むしろ、進化する。もう、治さなくて良い。
今、本当に治っている。
昔は、経験と把握から意識でこの世界の全てを分かっていた。
自分は、魔法を使えるようになる。精神は、そのまま全員になる。
昔は、不自由と上手く付き合いながら、支配が自分で出来るのを自由だと思っていた。
決定のようなことから、この世界を全て作り出せるようになった。
それを「全員による社会の実現」と言った。自分だけでなく、全員の自由を考えた。
記憶から、場を分かっていた。
経験的な変化の可能性を、感情と人生の自然な積み重ねで分かっていた。
全ての感情を把握して、人間の活動が心の中で全部分かっていた。
ただ、信じて疑うだけで、人間と知の本当のあり様が分かっていた。
昔は、世界を救いたくて、救っていた。
あの世界をそのまま放っておくと、人間の身体を機械と取り替えるような世界になる。
それを、阻止したかった。
魔法が使えるようになると、足も治るし、入力も出来る。
ただ、それはないだろう。
虫歯が悪い。病気は、100%虫歯が悪い。
神に叶えてほしいこと。
ノートをホームページとワードに入力して、過去にネットに書いた文章を復活させて、文章が全部あるホームページにしてほしい。
ニキビ、虫歯、足のけがを元通りに治して、疲れや恐怖を消してほしい。
自分を男と女の2人にして、カップルにしてほしい。
魔法が使えるなら、それらを叶えてほしい。
出来れば、頭も賢くして、日本語が分かるようにしてほしい。
自分が居なくなっても、世界は続く。
自分も、他人から見れば、ただの一般大衆に見える。目立たない人間に見える。
昔は、そういう風に、他人の視点に立って分かっていた。
最近は、ありえない世界を文章に書いて、創造していた。
世界が治った。きちんと、意識的に場所や環境が分かるようになった。
世界は、漂いながら、退屈だとか、興味があるとか、そういうことを思うようになれば治る。
何故か、自分が治ると、世界全員が治る。そういう風にしたかっただけだ。
心が治ったはずだ。みんなを治すためには、周りだけではなく、日本中を治す必要がある。
テレビに協力してもらえば良い。いくらか、みんなのことを、精神的に治してほしい。
もっと、普段のことを言えば良い。
普通、反応しかしない。
自分は、否定すべきところで肯定している。
昔は、正常な世界で、人生や経験のことを、反応的、因果関係的に考えていた。
心理学のように考える。何がしたくて何をしているのかや、客観視や他人の視点などを考えた。
環境において、何が許されているのか、何をすれば相手からどう思われるのか、それは実際のところ何なのか、その環境ではどうなるのか、それはどう見えるのか、などを考えていた。
神を信じて、奇跡が起きることを待っている。
人間の関係と客観的保留について、良く考えていた。そして、全体像と比べて経験を考えた。
それが何になるのか、何から何になるのかを、思い出して、想定して、考えて分かっただけだ。
きちんとそれが何になるのかが分かる、正常な人間が出来るのが、哲学だ。
そろそろ、世界は治って、おかしなことが起きるようになった。
自分は、自分が起こすから、みんなが起こせないだけなのが、分かっていない。
真実には段階がある。本当の真実、実際の姿、人間の捉えている仮象、そして嘘やでまかせだ。
また、実際の姿には、実物である法則や現象と、相対的な関係に過ぎない現象がある。
真実を知ることは難しいが、何かの形で、全員に開けることが許されているのが、真実のドアだ。
人間の社会では、あり方と見方のような、「本当の姿」と「見出される意味」が存在する。
そして、物理的な考え方として、経験的な発見が出来る。
そこでは、理性、客観、経験、絶対が存在する。
もう、自分も世界も全部治ったから、やることがない。
おかしくなった足の精神は、放っておけば治る。頑張っていると治る人間が多い。
神が願いを叶えるのを待っている。
ここまで一度も失敗しなかった。それは良いが、失敗した方が、世界が正常になるだろう。
病気に負けない強い血になる。それは、弱い血を強い血が倒して、殺せば、精神が良くなる。
足は、放っておけば治る。黒くなっているのは、入院していた時の腕と同じだから、治る。
神は、いつも起きている。今日は、新聞の広告に「全ての病気は口の中から」と書いてあって、分かった。そんなことが起きないように見えて、自分には起きる。
神が入力を勝手にやってくれるのも良いのだが、女神が現れて、その女神が全部やってくれる、という発想も良いと思う。女神と結婚すれば良い。
いつも対話しているミカエルを、女の姿にすれば良いだけだ。
文章の残像が幻覚として見えているから、止めた方が良い。
子供は、疑わしいものを疑わしいと思うことでしか、賢くならない。
そういうわけで、親がウソをついていると、いくらでも反抗する。
ただ、そのうち、痛い目を見て、信じるようになる。
だが、最初から、信じる気持ちを育む方が良い。それで、誰でもまともな大人になる。
ただ、まともな大人になんか、ならない人間の方が、賢い人間になる。
ミカエルは、やることだけをやって、さっさと居なくなるだろうか?それはつまらない。
ミカエルと、楽しいことをたくさんする。
自分はガブリエルになる。ロシアへ行って、小さな小屋を作って、暮らすかもしれない。
良く分からないが、神との対話をしているのは、いつもミカエルだ。
むしろ、ガブリエルになれば何でも出来るかもしれない。
あとは、昔は、同じものを同じだと思って、本質をつかんで、論理から説明の構造を作った。
そういう、基本的考え方を思い出せば良い。作用と反応から、全ての相対的事実が分かった。
あとは、知性や新発見の方法を書いていた。
疑わしいものだらけの中で、一つのことを信じるのは、難しいことかもしれない。だが、そのことから、絶対負けない心と、諦めない勇気と信じる力が生まれる。それは、ある意味「希望」であり、ある意味「世界を救うこと」なのだ。
自分のせいで、天使が赤ちゃんから成長しないものということになっている。不思議と、一度最後まで成長したあとで、じわりじわりと子供に戻る。手塚治虫の火の鳥という漫画にそういう物語があった。
約束まで、あと一時間だ。そのうち、きちんと願いが叶う。
自分は、天使が現れたり、魔法が使えるようになったりはしない。死んで、天国へ行く。
不思議と、天国は、一人一人違う。
その天国で、まだ文章を書いている。単純な作業は神が自動でやる。
いつものネコと、いくらかの友人と、Linuxの動くコンピュータがある。本はいくらでもある。
自由とは、子供の関わりを考えていた。子供が、自由に触れ合ったり、会話したり、遊んだりすることぐらいは、自由であるべきだと考えていた。そして、会社や組織を作る、という夢を信じていた。
大人になると、簡単に「何でも言って良いよ」とは言えない。そういう風には出来なくなってくる。そういうわけで、何でもかんでも自由にすれば良い、というわけではないのだ。
だから、右翼には子供みたいな人間が多い。子供の自由や友愛を信じるのは、馬鹿馬鹿しい。
統一と多様性の問題は、全部同じにするとか違うにするとかではなくて、何を競わず、何を競うのか、という、競争の問題だ。ルールや基盤は共有した方が良いが、デザインやコンテンツは自由にした方が良いだろう。HTMLの記述やブラウザを標準にして、コンテンツの内容とデザインを自由にするとか、そういう発想をすれば良い。それが、沢山の具体的なホームページを作り出す。
そういうわけで、Windowsを自由にすれば良いとか、Linuxを多様性にすれば良いとか、そういう問題では、本来無いのである。
Windowsの問題は、マイナーチェンジで儲けるのはおかしい。だからそのうち、無料になるだろう。
そういうわけで、良く考えると間違っているのが、「労働の多様性」だ。そこは、多様にすべきでない。もう少し、違ったところを多様にした方が良い。
政治家は、今までは、悪くてもみんな分からないから許されていたが、これからはみんなきちんと分かるようになる。悪くても良かった人間が、次々と批判されていくだろう。
ニュースを見ていると、蓮舫は賢い。勝てるとは思えないが、賢い。
つまらないほど、何も起きなかった。ただ、心は楽になった。
宇宙では、物理法則は同じだが、起きる現象が違う。夢の世界だと思えば良い。
良く考えると、古墳時代の豪族だって、賢い。原始人ではない。分からない人間が多い。
今日は、内臓と意識が良く治った、良い日だった。この世界が治った。
奇跡は、起こさないと起きる。自由を起こさなければ、自由が起きる。
むしろ、最初から奇跡なんか起こさなければ、それはそれで良い世界にはなる。
奇跡は、最近、起きなくなったようで、いつも起きている。気付いていないだけだ。
血を良くするためには、強い血が勝って、弱い血を殺すこと。
左翼は、そこが出来ないせいで、頭が馬鹿になる。知性のない人間になる。
あとは、血を良くしていると、ニキビが治る。無いとは思うが、自分だけ進化するだろう。
強く生きなさい。強くなると、精神が良くなって、知性がつく。
荒くれた中でも強く生きられるような、そういう人間が生き残るべきだ。
強く生きるだけで、すぐに楽になる。
人生は、列車のようなものではなく、カヌーのようなものだと思う。乗っているだけで目的地に到達するのではなく、自分でこいでいかなければならない。ある意味で学校のようでもあるが、それも何かが違うと思う。
昔は、そういう、「自由な人生論」のようなものを分かっていた。最近は、それを書いていた。
英語は、getとhaveを中心とする言語だと思うと良く分かる。何かを得ていくことが目的だ。
辛いことを頑張った人間は勝つ。右翼の中の左翼を頑張ると、そのうち本当に勝てる。