フランスの実存主義哲学者。
自分の書いたブログ「わたしの名はフレイ」2020/09/07より。
サルトルはフランスの実存主義の哲学者。
ハイデガーとは対照的に、マルクス主義へ傾倒した哲学者である。
「人間は自由の刑に処されている」とか、「実存は本質に先立つ」という言葉が有名だが、この意味は、自由の中で人々は本質を見失い、本質が定まらないまま、その本質が成立していることを前提に生きることを強制されている、すなわち自由の刑に処されている、などといったことではないかと思う。
サルトルは自由を悪いものであると考え、自由と言うものを「刑罰」だと考えた。
サルトルは、自由のために人々が迷い苦しむ現代人のことを、「人間は自由の刑に処されている」といった。
サルトルは、人間や動物のような自己を持っている存在を「対自存在」とし、植物やもののようなそれ自体が存在であるものを「即自存在」であると考えた。
(以下はサルトル (1970年) (センチュリーブックス―人と思想〈34〉)を参考に執筆しました。)
サルトルも、多くの言葉を作っている。たとえば、「即自存在」や「対自存在」などといった言葉が代表的。
サルトルは、「保留された自由」から、即自存在と対自存在を考える。それらは「自由」という「留保的な」考え方から考えることができる。
サルトルは、「明晰なる無責任」、「保留された自由」、「客体化された自由」、「集団となった自由」をテーマに、マルクス主義的な思想、たとえば社会風刺のような言説を展開する。
サルトルは、人間の人生とは創造であり、可能性を創造していくことだと考えた。
サルトルは、人間を「その人生が何かの意味(本質)になるより先立って、自由に任された状態の人生(実存)がある・生まれる」と考えた。
これをサルトルは、「実存は本質に先立つ」と言った。これが実存主義の流行に繋がった。同時にアナーキズム的なマルクス主義のムーブメントが20世紀を襲った。
まさに、人間のことを考える哲学者だと言える。
僕個人の独自の考え方ではあるが、サルトルが「実存は本質に先立つ」と言いたかったのは、「正しい人間とは何かを知る前から、正しい人間であることを求められる」ということではないかと思う。
正しい人間になるためにどうすれば良いか、分からない段階から正しい人間になるように要求される。
正しい人間関係を築く方法や、正しい社会を作る方法が分からない段階から、すでに分かっているかのように要求される、ということである。
これは、間違いや争いをたくさん経験することになり、多くの場合不幸な結果になる。
それをサルトルは「人間は自由の刑に処されている」と言いたかったのではないかと思う。
そして、僕個人としては、「インターネットなどを使って、正しい人間になる方法を分かるように生きる」という選択もあると思う。
サルトルの考え方とは、この世界の人々はみんな愚か者になっていて、それは自由であるからであり、自由とは本質的に「本質を知らないまま」「自分の中に本質を形成することができないうちから」「実存を生きなければならない」ということであり、それをサルトルは「刑」と言いたかった。
そして、サルトルはこの刑における「明晰なる無責任」が「保留された自由」「客体化された自由」「集団となった自由」などの自由を生み出していくと考えたのである。
サルトルは、僕は「自らを規定してくれるもの」すなわち「アイデンティティ」が欠如することで、人々は不安になり、自由な中で攻撃し合い争い合う、ということを言いたかったのではないかと思う。
人々が不安を感じ、反抗や革命を起こすのは、自らを規定してくれるアイデンティティの欠如や喪失が理由である、という考え方が、僕のサルトルについての意見である(これは僕の考えであって、サルトルの考えではない)。
また、僕が思うに、そのアイデンティティを形成するためには、「自らに本質がないことを背負ってないままに実存を生きるしかない」のである。
そして、リアリティと理想の融和の先に、「たとえ自分が攻撃されても自分は相手のことを信じている」という「相手を自由にする」という発想が生まれてくる。どんなに相手が自分の敵であっても、自分は相手を信頼し、相手に自分と同じ自由を与える。すなわちこれが「自由」である。これが、僕のサルトルを超えた僕の哲学である。
そのように考えていくと、「自分が形作られていく過程」というのが見えてくる。さまざまな価値観を知って、人間を吸収して、普遍的かつ個別的な、主観と客観の融和、すなわち「現象学」がそこに生まれる。そして、「自らが自らを作り出す」というサルトルの「創造の論理」が見えてくる。自分を作り出すのは自分であり、自分は自分が創造する。社会においてもそれは同じで、サルトルはそこからマルクス主義に傾倒したのである。契機と手段から、「必要なものを必要に応じて与える」という新しい世界の政府を作ること、それが新しい人生として「本当に自由な人生を生きられる」社会を作ることに繋がるのだ。
サルトルは、ソ連のようなマルクス主義に傾倒した。サルトルは共産主義を「実践」しようとし、そのために唯物論的な価値観にとらわれ、「フロイトの言う超自我は自分にはない」と言っている。
「存在と無」、「嘔吐」、など。
2024-07-25に関連する内容があります。