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デカルト

フランスの大陸合理論の哲学者。近代哲学の父。

デカルト

デカルト。

画像はパブリックドメイン。

デカルト概要

自分の書いた「エリカの技術・芸術日記」2021/08/15-16より。

各種の科学は、いわば「この世界をそのまま観察する経験の科学」である。それらは真実を知ること、原因を探ることに基づく。このような姿勢は、哲学者デカルトに遡ることができる。それがスピノザ、ライプニッツ、ベーコン、ロック、ヒューム、ルソー、カント、ヘーゲルと続く。これが近代哲学だ。

また、僕は西洋哲学の哲学者も好きである。詳しいとは言えないかもしれないが、大まかなそれぞれの哲学者の思想について僕は一通り知っている。特に、デカルト、カント、ヘーゲルについては、彼らの思想の基本的なことを、できるだけ「彼ら本人の視点」に立つつもりで知っている。

僕は、デカルトについては、心身二元論やコギト命題より、方法的懐疑が重要だと考える。「真であることしか受け入れるな」「できるだけ小部分に分けよ」「正しいとされた基本的なものから推論して大きなものへ達せよ」「すべてにおいて間違いがないか検査せよ」というものだ。

デカルト

自分の書いたブログ「わたしの名はフレイ」2020/09/07より。

デカルトは、近代哲学の父と言われるフランスの哲学者。

「われ思う、ゆえにわれあり」とする考え方や、人間を心と体のロボットであるとする二元論が有名で、数学としては代数のスタイルを作ったとか、デカルト座標や解析学を始めたことが有名である。

僕が好きなのは「方法的懐疑」という考え方で、

1.それが真実だと思わない限り受け入れない

2.小さな部分に分割して考える

3.単純なものから複雑なものを推論して考える

4.全てがきちんと正しいものかきちんと検査して取りまとめる

という、「誰にでもできる合理的な懐疑の考え方」を述べた。

これを、「全てのことを疑う」と言う。

デカルトの本は哲学書のわりには読みやすく、薄いので、僕も方法序説を読んだことがあるが、逆にカントやヘーゲルは小難しく分厚いので、入門本や解説本が必要である。

特に、ヘーゲルは何も知らずに読むと「何を言っているか分からない」。

話をデカルトに戻すと、兵士だったデカルトはヨーロッパ中を旅してまわり、また科学者としても解剖学などたくさんのことを学んだが、「唯一役に立ったのは数学だけだ」と語っている。

当時デカルトが住んでいたオランダは、交易などの関係で進んだ場所だった。

詳しくは方法序説 (岩波文庫)が参考になります。

近代哲学の父

デカルトはフランス人の数学者で、近代哲学の父と呼ばれる。彼の著作、主に「方法序説」と「省察」から、ヨーロッパで始まった独特のスタイルを持つ「たくさんの哲学者が真理を考え著作として発表する」という「近代哲学」が始まった。

デカルトは難しいと言われることが多いが、カントやヘーゲルのような「小難しい文章」では決してない。デカルトの著作は、薄くて、読みやすくて、面白い。簡単にすぐに読めて、誰でも同じように考えられる。当時ラテン語で書かれていた古典的著作とは逆に、平易なフランス語で書かれていることも特徴である。

中世の暗愚な時代、デカルトの合理論から、ヨーロッパの科学革命が始まった。自由な文化と理性を信じる「科学革命」は、イギリス経験論の哲学者やカント・ヘーゲルなどとともに、「経験的に宇宙のことを実験と証明から分かる」という「数学・物理学の革命」を生み出した。

逆に、合理主義の行き過ぎから、「全てを疑い、理性しか信じない」という「偏った理性主義」を生み出した、という負の側面もある。

われ思う、ゆえにわれあり

デカルトは、あらゆる全てのことを疑う。だが、そこで疑っている自分が存在することは、疑っていると言う行為から見て、唯一正しい、とする。

後日注記:「自分しか信じない」デカルトの哲学だが、ここからヘーゲルのような「自我の発達と進歩の過程」を考える哲学や、経験論・言語哲学・現象学のような新しい哲学・心理学思想が生まれていった。

方法的懐疑

デカルトは、考える方法として、

1.それが真実だと思わない限り受け入れない

2.小さな部分に分割して考える

3.単純なものから複雑なものを推論して考える

4.全てがきちんと正しいものかきちんと検査して取りまとめる

と言う、「誰にでも出来る哲学的方法論」を考えた。

後日注記:まさに、速断を避けて強固にこれらの方法を守ることで、デカルトはこの世界が全て分かることを発見した。

二元論

デカルトは、人間を心と体の二元論にする。これは、メカニック的な「人間は機械である」と言う仮定に基づいている。

兵士・旅人

デカルトは兵隊として入隊し、旅人としてヨーロッパ中を渡り歩く。住み慣れたオランダは、当時は先進的な場所だった。

科学者・数学者として

科学者としてのデカルトは、たくさんの分野を学んだものの、ほとんどは役に立たず、「数学だけが唯一役に立った」と言っている。

数学者としてのデカルトは、デカルト座標系や次数の考え方を作ったり、解析学として代数学と幾何学の統合などに取り組んだ。みんなが学ぶX座標やY座標、そしてa,b,cとx,y,zを用いて次数の多い方から整理していく数学のスタイルは、デカルトが考案したものである。

また、運動量保存の法則や慣性の法則は、デカルトによって発見された。科学上の「発見」というよりは、デカルトによって「法則化」された正しい観測上の定理であると言えるかもしれない。

代数数学史も参照のこと。

デカルトについて個人的に思うこと

デカルトについて個人的に思うことは二つある。

まず、この世界で生きる上で、心の中がどんなに変わったとしても、心の「器」があるということ自体は変わらない。

それなら、心の器があるということを、「われ思うゆえにわれあり」と言って、真理ということはできるかもしれない。

だが、これは生と死を考えていない。生まれなければわれはないはずであり、死ねばわれは終わるはずである。

デカルトは、ここで精神と肉体の二元論を用いる。すなわち、肉体が滅びたとしても、精神は魂の世界では生き続ける。よってわれは永遠にあり続ける。

だが、僕は今の脳科学において、脳が死ねば心も死ぬということを知っている。よって、残念ながら二元論は正しくない。

だが、僕はだからといって、われも含めてこの世界すべてが夢の世界のような嘘の世界であるとは考えない。

なぜなら、もしわたしが死んで、別の誰かが生きたとしても、その誰かがわれをもって生きているということは変わらない。

これは、たとえばゲームをプレイする際に、別のゲームに取り換えればキャラクターは変わってしまうが、それでもそのゲームをプレイするのは自分であるということを意味している。

だが、これも間違いである。なぜなら、ゲームをプレイするのは自分であるとは限らない。ほかの誰かがプレイすることだってある。

それならば、自分ではないとしても、誰かがゲームをプレイすること、すなわち、「誰か思うゆえに誰かあり」と言えないだろうか。

そして、この誰かの名前を、「神」であることにしよう。わたしたちは全員神の一部であり、「神思うゆえに神あり」と言える。

実際のところ、ここで「神」という名前を使うのは相応しくない。「超自我」あるいは「世界精神」と呼ぶべきものである。

さて、ここで近代哲学の完成者であるヘーゲルが、世界の歴史は絶対精神の目覚めであると言った。

僕は、ヘーゲルについて反論したいわけではない。だが、見ていると、むしろ、ある程度の周期性をもって、「寝たり起きたりを繰り返している」といった表現のほうが正しいだろう。

世界精神がもし目覚めたとしても、また眠りに戻るはずだ。歴史は繰り返すと言われる。繫栄したとしても、滅びるはずである。いずれ絶対知に到達したとしても、記憶を失って最初から始まるはずである。

そして、デカルトについて言えば、デカルトの哲学は、多くが「デカルトの考えて行き着いた考え方」の著作である。

多くの哲学者が、善や知について考えた。それは、それぞれの哲学者にとって真理であっても、人類全員の真理であるとは限らない。

すなわち、哲学者にとっての真理は、その哲学者にとっての真理でしかない。

だが、もしそうであったとしても、僕は、その哲学者がさまざまなことを考えた末に、誰にとってもに同じ考え方に行き着くであろう、「共通の考え方を共有」することはできると思う。

つまり、デカルトにとっての哲学とは、デカルトのみに当てはまる哲学でありながら、デカルトが考えて行き着いた末の「誰が考えても同じ考え方に行き着くであろう考え方の共有」なのである。

そして、これが西洋哲学のまさに基本である。まず「われ思うゆえにわれあり」ということ、次に「誰しもが行き着く考え方を共有」すること、これを西洋哲学の根本原理としよう。

自我とは何か

普段生きていて、わたしたち人間は、目で見る光の情報である「視覚」や、耳で聞こえる音の情報である「聴覚」や、体でものを感知したり体そのものを動かしたりする「体性感覚」が、自分なのだと勘違いしています。

ですが、これらは「感覚」であって、「自分」ではありません。

では、自分とはなんなのか。自分とは、それら感覚を常に監視しながら、感覚を操作することのできる「思考」や「判断」の力です。

おそらく、デカルトの言う「われ思う、ゆえにわれあり」という考え方は、この「自分」とされる存在のことを、「自分が存在する理由」であると考えた結果だと思います。

そして、人間思考型のロボットを作る場合には、このことに注意すべきです。作るべきは、「見ること」「聞くこと」「感覚を操ること」だけではなく、「思考し判断する自分自身を作る」ということです。これがロボットを開発する上でとても大切だと思います。

ロボットも参照のこと。

2024.03.24

デカルトの言葉

方法序説」より引用。

“... 論理学を構成させた多くの教則の代りに、守ることをただの一度も怠らぬという堅固一徹な決心をもってしたならば、次の四つで十分である、と私は確信した。
第一は、明証的に真であると認めることなしには、いかなる事をも真であるとして受け取らぬこと、すなわち、よく注意して速断と偏見を避けること、そうして、それを疑ういかなる隙もないほど、それほどまで明晰に、それほどまで判明に、私の心に現れるもののほかは、何ものをも私の判断に取りいれぬということ。
第二は、私の研究しようとする問題のおのおのを、できうるかぎり多くの、そうして、それらのものをよくよく解決するために求められるかぎり細かな、小部分に分割すること。
第三は、私の思索を順序に従ってみちびくこと、知るに最も単純で、最も容易であるものからはじめて、最も複雑なものの認識まで少しずつ、だんだんと登りゆき、なお、それ自体としては互になんの順序も無い対象のあいだに順序を仮定しながら。
最後のものは、何一つ私はとり落とさなかったと保証されるほど、どの部分についても完全な枚挙を、全般にわたって余すところなき再検査を、あらゆる場合に行うこと。”―デカルト

著作

「方法序説」、「情念論」、「省察」、など。