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人工知能は、JavaScriptのようなプロトタイプベースのオブジェクト指向言語で作ると、人間の考える頭が作れると思う。
たとえば、「今日は何を食べようか?かつ丼が美味しそうだ。」と普通考える。
だが、かつ丼より前に、「冷蔵庫に何かがあったな」と考えることもある。
何も考えつかない時は、「好きなものを食べよう」と考える。
それは、JavaScriptのオブジェクト指向のような、「別のオブジェクトに委譲する」ところから、作れると思う。
昔は、学校から離脱して、一人、完全に離れた環境で、孤独を感じずに、自分だけで色んなことを知って、経験することで分かっていた。そういう、引き篭もりになった実体験と、離れた環境での自分なりの経験で分かっていた。
自分は、考えずに、思えば良いのが分かっていない。子供のように、「何も考えずに思う」ことによって分かる。
たとえば、「宇宙って、誰かが創ることは出来ないのかな」と考える。
また、「明らかに2ちゃんねるが悪いだけだ」と考える。
大人になると、考えるばっかりになって、そういうことを思わなくなる。
子供は、日本語や英語は、知性の無い何も分からない頭で、ただ、永遠にその状況の中で聴いていると分かる。
何も分からない人間が分かる。
だが、ただ、聴いているだけで分かる、と言うのとは違う。みんなを信じて、その中で、「体験と思考を永遠に経験」し、「気づくなかで一体になる」ことで分かる。それが、赤ん坊の経験する日本語の最初の理解だ。
あとは、文章を書いて、全てを超えるような体験をした。完全に全てが分かっていた。
トランプのメディア戦略は、「メディアを馬鹿にする」と言うことをすると思う。
例えば、メディアに対して、明らかに嘘と分かる嘘をつく。それを、メディアが報道する。
自分も馬鹿に見える代わり、メディアを見る意味がなくなる。メディアと言う媒体を馬鹿なものにしている。
ただ、トランプは一週間もすれば、馬鹿すぎる政府になったのが分かる、と言うところに行きつくかもしれない。
学ぶことは、作ることに繋がる。作ることには、3種類あって、(ただ)作ること、(造形を)造ること、(クリエイティブに)創ることがある。基礎を学ぶことによって、創ることが出来る。基礎を知らなければ、応用することは出来ない。たとえば、ペペロンチーノはレシピを見ないと作れないが、基礎が分かってしまうと、タラコを入れて和風にすることは出来る。そのように、知ること、学ぶこと、基礎を習うことが、作ることへと繋がってくる。父親がそういうことを言った。
僕が思うに、それは、「一人だけで価値観を作る」ことや、「社会を作る」ことや、「知を作る」ことに繋がってくると思う。
僕は、パソコンや政治経済のことはしたくないが、もっと何か良いことをしたいと思う。
これを読んだ。
http://gihyo.jp/lifestyle/serial/01/survival_strategy_engineer/0005
僕は昔からひげぽんが好きだが、彼のように生きたいと思うこともある、と思った。
僕が人生でしたいことが何かは分からない。だが、ひげぽんが言うように、もう28歳の僕が見て、もう「やりたいことをやる」と言う段階は終わっている。これからは、なりたい自分を考えるべきだ。だが、僕は、なりたい自分がまだ分かっていない。おそらく、基礎や学問を全て知り尽くして、色んなことに詳しくなりたいのだと思う。何かを自分でやりたいとか、作りたいとかではない。だが、僕は色んなことを、ただ「自分の能力と才能を発揮して作りたい」と言うことはあるかもしれない。
僕は、オブジェクト指向をクラス指向だと思っているところがある。構造体の中に関数が定義出来るもの、みたいな理解をしている。だが、オブジェクト指向とは、クラス指向ではない。たぶん、昔の変数の型を高度に抽象化したもので、intでもStringでもなくて、+でも-でも=でもない計算をして、SmallTalkのような何でもかんでもものにし、そのものを作れる、と言う、多様な型を定義し、それに応じたメソッドを定義することで、intでもStringでもない、特別ではない型の環境を作ろう、と言ったものなのかもしれない、と言う憶測をしているが、おそらく、さらにもっと高度なものだとは思うのだが、僕はパソコンにオブジェクト指向なんか要らないと思う。ある意味、僕はオブジェクト指向を、大規模な開発に特有の継承やカプセル化のような問題を解決する、と言う意味でも理解しているが、これはゴミコードが増えるだけだと思う。ただ、Rubyなんかを見ていると、どうにかしてクラスと大規模開発のオブジェクト指向的イデオロギーを別のものに出来ないか、と言う野心が湧いてくる。
オブジェクト指向は、GUIツールキットでは使うしかない機能だし、COMや.NETなどの技術に応用されているし、例えばブログのようなものを作りたい場合でも、オブジェクト指向で作った方が綺麗な設計はすることが出来ると思う。だが、僕としては、わざわざクラス継承のような、関数を高度化したのかブロック的劣化をさせたのか分からないようなもので、コードの全体の設計をありえなくする意味がないように思う。「じゃあ、どうやって高度なクラスやオブジェクトを表現するのか」とは言えるし、ある意味、JavaScriptのような発想をすれば良いのは分かる。C++/Javaが良いのは分かるが、それはオブジェクト指向と言うよりは、基本的なコードの書き方が統一されていて分かりやすく、書きやすいこと、現存のクラスライブラリのような資源が多いこと、などであって、あまりオブジェクト指向の真価が発揮されているような気がしない。
ある意味、オブジェクト指向と言うより、プロパティやイベントを変えることでオブジェクトの様態が変わることがその真価であって、それはクラスにしなくても、リスト構造やループで実現出来ることだ。それを、実現した方が良い。
オブジェクト指向の良い点は、メモリ管理だ。メモリ管理をmalloc()にしなくて良いのが良い。それだけが、唯一本当に優れている。パソコンにメモリ管理なんか要らない。むしろ、マイクロソフトはVBをオブジェクト指向よりもっと賢いものにしてほしい。それなら、僕はマイクロソフトが好きになる。
ある意味、オブジェクト指向も馬鹿に見えて馬鹿ではない。継承をすることで、構造体的なパラメータだけではなく、それが持つメソッドを抽象化出来る。このことによって、特定のクラスに既存の機能ではない、新しい機能を追加することが出来る。そこが賢い。誰もが、そのデータにアクセスし、そのデータを処理する既存の機能は残しながら、新しい機能を追加することが出来る。
自分は、そんなに厳しいのが悪い。もっと、甘く、優しくなった方が良い。
それから、僕はもう弱者を助けない。弱者を助けると、弱者のためにならない。弱者は、自ら頑張るようになるべきだ。
弱者を助けるのは悪いが、それで厳しくなると、きちんと大人になる。
ネットには、「常識を信じずに、自分なりの意見を信じる人間」があふれているが、そんな馬鹿があふれるぐらいなら、指示待ちのロボットがあふれた方がマシだ。どんどんそういう馬鹿になっているが、自分に甘すぎる。自分も、そういう人種の同類だ。
ツイッターにそういう人間の批判が集まっているのは、そういう、自分なりのことを言う馬鹿がキモいからだ。
自分なりのことなんか、誰も聴きたくない。出来るだけ、そういうものをネットから消した方が良い。
弱者は自分の力で頑張ること。誰も助けてくれないなら、その助けてくれない社会が正しい。
だが、ルソーが言うように、「その社会がそうであることは、その社会が正しいわけではない」と言う考え方も出来る。
良く考えると、僕は弱者が好きだ。ネットも、今通っている就労支援の作業所も、弱者の集まりだ。
だが、僕は、弱者を積極的に助けたいとは思わない。
むしろ、国家の税金で弱者を助ける、と言う発想が間違っている。弱者が集まって革命を起こすのなら分かるが、弱者は弱い。
ただ、僕が思うに、弱者は強者よりも頑張って生きている。頑張って生きているものには、報いがあるべきだと思う。
ある意味、勝つのは一人だけだが、負けるのはそれ以外全員だ。だから、民衆はなぜか多数を形成している「弱者的言論」を抑圧して、強者をたたえようとする。それが、正しい感情だが、甘い方向に行くと、自分も弱者になってしまう。難しい闘争だ。
弱者を否定すると、むしろ、少数の貴族的強者も否定した方が良い。似たようなものだ。たたえられる理由が全くないのに、みんなから擁護されている。そういうものが嫌いな人間が多い。なぜか、弱者も同じ人間だから、弱者に悪い人間が多いせいで、人種差別になってしまう。その人種差別は、ある意味、何にでも勝てるタブーの箱になってしまった。それが、理由だ。
ただ、現実を見ていると、弱者に悪い人間は居ない。たいていは右翼が悪い。それは、右翼は自分を否定する人間を信じないからだ。それで、弱者にならないことを保持している。だが、強者が自分から助けなければ、弱者は何も出来ないことを知ってほしい。右翼は知らないが、弱者はいつでも自分が悪いことを自覚している。右翼は、自覚していない。
昔は、結果を予想して、ひとつひとつのことを、結果的、方法的に、感覚と捉え方で予想して分かっていた。
みんながロボットのようになっているから、みんなをロボットにしない方が良い。
あとは、セックスを一人で出来るのは良いが、みんながおかしくなっているから、僕は一人だけになる。