最近の日記(忍者ブログ2)に戻る | 2016年10月の日記に戻る
学校の分類ではなく、子供のように考えれば良い。
生物のことを科学だと思う人間が多いが、子供が見て、生物は科学ではない。
科学は、人間が作りだした自動車のようなもののことを言う。
生物は科学ではないが、生物学は科学だ。
子供には、先入観が無いから、野菜のことを「葉っぱ」だと思う。
ただ、大人は分かっているから、「食べられる野菜の玉ねぎを植えている」と思う。
子供は、感情で分かる子供が多い。
みんなが怖いのは、みんなが悪いからだ。
みんなは、怖くなくすると、すぐに倒れる。勝手に倒れるようにすれば勝てる。
良いことも、悪いことも、過去のことも、現在のことも含めて、「どうなったか」を考えなさい。
自分は、学校の勉強が出来るのが悪い。
悲しいのは、昔の子供時代に知り合った人間関係を、無駄にしたからだ。
愛を信じること。
自分は、みんなに与えた愛を自分で破壊したのが悪い。
「自分にしか出来ない」と思わない方が良い。それも、世界を救えるのは自分だけだと思っている。
本人にしか分からないとは言うが、きちんと伝えれば分かる。
世界を救うためには、愛を信じること。たとえ自分が滅ぼした当人だとしても、愛を与えたい。
人間は、狂うと分かる。
そして、愛すると、狂う。
最近は、そういう、愛で狂う人間が多い。どんどん狂って、分かるが、おかしくなる。
最近は、愛はあるのかもしれないが、信じれらなくなっている。
他人のことを信じられない。信用出来ない。
ある意味、信じることと、分かることは、同じだ。
信じられないことと、分からないことは同じだ。
そういう風に、分かるせいで意志の疎通が出来なくなっている。
ある意味、分からない方が正常だし、狂わない方がまともだ。
分からない方が良い。
むしろ、愛を破壊した方が良い。愛と言う感情はおかしい。ただ、愛によって狂っている。
愛を破壊し、人を傷つけた方が、はるかに良い国になる。
「ふーん」とか、「だからどうしたの?」とか、傷つくことを言った方が、相手が賢くなる。
自分は、治したのが悪い。むしろ、狂ったのが悪い。
自分は、救ったのが悪い。むしろ、滅ぼしたのが悪い。
そういう風に、「自分が何をして、どうなったのか」と「その矛盾」を考える。
どうなった、の前のどうなったを考える。
それは、別に戦争以後の自分ではなく、戦争以前の自分まで、遡って考えれば良い。
戦った。むしろ、戦わなかった。
無駄にした。むしろ、築き上げた。
平和になった。むしろ、戦争になった。
賢くなった。むしろ、馬鹿になった。
そういうことが、全部悪い。自分は、そこが分かっていない。
これなら、正しい心理学に見える。
言わないせいで、そういうことが全部分かっていない。忘れている。忘れたことすら忘れている。
基礎の方法と論理、数学的事実を積み重ねて、数学の前提構造を作っていた。
2+3と、3+2は、全体の値が同じなだけで、全く違う。
虫が気持ち悪いのは、虫を食べてしまうと、他の動物が食べるものが無くなるからだ。
環境の秩序や決まりを考えていた。
作用や関係が環境に与える影響のように、環境の決定的事実と決まりを考えていた。
それを見ている自分の側を考えていた。
いつ、どんなことが出来るのか、どのようにすれば出来るようになるのかを考えていた。
傷つけると、日本が治る。もう、楽しくて分かる正常な国になる。
そういう、環境的で、状況的で、現象的な、論理的な関係と環境の把握、発生、実現、自然を書いていた。そういう環境を全部作っていた。
そして、社会の変化と、未来がどうなっていくのか、どこに要因があって、どんな具体的変転を遂げていくのか、のようなことを書いていた。
足は、治った後の状態を先取りしていると治る。
楽にして、何でも許して、満足していれば治る。
そういうわけで、「楽だ」と思えば楽になる人間が多い。
もう終わったから、何もしなくて良い。
どうすれば分かるのか、気付きと説明から良く考えていた。
環境の内側に居ると、分からないこともある。それぞれの本当に現場に関わり合う人々が自由にするべきだが、どこかに居ると分かることは、その時は分からない。昔は、そういう普通分からない分かるのを追い求めて、それで分かっていた。
全ては、経験から自然に出てくる発想を知ることで、「その発想は自然なのだ」と言うことが分かる。そして、いつどんな発想が出来るのか、その発想が何から生まれるのか、実体験で分かる。
真実は、それ以上正しい・間違っていると言えないところまで考えて、その正しさを積み重ねて、対比し、総合的なモデルにして、仮象の世界を知り、可能性の全てから体得することだ。
真実は、良く考えながら全ての経験をすることだ。
真実は、情報を知りながら、経験し、自由になり、愛を知り、疑い、信じ、治すことだ。
良く分からない。もう、覚えていない。
真実は、常識や普通のこと、みんながそうだと思っていることを疑うことだ。
経験と回想意識から場が分かる。場は、変えられる。
経験、環境、社会、可能性の自由を高めることで、自然になる。
客観視して、例えば「支配する」と言うことは、「支配される」と言う立場から考える。
そこから、哲学的な真理が見えてくる。
知っている人にしか、分からないことはある。知っている人が、知らない人に助言を与えるべきだ。
法則と因果性を知ることで、人は人を支配出来る。導くことが出来る。
自分は、今馬鹿なだけで、ほんの少し前は賢かった。そんなに何も分からなければ治る。
経験と手段から発想と可能性を知り、真実の経験をし、システムを知り、行動し、全て出来るようになった。昔は、それだけだ。
学問は、基礎の構造を自分で作れば、全分野出来る。そういう、「ありえない可能性」を書いていた。
共通の秩序と価値観を、環境を良く知った上で作りなさい。
本当に見ると、日本人、黒人、ロシア人、イスラム教徒、イタリア人、ドイツ人だ。
辛くなれば治る。耐えて、続け、支配するのではなく、途中で終わらせて、辛くなれば良い。
そうすると、神経が治って、支配が終わる。
昔、僕は、オープンソースの開発体制に憧れていた。
OpenJaneの派生の開発者の一人、View氏などを見て、オープンな開発と共有が好きになった。
そして、昔から、僕はPerlで作ったブラウザゲームが好きだった。
それから、OSを作りたいと思っていた。デスクトップ環境とWebブラウザを作りたかった。
Windowsのフリーソフトが好きだったが、自分が作るなら、Linux向けに作りたかった。
それは、Windowsのフリーソフトが、すでにいくらでもあったからだ。