道教の世界観です。
「理解しやすい倫理(文英堂, 2008年発行版)」を参考にしました。
「理解しやすい倫理(文英堂, 2008年発行版)」を参考に執筆しました。
道教とは、老子や荘子による中国の宗教。儒教、道教、仏教の三つを合わせて「三教」と呼ばれる。
儒教の教えを「人為的」として批判し、人間の人為ではなく自然との調和を目指すことで、人間の本来に立ち返り、万物の根本である「道」(タオ)を見つめ直せと言う。
「万物は道から発生し道へと帰っていく」「万物の自然は道である」「人為的な人知の限定を排除した時、有も無も同じものであり、人間の力で名前をつけて区別すべきではなく、このことの仮の呼び名として『道』(タオ)と呼ぶ」「何も人為的な行為をせず自然の道と一体になるべし」(無為にしてなさざるなし、無為自然)などの教えが知られる。
儒教も参照のこと。
2023.01.06編集
「理解しやすい倫理(文英堂, 2008年発行版)」を参考に執筆しました。
荘子は、老子とほぼ同じ時代の人。
荘子は、宇宙のすべては相対的であり、絶対的なものはなく、すべてには平等で一律の同じ価値がある(万物斉同)、誰かひとりが勝手に善悪や正義を判断するのではなく、超越した境地で世界を見なければならず、是や非とは異なる囚われない境地で自然と一致・一体・合一になる(逍遥遊)、心から一切の穢れをなくして無となる境地(心斎坐忘)の中に、人間らしく生きられる生き方がある、などと教えた。
2023.01.06編集
僕は、道教は「相対論」「虚無思想」「自然回帰主義」の融和だと思います。
誰かにとって正しいこと、誰かにとって価値あるものは、別の誰かからすれば間違っていて、価値がない。
そうしたさまざまな現世の「しがらみ」を脱して、自然へと回帰していく。僕は、そういう発想から、老子・荘子は「自然に回帰することによる本当の道」を目指したのだと思います。
道教が、「万物は道である」と言っているのは、僕は「万物は歴史である」と言っているのと同じことだと思います。
この世界で、さまざまな経験をすると、「自然の中には道しか存在しない」ということが分かります。
この「道」とは、万物の根本であり、人為的でない自然の調和の中にある、人間の生物としての本来の姿です。有でも無でもなく、自然には「道」があるのです。
そして、僕はこの「道」について、「歴史」であると考えます。
すなわち、老子が「道」と言っているのは、すべて「歴史」のことを言っているのです。
この世界には歴史しか存在しません。すべての人間の根本にあるのは歴史です。そして、歴史は人為的な積み重ねだけではなく、自然の調和の中にこそ歴史はあるのです。
だから、僕にとって、道教の「道」とは、「歴史」のことです。道教は「万物には歴史がある」ということを信じる宗教だと僕は自己解釈しています。
2023.08.22
実際のところ、僕は中国の宗教の中では、道教が一番好きです。
それはなぜなら、道教の教えは、昔僕が考えに考え抜いて辿り着いたことと、まったく同じことを言っているからです。
この世界では、あるものがある(ない)のでも、ないものがある(ない)のでもなく、あるでもないでもあるものがあるのであり、それを人為的にあるとかないとか言って区別する必要はありません。
すべて、人為的な「知性」や「知識」によって区別されているのであり、人知的な区別を排した正しい宇宙の真理においては、「ある」とか「ない」とか区別するべきではないのです。
その、あるのでもないのでもないものに対して、仮の名前として「道」(タオ)という名前を付けます。
この世界のすべては道です。すべて、宇宙には道しか存在しません。
そして、正しい生き方とは、人為的な制限を行使するのではなく、自然に調和して生きることです。
人為的に、何かが欲しいとか、成し遂げたいとか、支配したいとか、そのようなことは、正しい人生においては不要なものです。
自然に調和して生きる人間は、人為的に何かを自分でする必要はありません。最初から人為的なことをする意味はなく、してもしなくても同じで、あるいは「しない」ということは「する」ということと同じであるため、しなくてもしていると言えるのです。
そのような道教の教えが、僕のかつての青春時代に分かったことと、完全に一致します。僕の分かったことは道教で教えていることであり、僕の宗教は道教と同じものであると言えます。
あるいはさらに言えば、僕の作った宗教は新しい道教であると言えます。ここで、「道」ということの意味を少し違ったものとします。それは僕の書いた、「人生における正しい道筋」こそを僕は道であると呼びたいからです。
僕はそのように、道教とまったく同じ、新しい道教を作ったのです。仏教や儒教よりも、僕は道教が好きです。
2024.11.12
僕が道教について思うのは、「認識」というものを正しく捉えている、ということです。
道教は何も、最初から何も考えず、経験もせずに、虚無主義を信じているわけでは決してありません。
そうではなく、何もかもすべてのことを考えて、何もかもすべての経験をして、その後に残る、「正しい認識の捉え方」について、人知を排した立場で考えただけなのです。
人間が認識の中で考えることは、最終的な到達地点から見たとしても、ほとんどが「人間の側にあるもの」であり、言ってしまえばあるようでないようで、それ自体が無意味なものです。
すなわち、道教で「人知を排す」「人為的なものを排す」ということを教える理由は、認識というものや行動というものがあまりに人間の側にあるものであり、宇宙の側あるいは真理の側にあるものではないということであり、そして、そのような人間の側にあるものに囚われていては、真理に到達することはできないということです。
真理に到達するために、考えるだけでも経験するだけでも十分ではなく、あらゆるすべてを考え経験した「道」の先に、そのような「人知的なもの」「人為的な行為」を排した到達地点があるのです。
なので、道教を「何もしないことを信じている非生産的な思想」だと思うのは間違いです。あらゆるすべてを思考して経験した先で、「無為にしてなさざるなし」という真理に到達できるのです。
2024.11.12
中国史・モンゴル史を参照のこと。
老子と荘子の教えを中心とする中国の宗教。
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