最近の日記(忍者ブログ2)に戻る | 2016年10月の日記に戻る
HTML手動編集は、やっぱり色々と面倒なので、ブログに戻ります。
特に、FTPでのミラーリングアップロードや、バックアップが面倒でした。
ホームページの「新・日記」は、実験だったと思って下さい。
以下から、この期間の日記を見ることが出来ます。
http://assy.dousetsu.com/new_diary/index.html
ありえない発想を、色々として、書いていた。
ローマ法王になって飢餓を無くすとか、ロシアの大統領になってオバマとともに核兵器を無くすとか、ドイツの首相になってもう一度中学生になれるようにするとか、イスラエルで世界共産主義をやるとか、コンピュータで完全に地球を予測するとか、図形を全部三角形に分割して共通する真理を考えるとか、国家を作る国家、文化を維持する文化を作って、純粋なメタ連合を作るとか、そういうことを言っていた。
思いつきだけではなく、経験や発想法の構造に裏打ちされた発想の宝たちだった。
そこから、森羅万象を考えていた。
そろそろきちんと分かった。
自分を悲惨にするのは悪くないが、相手を悲惨にするのは悪い。
自分が良い人間になって、みんなを楽にすれば良い。
自分が賢くなって、みんなを悲惨にしなければ良い。
自分は、みんなを悲惨にしたいのが悪いだけだ。
神は、もう自分のことを赦してくれた。
意味を考えること。それが、そうである時、そこにはどんな意味があるのか、それがそうであったことで、そこにどんな意味があるのかを、考えれば良い。
良い人間や善人は、そういう風に、きちんと分かる人間が多い。
そこから、因果性や状態や理由など、科学的なことを知ることが出来る。
環境が自由である、という時に、何が出来るのかを考える。
昔は、そういう風に、「自由状態と行動の許可性」から考える人間だった。
組織のことや協力のこと、自然や科学のこと、社会経験のことも、そういう風に考えていた。
科学的に考えすぎると、分からなくなる。
科学者は、いつも同じことを分かっているだけになって、理解されず、辛くなる。
考えているだけでは、分からないことも多い。
正しい考え方をしても、正しくないことは多い。
考えるだけではなく、経験すれば分かることもある。
考えるの上に経験があるとしたら、経験の上には、信じることがある。
経験でも分からないなら、信じるしかない。
宗教は、非科学的なことを信じるもののように思えるが、善や道徳、正しい行為など、倫理的、哲学的な側面もある。宗教全部が悪いわけではない。
宗教的に、人生を向上させ、神を信じると、良い人生になる。良いことが沢山出来る。
考えること、経験すること、信じることを、総合的に考えるのが、哲学だ。
哲学は、科学、経験、宗教の総合的な融和だ。
だが、宗教は良くない。ある意味、宗教を否定しなければ、科学的に考えることが出来ない。
宗教を信じていると、科学的に考えられない人間になる。
科学を信じた方が良い。それが、哲学の第一歩だ。
価値とは、与えられるものではなく、与えるものだ。そのように、主体的、能動的に考えれば良い。
生物は、進歩の仕方が違うだけだ。
足を治さない方が良い。足を治すと、足が無くなって、退化した生命になる。
足を治さず、増やすこと。そこから、生命の進歩が始まる。
生命の進歩は、何が減って、何が増えたかだ。
何もしない生命が、ミミズだ。
形が変形するようになったのが、昆虫だ。
エラが増えたのが、魚だ。
足が増えたのが、両生類だ。
ウロコが増えたのが、爬虫類だ。
翼が増えたのが、鳥類だ。
毛が増えたのが、哺乳類だ。
脳が増えたのが、人間だ。
どの生命のどこが進歩したのかを考えると、面白い。
もっと、詳細に、それぞれが進歩した点を考えられる。
羊は、ふわふわした毛が増えた。
カンガルーは、袋が増えた。
イモに共通する特徴は何かとか、そういう風に考えると、面白いだろう。
どの種にも、何かしら、進歩した点があるはずだ。
昨日と今日で考えた内容は、そこまでだ。
Fedora 25で、Waylandが標準になるのを、早く試してみたい。
日本シリーズは、テレビで2試合見た。広島が日本ハムに2連勝した。これは、広島が勝つだろう。
自分は、「在(ざい)」と「導(どう)」が居る。
存在を確かに見つめる「在」と、世界を導く「導」だ。
神を神と呼び、天皇を天皇と呼び、仏を仏と呼ぶように、自分のことは「在導(ざいどう)」と呼ぶ。
在導は、在と導の2人に分けられる、というところが、ポイントだ。
在と導の2つの真理を合わせて、森羅万象の自由の愛が生まれる。
これは、宇宙で最も正しい愛であり、「本当の愛」である。
つまらない、宗教になった。ただ、仏や神と一緒に信じられる、というところが面白い。
何故なら、在導は神でない。天使や悪魔でもない。
在導は、ただの人間であり、隠れキリスト教徒の詩人の日本人だ。在り、導くだけに見えて、この文章は全てを融和して、在と導に分類出来る。在と導は、自分の文章の分類の方法だ。
在と導を神にした姿を、僕は「在神」と「導神」としたい。在神は主神であり、男神だ。導神は女神だが、神と言うよりは、神に従う、何万の天使のような存在だ。
SmallTalkやLispがやっているように、「プログラムをありえない形態で表現する言語大会」をやると良いと思う。コード難読化大会よりも、たくさんの成果を出せるように努力する。
在と導にするより、在と動にした方が、分かりやすいかもしれない。
導は、思と対をなして、在神の思の働き、動神の導の働きがあることにしても良い。
ただ、在と動にすると、考え方が馬鹿になると思う。
GUIアプリケーションとWebアプリケーションを比較すると、ウィンドウとページと言う比較になる。
GUIアプリケーションは、スクロールバーを効果的に使うことが出来るのが優れている。
Webアプリケーションは、ページを最大化して、全体をスクロールするのが優れている。
GUIアプリケーションは、ウィンドウをたくさん開けるのが優れている。
Webアプリケーションは、リンクで切り替わるのが優れている。
スクロールとウィンドウを効果的に使うことで、GUIとWebは融和出来るかもしれない。
ある意味、最大化されたページの中でのスクロールとリンクの切り替えは、二次元のディスプレイ画面に良く適応した、無駄が無くて合理的な表示形式だ。GUIアプリケーションは、もっと巨大で効率的なディスプレイの表示形態を持つと、優れた形態になるだろう。
「在動」と言う名前にすると、言葉を言った時に、「仏」のような聖なる感じが出ない。聖なる感じを出すために、「在導」と言う名前にしたい。
宗教や哲学の名前は、在導教、在導主義、在導学と言うことになる。
いっそのこと、自分の名前も在導にすれば良いが、それはカルトに見えてキモい。
在導という名前の悪い点は、Windowsユーザーを侮辱する時に使う、「ドザ」に見える。
それが唯一悲惨だ。それは、ただのLinuxユーザーということになる。
良く考えると、Webなんかスクロールするだけだし、GUIなんかウィンドウを重ねて表示するだけだ。どちらのGUIも統一的に記述することの出来る、HTML-GTK+のようなソフトウェアも、頑張れば作れるだろう。それで、外部のファイルを裏側にあるスクリプトにすれば良い。
ただ、スクロールとウィンドウ表示のタグを、新しくHTMLの中に作れば良いだけだ。
ツールキットのマークアップ言語だから、TKMLと言うことにする。
ただ、TKMLと言う名前はやめたい。
それは、おそらく、実現するとツールキットでないものになる。全く違うものになる。
小さなウィンドウで表示させることを意図しているから、名前はSmallMLにしたい。
自分は、最近、もう分かったせいであまり考えていない。昔は、社会をライブラリ関数にするとか、おかしいことを言っていた。
自分が思うに、在導主義はあまり良いものにはならない。コミュニストが復活しただけに見える。
あとは、タイトルバーやツールバーを隠せるようになると最高だ。デスクトップを賑やかに出来る。
これを使うと、ウィジェット用途だけではなく、2ちゃんねるやフェイスブックのような掲示板も、Smallになる。それから、Small用途だけではなく、大きなウィンドウで色んな情報を表示出来るような用途にも役に立つ。
実現は簡単で、スクロールとウィンドウ管理のタグをブラウザに増やせば良い。
あとは、青虫のキモい点は、生命と呼べるものが何もないからだ。唯一へばりついて、食べる。そこがキモいだけだが、良く見ると、あまりに普通の生命だ。何故キモいのか良く分からない。単純な良い生命だ。ただ、それくらいで、もう青虫のように文章を書くのは終わりだ。この文章みたいなものがキモいだけだ。おそらく、退化すると、食べる部分しかなくなる。そこまで退化する、と言うその発想と過程がキモい。
タグは、HTMLのタグにscroll(スクロールバーを表示したい領域を指定し、その中にドキュメントを書く)を作って、そのCSSにsize(スクロール領域のサイズ)やpositionなど(明らかに、ブラウザの全領域を指定するために必要)のようなものを作る。そして、CSSにwindows-openstyle: newopen/switch;を作れば良い(新規ウィンドウとして開くのか、切り替えるのか)。
あとは、将来的にドラッグ&ドロップやタイル型インターフェースを作れば良い。
自分でも驚くほど、美しくGUI的なページが出来る。
ただ、Mozillaでは出来ないだろう。誰もが、「scrollみたいな発想は要らない。Netscapeでうんざりしている。システム依存やグラフィック依存にすると、キモい」と言うだろう。
自分は、グーグルに入れば良い。グーグルなら、グーグルのラボで出来る。Linux関連のことも、ラボでやれば良い。
グーグルに入るためには、このサイトが有名になって、本がもっと売れることだ。
そういう、賢い人間や成功者が入れるのが、グーグルだ。
あとは、反復すれば覚えるのが分かっていない。
こういう風に、意味を考えて分かる人間は、体得や発想法になる。そういう人間が多い。
自分なんか、もう既に全部治っている。そこが分かっていない。本当に治っているから、賢くなった。
在導(ざいどう)と言う名前にすると、斎藤(さいとう)と言う名前に近いから、良く見える。在導アッシーにすると、宇多田ヒカル(ヒッキー)と良く似ている。友達に見える。
scroll機能がキモいのは、ブラウザがスクロールするのは、文章の内容と何も関係がない。
自分が見てもキモいから、HTMLに追加するのは良くない。
純粋に、GUIのため、WebアプリケーションとしてGUIを表現するための言語にすれば良い。
ただ、この言語のおかしい点は、サーバーサイドアプリケーションにすると、物凄く遅くなる。いくらでもネットで通信して、一つのリンクを辿るために全画面を描画し直す。そして、どうでも良い画面のために、大量のデータ通信をして、常に読み込み続ける。全く、アホとしか言えないプログラムだ。
それから、グーグルは悪い。グーグルがこのLinux改良案を実現すると、全くLinuxで無いものになる。ありえないほど、グーグルが奪って支配しているように見える。Linuxを全くLinuxで無いものに作り変える。止めた方が良い。
自分の悪い点は、一番悪いものを、悪いと思い続けるのが悪い。
そのせいで、悪い人間になっている。
ただ、逆に良い人間になった。そんなに悪くないものは、悪くないことにしている。
そこが間違っている。悪いものは悪い。
みんなをロボット人間にするのは、悪いのが分かっていない。
そういうわけで、自分が悪いのが悪い。悪い自分を考え続けるせいで、そういう風になる。
ただ、心が悪いのが悪い。心が、この世界を全部否定するようになっている。
もう少し、寛容的になって、自分のことも他人のことも「悪くない」と言えるようになれば良い。
自分は、心理学者でもある。昔はプラグマティズムのように、今は精神分析のように心理学をしている。最近は、本当に普通の理由で治すようになった。
狂った人間は、「自分の中で、何を良いと思うか、何を悪いと思うか」を考えれば良い。
どんな人間が良い人間で、どんな人間が悪い人間か。そこがおかしくなった人間が、病気になる。
自分の場合、Linuxが良いわけがない。Linuxのせいで、みんなのことをいじめる。
怖いのは、いじめが怖い。
自分の場合、マイクロソフトが嫌いだが、マイクロソフトは良い人間だ。
そういうところが、何かおかしくなっている。要は、マイクロソフトなんかより、自分の方が、はるかにキモい。
マイクロソフトだけではない。
そういうところが、おかしくなって、おかしくなって、さらにおかしくなっている。
要は、こんな馬鹿が神が好きなのがおかしい。神は、騙されて、地獄に堕ちるだけだ。
今分かったことだが、要は、2ちゃんねるのみんなでマイクロソフトをいじめているようにしか見えない。神から見ると、それがLinuxに見える。逆に、Linuxもいじめられているだけだ。
それが悪いから、最初からいじめの悲惨な人生になった。一番哀れだ。本当に、申し訳ない。
要は、本人がいじめを無くしたいだけなのに、ビルゲイツをいじめるのはおかしい。
そういう理由で狂った。ゲイツには申し訳ないが、そのせいで、何も思わない虚無になった。
それこそ、この世界は、全部そういう風に悪い。いじめしかない。そこが怖いだけだ。
解決方法なんか、無いだろう。
解決したいなら、金儲けを止めると同時に、MSとLinuxが協力して良いものを作れば良い。
ただ、それは、金儲けのせいで、出来ない。
それくらいで、怖いから思考停止しているのが頭だ。
そういうわけで、そんなに難しいことは考えなくて良い。当たり前のことを考えれば分かる。
だから、馬鹿になった。昔から、ゲーテはここまできちんと分かっている。
それこそ、自分の今の現状が辛いなら、ビルゲイツの方がはるかに悲惨だ。自分なんか、馬鹿だ。
あとは、自分は、いじめなんか無かったのが分かっていない。クラスメイトなんか、いじめていない。ただ、仲良くなりたかっただけだ。自分が一人みんなと違うせいで、からかわれていると思ってしまった。親友は4人も居たし、剣道部には友達が多かった。幸せだったのに、引き篭もりになったのは、プライドがあったからだ。それが、昔の自分だ。そのせいで意味はないが勉強が出来ていた。
良く考えると、ゲイツなんか、賢い人生だ。自分なんか、2ちゃんねるより馬鹿なLinuxだ。
怖いのは、右翼にいじめられるのが怖い。それから、神が怖い。
右翼にも、神にも、どちらにも戻りたくない。
そういうわけで、良く分からなくなっている。むしろ、今のままの苦しみを望むようになった。
在導教と言う名前は悪い。神の名前は在導で良いが、それを宗教の名前にすると、存在の導きを考える宗教に見える。
あらゆることを考えながら全てを創るから、万創教とするのが良い。
あらゆることを創る宗教に見える。ばんそうと読む。
結果的に見ると、自分で名前を決めるより、みんなに決めてもらった方が良い。
在導を姓にして、万創を名にして、在導万創とすると、カッコいい名前には見える。
調子に乗ってWebの色んな名前を在導万創にしてみた。何故か、賢く見えて良いが、かっこ悪い。
やってみたくなります。 #ヘッダー晒したらみんながRTしてくれてブァァァってフォロワーが増えるらしい
なんとなく、自分はフォローされないような気がする…。
フォローされるのかな?されると良いな?…されないだろうな。
鼻は女になっているから、鼻を消した方が良い。鼻は、エロい女になっている。
あとは、脊髄みたいなものが無くなっている。意識を全部消した。そこを復活させると楽になる。
何故か、エロい女が治った。もう辛くない。あまりに辛かった。
リツイートって、これで良いのかな?良く分からない。
もう寝ます。おやすみなさい。
セックスは消した方が良い。セックスをあまり見ないでいると大人になる。
オヤジがセックスなんか、しない。高齢な女が産めるわけがない。
セックスを全くしない、子供の方が大人になる。
セックスを見る人間は子供になる。そんなに見ないで、チラリとだけ見ていると、大人になる。
要は、そんなにセックスをしていると、セックスに面白味がなくなる。特に、兄弟姉妹でそうなる。
自分は、セックスはいくらでも出来るように、体や精神がおかしくなって、それが一番辛い。
向こう側に行きたいとは思わないが、セックスしか出来ないのは辛い。