儒教の世界観(2.戯言)です。
儒教や道教や仏教は、それぞれ違ったことを考えていて、互いに矛盾し、同時には成り立たないと、多くの人は考えています。
ですが、僕個人の経験から言うと、それは違います。
すなわち、この世界のすべてが分かった賢者が考えた時、儒教にも道教にも仏教にも、違いはありません。矛盾なく、すべてが成り立ちます。
すべてが分かった賢者は、すなわち僕の中学生以降の引きこもりのことです。
僕は、中学校の知性と、中学校で習った教科書の知識の延長線上の「高い知性」を使い、インターネットのすべてを知りながら、自分の人生で、どこから自分がやってきたのか、今どのような体験をしているのかということを思い出して考えました。
そして、すべての体験を証明し、再現性を考えて実験することから、人類全員の体験を、正しい考え方による推論から、経験的に解明しました。
そこで分かることは、儒教は儒教、道教は道教、仏教は仏教というように、それぞれ違った思想を組み合わせたものではありません。それらの宗教すべてが、矛盾なく、ひとりの人間の頭脳と精神の中で、すべて同じように成立するということです。
儒教にも、道教にも、仏教にも、僕からしてみれば、まったく違いはありません。どの宗教も正しく、どの宗教も同じことを考えています。どの宗教がもっとも正しいかで争うことは、まったく意味がありません。
そのようなあらゆる理解と経験をするために必要なのは、執着心を無くし、無知を無くすことです。すなわち、固定観念を捨て、すべてにおいて正しい考え方をすること、同時に、無知を改め、社会や科学的方法についての正しい知見を得ることです。
考えるために必要なのは、「精神現象」を考えることです。必ずしも、正常な理性を保つ必要はありません。まともさは必要ですが、狂いもまた必要だからです。僕の中学生以降の人生は、言ってしまえば、「精神と人格を破壊する人生」でした。そう、精神と人格を破壊することは、必ずしも悪いことであるとは限りません。
世界において、精神と人格を適度に破壊しながら、あらゆる経験と、無知と固定観念を無くすことで知見を得ること、そして中学生で習う知識の延長線上にある思考をすることで、この世界のすべては、ブッダやマルクスのように考えることができます。
その時、儒教にも道教にも仏教にも、違いはありません。それどころか、西洋哲学のすべての哲学者は理解の範囲内にすべてあります。同時に、数学や物理学、具体的にはアイザック・ニュートンのように、すべてを説明的に分かることができます。すべての原理を解明し、その解明した原理に基づいてすべての精神現象を説明するその方法は、「心理学的なニュートン学」と言えるでしょう。
はっきり言います。子供たちには孔子の儒教の教えを教えるべきです。
なぜなら、儒教の教えがきちんと分かった人間は、それ以降のことを、誰からも教わらなくても、自分独自の力だけで、すべて考えて経験すれば分かるからです。
子供に教えるべき内容は、算数でも国語でも理科社会でもありません。
そのような、今学校で教えている内容は、すべて、本当に必要な内容ではなく、子供が望まないのであれば教えるべきではありません。子供の生まれ持った知性を奪ってしまうからです。
真に子供に教えるべきなのは、孔子の儒教の教えです。
そして、儒教の教えは、本当は教科書で教えなくても分かります。この世界の、現実の社会での経験をし、自らの経験した実体験のみに基づいて考えれば、14歳以後の少年であれば、誰だって孔子と儒教の教えの通り考えます。
孔子の儒教の教えがきちんと分かった人間には、それ以外のどんな知識も経験も知性も必要ありません。儒教の教えだけで、何百年から何千年に相当する、人類と地球の知識や経験のすべてを考え、自らの力で発見できるからです。
子供にとって必要なのは、孔子の儒教の教えを教えることです。それ以外には、何も必要ではありません。江戸時代の寺子屋が教えていたように、学校では論語を中心に教えるべきなのです。
2023.04.26
僕にとって、真に必要なのは、四端の心です。
孟子の言う四端の心では、「惻隠」「羞悪」「辞譲」「是非」の心が重要であるとされますが、僕はこれらの心がまったく体得できていません。
惻隠の心は、他人の不幸を憐れむ気持ちです。僕は、他人の不幸を軽んじ、自分の不幸を他人に押し付けるなど、惻隠の心がまったくありません。
羞悪の心は、悪を嫌う気持ちです。僕は、悪を嫌うどころか、悪を好み、人々に対する悪を行うのを、開き直って居直るなど、羞悪の心がまったくありません。
辞譲の心は、他人に譲渡する気持ちです。僕は、他人に自分の力を譲渡することがなく、自らの力を独善的に独占し、他人に力を行使するだけで譲渡せず、辞譲の心がまったくありません。
是非の心は、善と悪を見極める気持ちです。僕は、善と悪を見極めることなく、善であろうが悪であろうが自分にとって都合のいいものはすべて取り入れ、「なんでもあり」になっており、是非の心がまったくありません。
これらの四端の心に加えて、僕は精神の活力である「浩然の気」すらありません。常に無気力を続けており、体力も精神力も何もありません。
そのように、僕は四端の心の言う「大丈夫」という理想から、完全に逆の位置に存在する「サタン」になってしまっているのです。
僕にとって真に必要なのは、四端の心を体得することです。四端の心こそが、今の僕にとって真に必要です。他人の不幸を憐れみ、悪を嫌い、他人に譲渡し、善と悪を見極める心こそ、真に必要な「理想の心」であると言えるのです。
2023.08.05
僕の自己解釈になりますが、僕が思うに、孔子の教えというのは、「徳」と「志」を持った王を信じる宗教だと思います。
そこにあるのは、地域社会における「道徳」と、祖先を敬う気持ち、それから家庭を円満にする気持ちです。
この世界のすべての善を信じ、すべての経験をし、どのような経験から善が生まれるのか、ということを知ることから、人間は世界に対する「世界を変えてやる」といった「志」を持ちます。
ですが、志だけでは善は実現できません。そのことを誰よりも深く経験し、どのような環境であっても正しい社会秩序を築けるような「徳」が必要なのです。
そのように、「大志を抱いて徳を身に着ける」ということが、この世界を正しい秩序へと導くことのできる「王」となるために必要である、ということを孔子は教えているのだと、僕は勝手に自己解釈しています。
そのような王になるために何よりも必要なのは経験です。自らが、たとえ最底辺の社会であっても、さまざまな経験を豊富に培うことが、徳を身に着け、いずれはこの世界を救うほどの「大志」を得る、ということに繋がるのです。
だからこそ、儒教のように考え、孔子の教えを信じる人間には、ほかのどの宗教よりも「社会で培われたさまざまな経験」が必要であると言えるでしょう。
2023.08.22
今でこそ、日本の宗教は仏教と神道が標準的ですが、昔は朱子学という儒教の一種が日本の公式の思想でした。
たとえば、「もういちど読む山川日本史」の中であるように、1787~1793年(天明7年~寛政5年)の寛政の改革で有名な松平定信も、1790年に昌平坂学問所(聖堂付属学問所)で、教えていい内容を朱子学に限り、役人の試験も朱子学に限定されました。
そう、昔の日本では、意外と仏教や神道と一緒に朱子学を信じており、江戸時代の公式の思想は朱子学だとされています。
その理由は、儒教が封建社会にとって支えとなる思想だったからです。
儒教では、人間は地域の道徳と年長者への尊敬の念から、徳を積み、家庭と国をその徳によって治めるべきだとするように、「長者の責任」について人徳を信じますが、逆に言えば、「人徳のある長者が社会で一番偉いのだ」ということを主張することにも繋がります。
孔子の言いたいことが、国に対して年長者の責任と配慮のある徳を積んだものから国を支えて改革し世界を変えていくべきだ、という情熱的かつ理想主義的な考え方の持ち主であるということは分かりますが、それでも、儒教の教えはまさに「上は偉く、下は上に従え」ということなのです。
そのような儒教あるいは朱子学の教えは江戸時代の幕藩体制にとってちょうどいいものであったため、昔の日本では朱子学が強かったのです。
たとえば、天皇陛下や皇族の男子には名前に「仁」を付けることが多いですが、直接的な関係はないにせよ、儒教における「仁義」ということが日本の国にとって大切であるということの証だと思います。
2024.11.12-13