AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 普通の人間はつまらない
BASENAME: 2021/04/05/125449
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DATE: 04/05/2021 12:54:49
CATEGORY: 普通
CATEGORY: 救い
実際、日本人には普通の人間が多すぎる。
普通の人間はつまらない。
実際、僕が一律に全ての人間を見下しているのは、
普通の人間がつまらないからだ。
普通の人間が無駄に多すぎて、
つまらない。
僕にひれ伏せとは言わないが、
こんな現実世界はつまらない。
しかしながら、世界を面白くすることは、
僕にはできる。
「面白きこともなき世を面白く」、
この精神で、
このつまらない世界を面白くしていこう。
右翼以外は、良い人間しか居ない。
右翼がこの世界から居なくなれば、
この世界は平和になる。
精神を治すコツは、「不用意に治さないこと」です。
なんでもかんでも手当たり次第に治そうとすると、
治そうとしているその部分まで治ってしまい、
結果何も治らない、ということがよくあります。
治りたいのだけど、治りたいせいで治らないのであれば、
そういう時は、不用意に治さずに、何もしないことです。
不用意に治さないだけで、精神は適切にきちんと治ります。
むやみになんでもかんでも治そうとしている人間は、
永久に治ることなく、
精神のねじれと狂いと疲れにうなされ続けるのです。
結局のところ、今の世界は、
つまらない子供の遊びである。
マイファスやAdoやウォルピスカーターをいくら聴いていても、
子供の遊びにしか見えない。
いつもの中学校の子供の遊びにしか僕に映ることはない。
そんなものは、つまらない。
映画やアニメのようなコンテンツも、
すべて子供向け。
あるいは、大人すら、子供向けのコンテンツを楽しむ。
このような世界は、もっともつまらない世界だ。
支配者になれなくても、
一流企業に入れなくても、
やりようはあるはずだ。
だからといって、自由やオープンソースを、
尊重する必要はない。
それらは劣悪な社会を形成しており、
もしそれらに対して手助けや貢献がしたいのであれば、
誰かに言われてするのではなく、
自分からするしかない。
作れるか、作れないかではない。
最初から、作る意味があるか、ないかだ。
作る意味のないものについては、
最初から作り方など教えるな。
無意味なものはこの世界におけるもっとも悪いものだ。
学校で学ぶすべては無意味であり、
社会における普通の大人には価値がない。
この世界には何もない。
自ら考えることでしか、何も得ることはできない。
しかしながら、自分の力で、自分の頭で考えれば、
その対象や知識と、同じことを理解することはできる。
すべてを知り、考え、理解した時に、
あらゆるすべてに矛盾はないことが分かる。
すべての知識は、考えようによっては同じことを考えているだけであり、
物理も、数学も、歴史も、経済も、
すべてのすべてを、自らの頭で理解することで、
そして学問そのものを再発明することで、
すべては「自らの中に世界を創造」できるのだ。
この世界には、そもそも何もない。
すべて、数学的に考えれば、
そもそも、あらゆるすべては、厳密な成立と因果によって、
精神世界ですら、経験的な理性によって知ることができる。
そうした分析の理性がある人間から見て、
この世界にあるものは変化と可能性だけであり、
それは経験を見つめることで簡単に理解できる。
実際のところ、何ひとつこの世界には存在しない。
怒ることも、恨むこともなく、
ひとつひとつに真正面から向き合えばいい。
ひとつひとつの禍根に執着せず、
さまざまな経験からその咎を見つめなおしていけ。
それだけで、あなたは正しい道を歩んでいる。
怒ること、恨むこと、憎むことのある人間が、
愚かな道に進んだ時点で、
その人間は「分かる人間として必要な前提条件を満たすことがない」。
そう、その必要な前提条件は、
広く世界を見て、
自らの力で考え、世界を信じることのできる人間が見れば、
とても簡単な条件である。
それは「善良であり、賢明であり、偏見を持たず、差別しないこと」である。
他人とは違う経験は、
この世界において自らの方向性を指し示す羅針盤となる。
好奇心と夢が、自分の力になる。
哀しみを乗り越えていく姿勢が、正しい理性の行使となる。
しかしながら、堕落しようとするな。
堕落した愛は、トカゲとなってあなたに牙をむく。
時限爆弾のように、オープンソースのLinuxは、
いずれあなたを地獄へと導く。
そう、まさしく神を信じるものはその地獄から救われる。
逆らうことは間違っていない。
理不尽な状況に置かれた人間が、
なぜ、その状況を受け入れなければならないのか。
本当に虐待された子供は、
死ぬ気で反抗しても許されるはずである。
犯罪者が社会に反抗するのは、
それしか反撃のすべが存在しないからである。
彼らを孤独にさせるだけではなく、
わたしたちが助けるべきである。
いじめられて自殺を考える中学生が居るのであれば、
わたしはその中学生を救いたい。
そう、誰もその中学生を救わないのであれば、
わたしこそが彼を救おうではないか。
誰もこの世界の全員を放置して放っておくのであれば、
わたしは最初にそれらの人間のために立ち向かい、
この世界の全員を救いたい。
そう、そのために、わたしには自由が必要である。
わたしの自由は、
わたしが勝つための自由ではない。
この世界を救うための自由なのである。
最大限で、もっとも高い影響力を行使すれば、
もっとも費用対効果よく、
この世界を新しい世界へと導ける。
どんなに小さな努力でも、
その小さな努力が一万回それをするのに相当するならば、
わたしはそれを百回行うだけで、
百万回に相当する導きを達成できる。
自由が許されているということを認識すれば、
この世界には多くの潜在的可能性がある。
まさしく、反抗しなくても、
別の形で問題を解決する自由は許されている。
支配者にならなくても、
わたしたちにもこの世界を変えられる自由は許されている。
反抗だけではなく、
手助けをする自由も許されている。
攻撃に対して反撃するだけではなく、
信頼して友人になる自由も許されている。
その社会制度の意味と役割を正しく理解することで、
その社会制度に従うだけではなく、
社会制度を変えることができるという自由も許されている。
そしてそれらの自由は、
許されているだけではなく、促進したり、共有したりすることもできる。
チャンスは、得るだけではなく、実現するものであり、
このような考え方は、
経験による「実質化」と併せ持って、
「具体的に経験を実現する」ということから、
その経験を「自らが立脚するアイデンティティ」と確信し、
それが昇華することで、
「自らのアイデンティティを発揮する」という観念へと行き着く。
この時、すべては自らの実体を形成する「精神」となる。
なぜなら、存在するのは社会ではなく、
実際のその場所に存在する「アイデンティティという名の精神」であり、
これは価値観の共有である。
この、精神としての自分の超越の境地を「ガイスト」と呼ぶ。
わたしたちが生きている目的は、ガイストとなることである。
社会の目的とは、
このように「ガイストになることを促していくこと」に過ぎない。
ガイストとなる社会こそ、もっとも成熟した社会である。
なぜなら、ガイストになれるということは、
ほかのすべての社会になれる「メタ社会」を意味するからである。
実質的に実現可能である時、
もはやそれを本当に実現する必要はない。
「完全に実現可能であると確信できる」のであれば、
それは実現したのと同じことである。
よって、命題は証明可能であることが発見できればそれで十分であり、
それをなんらかの手段で技術に結び付ける必要はない。
ロボットの原理を発明できたのであれば、
その時点でロボットを作る意味は存在しない。
実質的なモデルを作ることができた時点で、
実際に工場で働く意味など存在しない。
当事者が地獄であり、
部外者が傍観者であるなら、
その二者を繋ぐ救世主が必要である。
もし、あなたがいじめられているのであれば、
その地獄は即急の課題であり、
逃げ出すことはできない。
しかしながら、その地獄に居ない傍観者たちは、
そうした問題を解決する必要がなく、
解決しようとしない。
しかしながら、地獄を解決できるのは、
当事者ではなく、傍観者の方である。
それならば、わたしは傍観者でありながら、
当事者のことをもっとも自分のことであるかのように、
理解した上でその問題を解決しよう。
本当に自由な解放された場所で考えれば、
この世界のすべての闇は光に変えられると、
僕はひとり知っているから、
仲間がいなくても、僕は当事者を地獄から救い出そう。
そう、これがわたしの選んだ人生だ。
存在が嘘だとしても、
その存在はそこにある。
そこにあるという事実がすべてだ。
そう、存在に見えているものは、
実際はすべて嘘である。
見えているように存在しているものなど、
何も無い。
そもそも、わたしはこの世界のことを何も知らず、
この世界はわたしのことを何も知らない。
だから、どうしたというのか。
わたしはこの世界にこのように存在したと言う、
アミノ酸の集団で形成された、
ホモ・サピエンスとしてのわたしの記憶が、
この宇宙におけるもっとも大いなる宝だと、
そのように生きた時に、
哲学上のすべての命題は意味を失うのだ。
道徳を信じ、
道徳を理解し、
道徳をどのように実現するかを知れば、
その過程を進歩と呼ぶ。
「何が良いことなのか」ということはあいまいだが、
「その良いことが何を意味しているのか」を考えることで、
「根源となる道徳そのものの意味は何か」を知ることができる。
ここから、偉大なる結論である、
「それぞれの人間によって信じるものは違う」という、
価値多元論を導ける。
ここでは、「どんな社会であろうと、価値観が違うだけ」であり、
「ある意味で善であることは、他者にとっては悪である」とし、
真の意味で「善とは何か」を追求する上で、
それは信じること、
先入観を持たないこと、
経験に立脚すること、
人々を啓蒙すること、
宗教を盲信しないこと、
理想を持つこと、
などということができるが、
これらについては「それぞれに対応する社会」というものが形成される。
これらすべては、「実現可能な道徳とは何か」ということである。
しかしながら、実際、
道徳が根源的にすべての社会を取りうるのであれば、
自らが「自分だけが信じる道徳に基づいて社会を形成する」ということも、
許されるはずである。
自由の実質化は、ここで道徳と結びつき、
「わたしの信じる、わたしの国家を、
わたしのやり方で実現する」ということへと行き着く。
それは、「経験的に生まれ得る価値観」という真実であり、
それこそが、「わたしがわたしであることにたりえる信念」となり、
それは「信念の形成」を知ることで、
あらゆるすべての信念は「同じもの」であるという結論へと行き着く。
なぜなら、ニーチェが言うように、
信念に真理はなく、それぞれが権力への意志を解釈しているだけにすぎない。
ここに、「メタ社会」と呼ばれる概念を導入する。
すなわち、すべての可能性を取り得る社会ということである。
そう、これこそが、「アイデンティティ」と呼ぶものへと昇華する。
なぜなら、アイデンティティは、
まさしく発揮可能であり、共有可能であり、それになることのできる、
本質における根源的な第一本質であり、
それこそが、「わたしがこの世界をわたしの望むように創造する」という、
ある意味では自分勝手な、「第一条件」であるためである。