最近の日記(忍者ブログ3)に戻る | 2017年1月の日記に戻る
もっと、三次元の「もの」を見た方が良い。ものを見ていると、分かる。
ものの世界の方が良い。二次元の画面や文字の世界は、悪い。
昔は、「構造と分類」であるとか、そういう、「世界の現象学的な概念の分類と構造」のようなことを書いていた。そして、その上で、変化の生成的なことや、ルールを作るようなことを言っていた。
心理学は構造的に現象を考えるとか、そういうことを言っていた。
今日はピアノに行った。なぜか、最近もっと上達してきている。簡単な曲なら、両手でも、初見で結構弾けるようになってきた。だが、まだまだ時間はかかるところがある。
最近、特に外国人観光客などが、「モノの消費からコトの消費に変わっている」と言う。僕は、それは、物質的ではなく、精神的な娯楽を求めるようになった、と言う意味で、良いことだと思う。だが、それはそうなのだが、デジタルとアナログで言えば、何もかも「もの」から「文字」へと変わってしまった。僕は、それは悪いことだと思う。もっと、「もの」を大切にしなければ、人類は破綻してしまうと思う。もっと、二次元の「言葉」ではなく、三次元の「もの」を見ていくべきなのだ。
ある意味、文字とパソコンの画面なんか、そのうち限界が来る。物質的なものを作れない。今、AIなどが「新しい第四次の産業革命」などと言われているが、僕は、コンピュータの力で「もの」を「変幻自在」に作れた時が、最後の革命だと思う。プログラムと数値からものを作り出せる。だが、それは、人間の力ならば、出来るのである。
ある意味、そういうわけで、本当に注目すべきは、3Dプリンターなどのもの製造機械と、VRなどの仮想現実の融和である。人工知能も悪くはないが、人間の頭脳がたとえ作れても、それは頭脳の中身しか作っていない。頭脳の外側は作れていないのだ。
ただ、僕は産業革命について何か言いたいわけではなくて、「ものを大切にする」と言う基本原理を、もう少し考えた方が良いと思う。もの、と言う範囲で、人類が出来ることは、もっとあるはずだ。生活の中でも、ものとしてのものの役割が、どんどん薄れていっている。情報と利便性だけになっている。それは、ボックスとしては良いかもしれないが、仕組みとしては劣悪で、複雑怪奇な上に不自由で非公開の技術だ。もっと、普通のものを使った方が、仕組みとしてエレガントなところはたくさんある。ある意味、コンピュータ技術の方が後に出来たからと言って、それでその前のデジタル技術、人間の技術が劣っているわけではない。現に、数学はもっともっと古くからある。
ある意味、最近は「ものを与え、奪い、分け与える」と言う基本が分かっていない人間が多い。欲張ってたくさんのものを得たいと思うのは、悪いことかもしれないが、最近のおかしなITは、なんでもかんでもそこまでたくさんのものを、大量に、大量に与える。それは、僕が見ると、馬鹿にしか見えない。そんなに大量の知恵と情報があっても、実際に使う場面がないだろう。もっと、ものに立ち返って、「そのものをどういう風に工夫したら、別のものを作り出すことが出来るのか」を考えて、それを「与え、奪う」と言うところから、「社会と経済の人間の関係」を考える、と言う発想に戻らないと、人間には、まともな理性が全くなくなって、全員白痴になるだろう。
ものが消えたのと同じように、愛も消えるだろう。人間関係や娯楽も消えるかもしれない。現実世界も消える可能性がある。政治から学校まで、どんどん消えていく。最後に残るのは何か?それは、おそらく、誰も関与していないのに働き続ける、情報のロボット蟻だと思う。
ただ、自分の悪い点は、パソコンが悪いように見えて、自分とLinuxが悪いだけだ。そこが悪く見える。本当に悪い人間に見える。パソコンは悪くない。自分の方が悪い。自分は、パソコンを完全に終わらせただけで、全てが途中で中断してしまった。それを直した方が良い。中断していたのを再開させるためには、ただ、テレビがまともに気が付けば良い。
工場は、オーダーメイドの注文(発注)が自由になって、みんなが出来るようになると、面白いかもしれない。金はかかるが、みんなでものを作ることが出来る。
例えば、みんなで初音ミクの模型を作ったり出来る。それも、原寸大で。オーダーメイドとはいうが、全部お任せにするのではなくて、ほとんどの設計はみんなで行いながら、その製造を工場が担当してくれる。どこかの会社がやったら面白いかもしれない。
テレビの「凄ワザ」と言う番組で色んなものを作っているくらいだから、機会さえあればやってくれる工場はあると思う。父親も、科学館で色んなものを作っていたが、ほとんどその場その場で考えて作っていた。そういう工場は多い。
おそらく、日本企業なら半導体ぐらいどこでも作れるはずだ。儲からないし、つまらないから作らない。Linuxは賢くないだろう。
ある意味、ネットで文章を書いている専門家は、UNIXをゼロから作る技術力ぐらいあるはずだ。
UNIXはどうでも良い。僕は、もう少し資本主義の会社と工場とコスト・パフォーマンスの構造を変えれば、素晴らしいものになる可能性はあると思う。ただ、オープンソースのようにすれば良いわけではなくて、むしろ、最初からそういうことをしたい人間が居ない。それが問題だ。
トランプの問題は、僕は「一人の指導者が全てのことは知りえない」と言うところだと思う。オバマも言っているが、大統領は一人で全ては出来ない。みんなと協力し、従え、たまには自分が下になることも必要なのだ。
YouTubeを聴いていると、ドビュッシーの長時間BGMが本当に良い。精神が浄化される。聴いていると、本当に楽になる。今まで聴いた中で、一番良い音楽だ。
英語は、考えているそのこと自体を考えるところがある。心理学的な言語だ。そして、自分に言われたことを相手に返すところがある。自由な言語だ。逆に、日本語は、考えているそのことをそのこと以上に良く考える。物理的な言語だ。それから、自分の方を最初から下にする。そういう、ユダヤ人のような言語だ。
トランプは、人種差別から一つの中国まで、タブーとされている分野を我が物顔で批判するが、これがキリスト教に向かうと悲惨なことになるのかもしれないと思う。
ある意味、神は人類を試している。キリスト以上に悪いことが出来ないか、試しているのだ。
自分は、この文章だけを見ると、表裏が全くない人間に見えるが、現実の自分を見ると、表裏がありすぎる人間だ。それは、悪い、と言うわけではない。現実では、馬鹿な子供のような、空っぽのフリをした人間をやっている。秘密にしているつもりはないのだが、自然に秘密になってしまった。神は、そういうところに居る。
右翼の問題点は、「相手が負けるところを見るのが面白いから」と言うところにあると思う。相手が勝つところを面白いと、なぜ思えないのか?韓国の反日のような集団は、日本が負けるのを見たいだけだ。根底には、日本人に酷いことをされた、と言う憎しみの感情があるが、憎しみから生まれるものはない。韓国人は、日本人を許して、日本人を引っ張っていき、指導して協力していく立場になるべきだ。日本人は、協力を申し出てほしいだけだ。
ある意味、韓国は、「協力し、和解することで、それ以上の対価を得られる」と言うことを知るべきなのだ。ただ、許すだけではなく、協力することで、もしかしたら、主導的役割を果たせるかもしれないのだ。互いに得をする関係で居た方が良い。