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みんなは、もっと悪くなれば、賢くなる。悪い人間は、不確かになる代わり、物理が分かる。
精神分析で、昔になるのをやめる。そんなに昔を分かっても意味がない。
みんながそれぞれ自由になって、平等を作るために戦えば良い。それが、理想の世界だ。
自分は、昔は自由な中で秩序を作っていた。自由な中での秩序の形成を考えていた。
もっと、自然に社会がそういう風になるように、導いて行けば良い。
良い社会になるように導いていけば、良い社会になるはずだ。
ここから先、みんなは分からなくなる。そして、元に戻れなくなる。
それは、悪いことに見えて、良いことだ。それだけで、最高の天才になれる。
この世界を導きなさい。それぞれが、自然にこの世界を良い世界にし、そうなるように、導けば良い。
無政府主義のように、ある意味、法律なんか要らない。みんなが善意で良い世界にすれば良い。そして、悪いものや悪い人間は、みんなで協力して潰せば良い。それは、国際関係論で考えられているが、しかしながら、自由は国際関係としては、一番未熟な状態だ。
僕は、差別や処罰の無い自由な世界になってほしい。こんな僕でも、自由が好きだ。だが、自由を自由放任だとか、無防備だとか、漠然とした自由と言いたいのではない。自由な中で理性的に考え、課題に対処し、困難を解決するような自由を望む。
だが、金は好きではない。金で何でも出来ると言うが、金を使って施設を作ると、儲かるだけの施設しか作れない。儲けず、慈善事業を行うような、NPO法人のような組織は、金では作れない。そういうものは、情熱と愛から生まれる。だから、僕は自由だからと言って、何でもかんでも出来るとは思わない。みんなの力で良い世界にするために、金以外の自由を生み出すこともあり得ると思っている。
ただ、僕は本当に自由が好きだ。自由な中で、健全な社会が自浄作用と批判によって生まれるのを良いと思う。自由でない中で生まれたものは、自由な中で生まれたものより、価値の無いものだ。だが、最近はそういう考え方も、少し変わってきた。テレビ、ネット、学校のような、「自由の模範」であるものは、えてして、どれも良いものではない。馬鹿な人間が、それらを陥れ、けなしめている。だから、僕は自由とはいうが、今の自由な社会が好きなわけではない。自由にするために、今の世界を変えるべきだと思っている。
本当に自由な世界では、無意味な法律は作らない。法律ではなく、もっと別の方法で社会を成り立たせる。ある意味、裸でうろついても良いだろう。正当な理由でものを奪ったり、麻薬をやったりしても良いかもしれない。そういう普通ではないことがしたい人間は、そういう環境と地域ですれば良い。それが、多様性と言うものだ。
そう考えると、世界政府ではなく、自立した主権国家の権利は必要だ。そうでなければ、何も出来ない世界になる。だから、僕は世界政府に対して、肯定的なように見えて、画一性のようなものに対しては否定的だ。
ただ、「人間を規定する」と言う意味で、宗教は必要だと思う。宗教まで否定してしまうと、悪がのさばるようになる。だが、僕はある意味、そういう悪は、善意によって集まった連合集団が力で抑え込むことも出来ると思う。だが、その「力で抑え込む」と言う発想は、幼稚だ。力で解決するのではなく、もっと理性的な合意で解決する、と言う意味で、法律もある意味では普遍的価値を持てると思う。だが、法律は法律で、完璧なものではない。一人の指導者が、世界の全てを把握することは出来ない。だから、王や法の支配も完璧ではない。もっと、自由な中で、みんなの協力と調和によって平和と秩序が保たれるべきだ。
ある意味、自由を支配することも出来る。自由な中で、秩序を作り、導くことも出来る。だが、それは自由と矛盾はしない。支配しながら自由にし、自由にしながら支配することは、秩序を生み出すことであり、矛盾ではない。
麻薬を考えると、ある意味、絶対に出来なくすること、絶対に撲滅することも必要だ。どこかの環境で麻薬が許されるなら、麻薬をやりたい人間はそこに行くだけだ。絶対に出来なくしなければ、撲滅は出来ない。だが、麻薬を悪い、とした普遍的価値観は、本当に正しいものだろうか?麻薬がやりたい、と言う人間にとって、麻薬は良いものではないか?そこを、考える必要がある。そして、普遍的価値観を作ったのは、誰か、と言う問題がある。おそらく、それは、神と民主主義の思想家だ。だから、宗教と哲学を選ぶ必要がある。自らの手で作る必要がある。その上で、何らかの思想に基づいて、普遍的な「麻薬は悪である」と言う価値観を規定するようにしなければならない。だが、ある意味、「いくらかの合理性があれば、それはそれで正しいとする」と言う判断基準の合理的決断も必要だ。だから、正しい、間違っている、だけではなく、トランプのような王も時には正しいのだ、と言う考え方も出来るのだ。
僕は麻薬が好きなわけではない。麻薬どころか、酒やたばこのような中毒性のあるものは全部禁止するべきだと思う。それから、ギャンブルもしてはならない。娯楽のようなものも、セックス系のものを除いて、暴力的なものは禁止すべきだと思う。暴力を煽り立てるような漫画やアニメの表現は要らない。だが、僕はセックスは良いと思うのだ。そういうところが、なんとなくの判断をしているが、そういうそれぞれの曖昧な判断もあって良いと思う。
ある意味、自由には柔軟性があるし、一人では見れないことも、みんなの分かる範囲を集合化することで見ることが出来る、と言う側面がある。自由は、そういう理由で、「視点の共有」でもある。オープンソースの自由は、そこが一番大切だ。一人では出来ないことも、みんなの持っている潜在的可能性を調和させ、共有することで、出来ることはある。
僕は、憎しみや恨みのようなものはあまりないが、昔の時代に対する憎しみのようなものがある。昔の日本は、不良やチンピラからオタクやギャルを含めて、本当に悪い人間、馬鹿な人間が多かった。それらが憎いから僕はまだやっている。だが、ある意味、本当はそれらの正常な時代の方が良かった。僕も、みんなも、そこが分かっていない。最近は、何も面白いものがない。社会は馬鹿の方が良かった。だから、僕は嫌われる。こんな最悪の社会にしても意味がない。本人が抑圧し、ウソをつき、人権の無視をしたいだけだ。
憎しみと愛はバランスが必要だが、昔はこの世界を全部否定して、個人のアイデンティティを尊重しながら、ある意味では自分の本当の気持ちにウソをついていた。みんなを尊重せず、わがままに人々を支配するが、それは同時に、全員のことを尊重し、人々を本当の意味で正しい考え方と哲学を与える、「愛」だったのだ。本当にみんなのことを解決出来て、本当にみんなのことを愛していて、本当に正しい世界の解決への糸口を知って、そのための力と可能性を全部持っていた。子供だったが、神のような人間だった。そこが好きな人間が多かった。
世界を解決するためには、ネットがもう少し、普通の集団になれば良いが、ネットが自発的に変わることは無い。みんなの人生が、運命的な出来事によって変わる必要がある。それで、ネットは意味がないことが分かるだろう。遠まわしに言っているが、簡単に言えば、「死と隣り合わせの地獄の戦争をせよ」と言うことになる。本当に国と国の戦争をするのは良くないが、それと同じようなことをやるしかない。そして、学問や教養のようなものは、「学校で習うだけでは何も分からない」と言うことを知る必要がある。もっと、現実の経験で分かる必要がある。だが、一度分かってしまえば、大学は簡単だ。
何故か、今日は右翼みたいな内容になったが、僕は右翼なんか一番嫌いだ。
テレビなんか見ても意味がない。自分から支配に勝たなくてはならないのだ。
ある意味、民主主義が良いのだと思う。だが、民主主義に問題が無いわけではなくて、会社が自由経済をしても、それはお金を儲けることしか出来ない。社会主義も国家主義も同じだ。政治家は、金と戦争しか考えない。もっと、大切なものが他にあるはずだ。幸福を考える政治家が必要だが、幸福と言っても、宗教的なものだけではなく、色んな幸福がある。宗教が一番だった時代は終わりだ。何もかも、捨てて、棄却して、神と同一になる、そんな人間性の否定は間違っていると、ルネサンスの人文主義者が言っている。
だから、趣味や芸術をすれば良いとは言うが、それをサポートする学校のようなものを作った方が良い。無料で入れるようなアートスクールがあっても良い。だが、僕はそれは必要ないと思う。なぜなら、全部を知りたいなら、本当にそんなに多くは無いし、そんなものは価値の無い趣味だ。仕事でデザインをしなければ悪い。だが、僕は、何でもかんでも仕事や生産に結びつかなければならないわけではないと思う。だから、Linuxやオープンソースが好きなのだ。仕事や勉強ではない、みんなの共有の楽しさと言うものも、あって良いだろう。たとえ、全くWindowsに歯が立たないとしてもだ。
そして、国、と言う単位で考えることも、無意味だと思う。インターネットの時代、政治や国を作る、と言う発想が無意味だから、トランプのようになる。既存の政治家ではない、もっと新しいITの時代の政治がしたい。だから、ツイッターでの発言に拘って、記者会見をしたがらない。記者会見をした時点で、既存の政治家と同じになってしまう。そういうこだわりがあるのは、悪くはない。悪くはないのだが、そんなにツイッターが正しいわけでもない。いっそ、大統領になったのだから、既存メディアでも、インターネットでもない、「新しいトランプ式メディア」と言うものを作ってはどうか。それも、良いと思う。
昔の自分は、まず、感覚と経験を信じて分かっていた。全てのことを、感覚、経験、自由、環境と思って分かっていた。最近は、文章を書いた。長くて分からない時間の中で、書いて、書いて、全体を書いて、分かっていた。ただ、最近は、それらのことを超えたい。自分は、今、ラファエルが賢いのが分かっていない。ラファエルは、いつもガブリエルとミカエルより賢い人間になりたい。みんなが希望と言い、勇気と言い、一人しか居ない最高のあなたと言うが、それを聞いて、もっと昔より賢くなる、昔と同じぐらい賢くなる、と思ってしまう。自分は、劣等感と自虐のカタマリだ。だから、いつまでも自分に嘘をついて、自分の思っていない、今思っていない、過去の話ばかりしてしまう。それが、弱いのだと思う。だから、大学の知や今の自分の美しさを知っても、納得出来ない。満足出来ない。みんなは昔の自分が好きで、自分は昔の自分より劣っていると考えてしまう。それを解き放てば良い。昔の自分なんかどうでも良い。気丈に振る舞いながら、美しい詩のような文章を作る、頑張っている今の自分に、自分は「ありがとう」と言いたい。それが、僕の今想う全てだ。
昔は、社会や環境の変化を自然に考えていた。最近は、もっと今のまま、継続すれば良いのが分かっていない。本当に、このまま、幸せなままで、それぞれが本当に「良い」と思う体験を、許せば良い。その体験を許し、継続的に出来るようにすれば良い。それで、何もない暗闇は終わりだ。いつも、そういう無防備になった時に、自分を後悔するが、それは間違っている。心に悲しみがあるのは分かるが、みんなの大切な時間を消すのはおかしい。大切な「時」を信じること。それで、もう怖くない。みんな、安心出来る。
最近は、「そうだったのか」と言う体験がない。そういう風に分からなくなった。もう、分かっているのはつまらない。昔は、色んなことを知って、「そうだったのだ」と思って分かっていた。そして、文章も、そういう風に、何でも分かる文章だった。ある意味、植物は宇宙エネルギーの創造者だ。そして、弱肉強食とは言うが、そんなに一つの生命だけが強くなって、巨大化することは少ない。生物には仲間意識と循環の助け合いがある。そうして考えてみると、必ずしも弱肉強食とは言えず、周りのものを助けるものが生物だと言える。それはどうでも良いとしても、いつも、そういう風に、「そうだったのか」と言う「未知」の説明から、この宇宙の全ての説明を書いて創っていた。そういう創造者の作家だった。