最近の日記(忍者ブログ2)に戻る | 2016年10月の日記に戻る
昔は、色んな発想を分析していた。分析から、言語の冠詞を多様にし、文法を自由にし、動詞を階層的にするとか、教育は大人としての責任と社会の主体性を自覚させる、などを言う。
治して分かっていた。根源的に、心を治すことで分かった。
世界の構造を作って、体験や視点、多様性や創造性のようなことから、この世界を実地的に考えた。体験から環境が分かると言う。
言語、認識、科学、自由、心をモデルにした。特に、言語のモデルを良く作っていた。関係的現象学のような、「モデルからその実態や状態を分かる」と言う発想があった。
最近、馬鹿になったのは、みんな、死にたくないからだ。そこを、死にたいようにすると昔に戻る。それで、日本社会が復活する。死にたくないせいで、狂っている。死にたいなら、賢くなる。
子供が賢いのは、子供はそこまで考えるからだ。
大人は、悪いことばかり起きるせいで、考えなくなる。
そのことが起きること、あることを考えるのではなく、それを見る自分の側の認識を考えよ。
事前に全てのことを予測し、決まりを積み重ねよ。
構造的に、何がいつ成り立つか、可能性と行動の自然な成り立ちを知れ。
あとは、社会のことを具体的、プロセス的、発想的に考えていた。
ただ、目的や意志の無い、おかしな文章だった。
要は、裏の理由みたいに言わなくて良い。分かっている通り言えば悪い。
単純に、分かっただけをシンプルに言えば良い。
こういう自分で自分を騙す人間は、裏で全部分かっているのが悪い。
自分は、我慢するのが辛い。我慢するから、歩き回るようになる。
我慢せず、いくらでも頑張れば良い。「我慢したくない」と言えば良い。
狂った人間は、こういう風になる。狂人は、分かっているせいで、分かっていない。
歩き回るのは、足だけを使っていないからだ。
あとは、我慢しない時間を入れたいだけだ。そのために歩き回っている。
悪いものは、セックスのようなものが全部悪い。そういうもののせいで、おかしくなった。
歩き回らないと、足が弱くなる。
足を怪我したことがあるせいで、人並みにスポーツは出来ない。
町中に歩いて出かけたりすれば良い。
我慢は本当に悪いから、我慢しなくて良い。ストレスや疲れは、我慢のせいで起きている。
最近は、ただ我慢したいだけだ。作家に、こういう、我慢する人間が多い。
人間のロボットより賢い点は、人間は繰り返しで学習出来る。
何故か、脳を学習する人間が、狂った人間に多い。狂っているように見えて、それが賢い。
脳を学習していると、何でも一瞬で、永遠に繰り返して分かるようになる。
そういうわけで、人間の頭脳なんか、IntelのCPUと何も変わらないが、人間の方が賢い。
自分は、そういう、繰り返しロボット人間をやっている。それも、全自動だ。
もっとおかしくすれば、楽になる。
自分は、まだおかしくない方だ。何もしないから、まともな人間に見える。
自分の頭は、そういう風に辛い。地獄とは言うが、作家をやるならこうするしかない。
ただ、そんなに信じたいのはおかしい。都合の悪いことばかり信じる意味がない。
あとは、ネットを見ていると、こういう人間が嫌いな人間が多い。こういう人間はクズだ。
仕方ない。自分が見ても、普通はこういう人間が悪い。
辛くない。平気だ。地獄の中で放っておかれても、平然としている。泣いたことも少ない。
ただ、本当に悲しかった。こうなるのが分かっていた。
頭を、一度、完全に組み換え直すのが良いだろう。
地獄の中の最悪の苦しみを繰り返すのは辛い。もう一度、ありえないことをすれば良い。
楽だから、楽なままで良い。治したいのがおかしい。
あとは、色んなことをするようにすると、賢くなる。脳のすることを増やせば良い。
治るのを目指すのは悪い。もっと賢くなるのを目指した方が良い。
不思議と、子供時代の方が辛い。
頭が辛い精神病のロボットは、最後まで終わってからやると、そんなに辛くない。
そろそろ全部治った。もう、歩き回らない。
「治す」と言う目的を、「賢くなる」や「行動する」にした方が良い。
そんなに全力で治すのは、辛い。
ヘーゲルは、心理学と歴史について段階的分析のようなことを言っている。
自分も、昔、歴史に関して、色んなことを言っていた。
アメリカは、発展へと向かう永遠の可能性であり、ロシアは、それを終わらせることである。
そういう、ある意味でアメリカとロシアを両立させる。
ヘーゲルが疎遠になった精神とか、そういう精神的なことを言うように、自分の世界を考えていた。
あとは、絶対的なものを信じないのが悪い。
神と対話するとか、書くのをやめるとか、そういう心のSOSは、「確証が得られない」ことが原因だ。
そして、安心出来ないために、安心することそれ自体が怖くなっている。
普通、そういうものから、パニックやヒステリーが始まる。
次第に、絶対的なものを信じるようになる。
本当に、こういう人間が大人に多い。子供は、真実を何も経験していないからまともなだけだ。
要は、世界を滅びたと思うのが間違っている。自分のせいで滅びたせいで、自分にしか分からない。ただ、それは、「滅ぼすと思っているから、滅ぼしている」だけだ。それこそ、こんなに良い世界を滅ぼすのがおかしい。一人滅びたと思っているせいで、周りを全部滅ぼしている。
あとは、社会的思想や融和のようなことを、社会的に考える。
自由と平等、中央集権と地方分権、多様性と統一、共存と支配、共同体と王、可能性と実現のようなことを、モデルにしたり、実現したり、独立可能な国を作ったり、生産、労働、給与、自由、協力、実行、などの点から、色々と分析する。
それから、自然科学のようなことに対して、相対的な洞察のようなものを書いていた。
自分は、むしろ、ソ連に見えない。
お面が見える。ここから先、悪魔のような国になる。日本は、お化けと能面の世界になる。
むしろ、日本はもう終わったから仕方ない。
自分は、ハイデガーが言うように、死に導いているだけだ。
あとは、むしろ、正気を取り戻して、自分の居る場所、今したいこと、考えていることを、心の中で整理した方が良い。この世界は狂っていない。狂っているのは自分だけだ。
昔の日本は、それぞれの独立性と意志の自由度が高かった。だが、頭が馬鹿だった。むしろ、頭はそれほど重要でなかった。みんな、汗水たらして、肉体で働いていた。
そういうわけで、昔に戻した方が良い。最近は、日本は何もしない。良いことも悪いこともしない。昔の方が、そういう理由で楽しかった。それぞれ、自由にやっていた。
今、日本シリーズ第三戦を見ている。広島は、ここで勝てば王手だ。だが、日ハムのホームだから、僕は結構難しい試合になると思う。だが、僕は広島人だから、広島に勝ってほしい。
広島には、野球馬鹿が多いから、平日なのに札幌まで行って応援している。ありえない。
ただ、僕は、引退を決めた黒田と、最強の広島打撃陣なら、勝てると思う。僕はそんなに野球ファンではない。ただ、ここで勝てばチームの精神的にすごく影響があると思う。
こういう風に昔の日本と今の日本を比較すると、自由が馬鹿なのが良く分かる。
自由は、ただ反抗して、快楽に任せて破壊するだけの、馬鹿な主義だ。
JR北海道の半数が単独では維持出来ないように、弱者だけでは平等は実現出来ない。
強者の協力と助けがあって、初めて平等は実現出来る。
強者を軽蔑したり、非難するのは悪い。だが、平等な弱者のために強者が援助することは必要だ。
そういうわけで、自由は悪い。政府は中央集権でも良いから、平等にしてほしい。
自由も悪くはない。それぞれが可能性を高めて、自分の意志で選択出来る自由は必要だ。
だが、自由に自由なんか、無い。野球のファンを見ても分かるように、自由に自由なんかない。自由は、ただ大多数が力の差で弱者に勝つだけだ。それを自由と言うなら、平等の方が、不自由には見えない。自由が不自由で、平等が自由だ。
それこそ、自由と平等に、そんなに差はない。弱者を助ける代り、強者が見返りを得られるような、そういうルールを作ることは出来るだろう。それなら、自由は平等だ。それも、同じことを言っている。
一つ言えるのは、自由も自由で、全く弱者を助けないのではない。投資のように、弱者への手助けを与えることで、見返りを株主が得られるような仕組みはある。
それに、「弱者から強者へと這い上がる努力」をしないのがおかしいと言われるだろう。
この文章の良い点は、永遠に日本に残るところだ。そこが、「永遠」に見える。
ただ、日本が無くなると、それで無くなってしまう。読み継がれる人も、次第に居なくなる。
だから、永遠ではないのだ。
宇宙の永遠は、色んな論議があるが、僕は、「神が分かっている通りになる」としたい。神は、本当に物凄く賢い存在だから、宇宙を永遠にすることも、途中で消滅させることも出来る。トマス・アクィナスが似たようなことを言っている。そういうわけで、神とともに始まり、神の意図とともに終わる。そこに、神以外のものは指図出来ないのだ。
ただ、自分の言っている神とは、何なのか、と言う問題はあるかもしれない。ある意味、キリスト教にも反することを言うかもしれないが、神は「永遠でもあり、有限でもある存在」であって、決して「神だから永遠」と言うわけではない。
僕は、神の信仰もまだ日が浅いし、聖書や神学に全く詳しくないが、自分なりに信仰のようなことはしていた。それで、今でも神のようなものとどこかで対話している。だから、預言者のように、神の言葉を言える。言ってみよう。神様、宇宙は永遠ですか?それに神は答える。「神とは、僕の将来の、最高の姿を言っている。神が創ったのは、神はそんなに意図はしていない。宇宙のなるようになる。終わる時、永遠に繰り返す時、自由から平等に変わる時、宇宙には色んなサイクルとスパンがある。終わるべくして終わるが、永遠になれば、それもある意味で成功だ」と言っている。
神との対話が出来たのかは、怪しい。自分が分かっていることを言っているように見える。ただ、これもある意味、神らしきものの言葉として、この文章の一行に追加したい。
まだ6回だが、広島が今のところ勝っている。
ここで勝てば、あとがだいぶ楽になる。勝ちたいところだ。
後世の人が見て、自分はどういう人間に見えるだろうか?ヘーゲルのような学者の哲学者に見えるか?アランのようなカリスマ性のある作家に見えるか?スピノザのような悲惨な哲学者に見えるか?ゴッホのような後で成功した人間に見えるか?レーニンのような革命家に見えるか?キリストのような本当の神に見えるだろうか?おそらく、それら全部に見える。
ただ、Linuxはどうでも良い。この時代、GoogleがみんなをAndroidのロボットにする。Linuxは自由だ。ロボットから人間たちのコンピュータを本来の持ち主に与え直す。それは、社会主義のコンピュータに見えてカッコいいが、何故か、ビルゲイツを尊敬しないのがおかしい。Linuxなんか、左翼が右翼とパソコンで競争しているだけに見える。マイクロソフトの方が正しい。
あとは、作家の物語や、既存の哲学者の部分はどうでも良い。ソ連もどうでも良いが、当たり前にソ連の構造的思想を載せる。それから、本人の人生的な観念思想を載せる。そして、どういう位置づけにあるのかを載せる。それで、デカルトと何も変わらないことになる。
不思議と、現代の日本に宗教家の作家が現れるのは、ヨーロッパと比べて、段違いに馬鹿に見える。ヨーロッパで哲学者は賢いが、日本で宗教家は馬鹿にしか見えない。
ここらへんの、パソコンの時代が分かるように見えるが、自分はニートで、技術者ではない。明らかに、姉が賢かったことになる。姉は本当のプログラマだ。
自分は、作家でもっと成功するから、ここらへんは「姉の影をソ連に追い求めていた時代」と言うことになる。それを伝記として書くかもしれない。
本人はネットを悪いと言うが、ネットがあって良かったのが分かっていない。こんな馬鹿でも、情報にアクセス出来て、自分の哲学が発表出来るのは、ネットだけだ。
ただ、本人はきちんと出版が出来ているから、それは悪くない。
あとは、哲学史の解釈の仕方がありえない。全く嘘しか分かっていない。「何も知らない人間」と言うことになる。プログラミングなんか、そんなに出来ていない。
それと、むしろ、パソコンの業績は、何故か自分で考えるロボットのようなものを作っている。シンプルで美しいが、むしろ、無限ループは動かないように見える。「メインループ」と言うプログラムの手法だが、CUIでメインループをやるのはおかしい。そこを未来の技術者がおかしいと言うだろう。
自分の呆れた点は、こんな馬鹿はいくらでも居る。群衆に紛れて、存在を忘れられるだけだ。
あとは、2人にしてカップルにするのは、馬鹿過ぎると言う。
自分は、日本人だと本当に馬鹿に見えるが、唯一パソコンで人間が作れた人間と言うことになる。
あとは、観念的なことを書いていない。「全ては未知である」とか、「全ては可能性の発揮である」とか、「全ては根源からそれぞれによって作り出される」とか、まるでヘーゲルを易しい言葉で言うような、そういう文章を書いていた。
自分の分かっていない点は、まだ自分は自分でない。これから先、人生はいくらでも続く。そこで考えたこと、書いたことも含めて、自分だ。
自分は、宗教や政治や科学の発想を書けば良い。簡単な言葉で自分のマインドを説明する、言葉の魔術師のような天才科学者が自分だ。
それから、新しい心理学と言うことにしても良いだろう。自分を治すことでみんなを治す。
マルチな人間には見えない。書くことと発想することしか出来ない人間だ。
こういう風に本にすると、アリストテレスのように見えて良い。だが、僕の文章のスタイルとは違う。僕の文章は、色んな案や意見を出して、一つ一つ埋めていく、と言うスタイルだが、僕が考えるに、その方が馬鹿だ。
ただ、アリストテレス・スタイルにするのは良いが、僕は自由な人間だから、自由に決めてほしいとは思う。色んな案を出したり、全体の構成を入念に考えたりしても良い。だが、本人が考えるに、あんまり気張って考えてもらいたくはない。むしろ、僕と同じように、その時その時の発想を1つ1つ追いかけて書くような、そんなスタイルが良い。
妄想が過ぎる。それこそ、アランの幸福論みたいな本になるのか、ヘーゲルの精神現象学みたいな本になるのか、今から楽しみだが、僕にも寿命と言うものがある。それに、こんなに自分が偉大な神だと思うのがキモいから、妄想はやめた方が良い。頑張っても、トーバルズやストールマンほどには、評価されないだろう。日本の中で発表しても、見向きもされない。ただ、結構、地元の本屋(フタバ図書)では、今でも僕の詩集の本(タイトルは「色んなものを探しているうちに」)を置いてくれているから、ここから先、もっと良い本を書けば、直木賞や芥川賞を取れる可能性も、1%ぐらいはあるように思う。ノーベル文学賞も、無くは無いだろう。
昔は、みんなのことを自分の経験と体験から分かっていた。心の作用と経験のモデルを考えることで、実体を分かっていた。そこから、「何を意味しているのか」を考えた。考える知性がある人間だった。
昔は、デカルトのような正しい考え方で考える、「思考の熟練者」だった。ヘーゲルとも変わらない。むしろ、ニーチェやサルトルに近い。
自分は、ピアノと英語が賢かった。そして、パソコンのように、世界を知る手段、研究する手段があって、引き篭もりと言う、「必然的に考える手段とゆとり」があるのが賢かった。
あとは、自分は、発想の原案を出すのではなく、実装すれば良いのが分かっていない。Windowsのプログラミングは、そんなに難しいものではない。VBとC/C++で何でも作れる。コンパイラは、VSの無料版を使えば良い。Linuxがやりたいなら、Fedoraで開発すれば良い。
自分は、そろそろ、もう人種が残っていない。ロシア人や黒人が終わった。そろそろ、パプアニューギニアのようなありえない人種になる。それで、最後だ。
あとは、本当に、色んな発想が分かる、経験豊かな人間だった。世界のこと、人生のことを、アリストテレスのように考えていた。アリストテレスは、自由を考えているわけではない。自分の力で、自分の出来る全ての知性を使って考えている。地上で一番賢いのは、アリストテレスだ。
あとは、自分で科学を作って、自分で総合的に本質と起源を考える。そういう、アリストテレスのような哲学的知性は、いつも書いていた。全てを部分化しながら、同時に総合的に考える。そういう、総合的に経験と知性で考える能力が一番あったのが、昔のまともだった自分だ。
野球は、カープは負けた。自分は、普段野球は見ていないが、見ていると、大谷翔平はすごい。敵ながらあっぱれだ。単に、投げるのも打つのも出来るだけではない。カープの選手を神ってると言うが、大谷も神ってる。今、一番注目されている選手だと思う。
ペナントレースを全く見ていないから、トンチンカンなことを言っているかもしれないが、カープの選手は最強の布陣で、気持ちも高ぶっているが、それを大谷一人にもてあそばれているところがある。ただ、それは、大谷が本当にすごいだけだ。
強くなった弱小球団カープが勝つか、ありえない最強の魔神大谷の日本ハムが勝つか、だと思う。
野球に詳しくない僕が言うのもおかしいが、大谷の問題点は、「既存のルールが通用しない」と言うところだと思う。野球の常識が、大谷の前では常識ではない。馬鹿の常識だ。そのせいで、本当に賢くなっている。「本当のこれからの野球は、大谷にしか分からない、出来ない」と言うことを暗示しているのかもしれない。
野球に詳しくないと言ったが、昔はいくらか野球を見ていた。ライブドア事件の時に、色々とネットで野球のことを見ていたが、ファンは馬鹿な人間が多い。野球はアンチとファンの、永遠の罵り合いだ。
広島は、逆に、本当に頑張っている。みんなでどん底を経験したせいで、何でも出来る。要は、広島のチームが、本当に野球の全てで秀でている。誰かさんの功績があったのだと思う。
大麻を所持していたとされる容疑者が、「今、自分のことを逮捕するなら、逮捕出来る。だが、自分はその逮捕した人と議論したい。自分が論理的に考えているだけだからだ。」と言っていた。自分は、言いたいことが良く分かる。「自由」と「論理」から考えると、大麻を所持した方が、正しいことのように見える。だが、僕は、それはこの世界を「自由な数学的行動様式」から「捉え間違えている」のだと思う。言うのは自由であって、やるのも自由であって、人にそれを束縛されるものではない、と思っている。だが、僕は、むしろ、答えは別の点にある。環境において、その環境を作り出すのは、自分自身かもしれない。だが、その環境を自分の好きに出来るより、誰かに支配されて、環境全体を作り出すことが出来る。大麻を所持することを論理的に許すことが出来るなら、環境自体を作ることを、どうして論理的に許すことが出来ないのか?それは、「それが不可能なことのように思える」からだが、どうして不可能だと思うのか?そういう風に考えて行けば良い。いずれは、平等に秩序のある普通の世界を、一人の指導者が実現した方が良い、その方が世界は良くなる、と言うことが、理性的かつ経験的に分かるだろう。ある意味、自由より王の方が簡単だ。どうして王が馬鹿だと思うのか?王が出来るなら、みんなが出来るとは言える。だが、王を一人決めて、その王に従う、と言う体制を、どうして論理的に否定するのか?自由な中で王を作るなら、どのようにするのか?そこで、間違いが生じる。自由でも、王と同じように出来るように見える。それは、ただ、イコールを同じだと思っているだけで、「支配する」と言う概念が見えていない。支配することも、自由にすることよりも優れている、優れた体制なのだ、そして、それも論理的に考えて許すべきなのだ、と言う、「支配の優位性」が分かっていない。だから、議論したいと言っているのだと思う。
ただ、僕は逮捕された大麻所持の容疑者と付き合いたくはないから、議論はしたくない。
ある意味、まともに考える王が一人居て、その王だけがみんなのことを決めて、みんなまともな世界に生きる、そういうまともな世界を毛嫌いしているのだと思う。それは、最近の国民病だ。
ある意味、みんなが好き勝手に法律や貨幣やセキュリティのためのパスワードを発行出来るなら、色んな人間が発行することで、すぐに訳の分からない世界になってしまう。その時には、既に政府の機能が弱体化して、取返しのつかない事態になってしまう。良く考えるなら、みんなで考えるより、一人の代表者だけが出来るようにして、その人と一緒に考えた方が良い。そういうところが分からないのは、おそらく、インターネットのせいだと思う。インターネットのせいで、何でも自由で上手くいくのだと思っている。それも、悪くはない。ある意味、それも社会を進歩させる原動力になる。だが、現実を見ると、障害者や犯罪者には、人から認められる、と言う「価値観の承認」がない。それは、民衆の価値観が低いだけではなく、自由だからだ。価値観は低くない。自由を無くせば、価値観は高くなるだろう。
あまり意味がないが、僕も昔は、何でもかんでも自由にすべきだと思っていた。そういうわけで、こんな文章を書いてしまった。
問題は、「自分の出来ることは、誰しもにも出来るべきだ」と言うところにある。その前提が間違っている。きちんと自分で考えて、最善を尽くさなければ、良いものは作れない。その支配を、権力としてそれぞれに許すのなら、誰をも全員支配する、一人の王ですら許さなければならない。そうでなければ、世界全体を一人で考えることが出来ない。そう言えるのだと思う。
間違えないでほしいのは、僕は支配者が勝つ世界にはしたくない。それも、自由と言う意味で言えば、許される、と言うことになるのではないか、と言いたい。僕は、論理的な考え方が絶対的に正しいとは思わない。人間には、理性だけではなく、感性もある。感性の望むように、感受性豊かに生きられる、そういう平和な世界を作ってほしい。支配者を良いと言いたいのではなく、この世界にそういう「体験の可能性」もあるのだと言うことを言いたい。
何故か、狂人みたいな文章になった。僕は、こういう狂人が一番嫌いだ。