哲学に戻る

ウィトゲンシュタイン

独自の「言語哲学」を打ち立てた現代の哲学者。

ウィトゲンシュタイン

ウィトゲンシュタイン。

画像はパブリックドメイン。

ウィトゲンシュタイン

自分の書いたブログ「わたしの名はフレイ」2020/09/07より。

ウィトゲンシュタインは、独自の「言語哲学」と「分析哲学」を生み出した哲学者。

独自の明晰な分析により、この世界全てを冷静かつ冷徹に見つめるかのような文章を叙述する。

「語りえない場合は沈黙するべきである」という言葉が有名。

言語哲学と明晰な構造

ウィトゲンシュタインは、独自の言語哲学と明晰な構造の文章によって、事実や像など、まるでこの世界を冷静かつ冷徹にただ見つめるような、そういう哲学を作った。

後日注記:ウィトゲンシュタインは、すべての世界観を「言語哲学」という意味での文章に落とし込む。まるで「新しい哲学界の聖書」を作っているかのように、この文書が世界すべてを論理的に完璧に把握する。

語りえない場合は沈黙するべきである

ウィトゲンシュタインは、語りえない場合は、沈黙するしかないと考える。

後日注記:何も分かり得ない時にべらべらと喋ることは、いい結果を生まない。何も言語にし得ない時は沈黙すべきである。

言語・世界の限界

ウィトゲンシュタインは、自己とは「言語の限界」であり、存在とは「世界の限界」であると考える。

後日注記:人間や存在を規定する上で、その「限界」を考えることは重要である。限界があると、それ以上それが別のものになることのできない「制限」が生まれる。すなわち、限界は存在を規定する。

後日注記:ウィトゲンシュタインの「言語哲学」は、「言語の限界以上に分かることはできない」と考える。人間は自らの言語の限界以上、なんらかのことを分かり得ない。言語に表現できないことは絶対に理解できない。

後日注記:ウィトゲンシュタインの言っていることとは外れるかもしれませんが、「言語の限界のせいで言語以上に考えられない」ということは本当にあると思います。たとえば、人間はyesとnoでしか考えられません。そのyesとnoが基本となっている「命題」を考えるということは、言語の限界だと言えます。また、もっと身近なものとして、言葉には文字自体に存在する「標準的な意味」があります。たとえば、「音楽」は音を楽しむと書きますが、その通り日本人は音楽について、まず「音を楽しむものだ」と考えてしまいます。「動物」は動くものと書きますが、日本人は動物について「動くものである」と考えてしまいます。言語の限界は、そうした命題や表現的な意味だけではなく、言葉遣いや、あるいは数学的な「論理性」そのものに及んでいきます。あるいは、「人間と人間がコミュニケーションをした時、互いの間で意思疎通できる伝達可能な範囲」も言語の限界です。そして、言葉を思い浮かべた時に思いつくこと、すなわち「言語的な発見」すら言語の限界であると言えます。人間は、言語の限界以上分かり得ることは絶対にできないのです。

後日注記:ウィトゲンシュタインの考える言語哲学において、ウィトゲンシュタインの記した内容が何を意味するかというと、それは「論理性」の部分だと思う。人間の持つ言語には、「もし~であれば~である」という論理的な言葉がたくさんある。ウィトゲンシュタインは、このように論理的に考えた際に必然的かつ重要な、「この世界を捉えるために考えられ得る事項や事実を書き記した諸要素」とは何かということを、自らの著作である「論理哲学論考」(論考)に書き記した。そして、論考の内容はまさに完璧であり、「論考だけで宇宙や人生すべてを言い表している」と言えるような、いわば「哲学の最終地点となる文学的論理芸術」を作り出したのだ。

問題の共有

ウィトゲンシュタインは、哲学の解明とは問題を解決することや真実を発見することではなく、その人の問題を明確化し、「問題を共有すること」であると考えた。

後日注記:ウィトゲンシュタインはこの宇宙における「問題や本質的命題」をよく考え、よく捉えている。カントにも近いその姿勢は、「超越しながら現実をリアリティに見つめる」という特徴がある。

言語ゲーム

ウィトゲンシュタインの哲学で有名なのは、「言語ゲーム」である。(彼の考えとは全く違うことを言っているが)言語のゲームに陥ると、人は哲学的理性を「全ての哲学」として行うことができる。ウィトゲンシュタインの哲学は、「全ての哲学が出来る」として有名である。

後日注記:ウィトゲンシュタインのように考えると、この地上におけるすべての哲学ができる。どんな哲学であってもウィトゲンシュタインの考え方の範囲内に含まれる。それは「限界」と「言語的記述」により、「哲学者の分かっているすべてのこと」を、ウィトゲンシュタインは記述することに成功したからである。

理性的な人間になれる哲学

2019-05-30より。

僕は、再度哲学をやりたいと思う。カントやヘーゲルも良いが、それらは十分過去に学んだため、むしろ、ウィトゲンシュタインのような現代哲学をやりたい。

ウィトゲンシュタインの解説書を読んでいて、自分なりに分かったことがあるので、それを書く。

1.考えるべきことは、現実にあるものや存在が何であるか、仕組みや原理が何であるかではなく、「事実」とは何であるかを考えることである。

2.考えるべきことは、知識や学問の構造や原則が何であるかではなく、「命題」とは何であるかを考えることである。

この2つは、ウィトゲンシュタインの「世界はものではなく事実である」とか、「命題は自然法則であり、他を語ることは無意味である」といったことから、分かったことである。

自分は、子供のように、学問や現実にあるものを観察し、知ることで分かろうとしているが、その多くは無意味で、根拠まで考えていない。

また、他にも言えることがある。これらは、ウィトゲンシュタインとは無関係だが、ウィトゲンシュタインを読んで自分が思ったことである。

3.事実や命題について、正しいとか、間違っているとかを評価しなければならない。そして、有意義だと思うことに注力し、無意味なことは無意味だと言って切り捨てなければならない。

4.事実のような起き得るべきことに対して、起きる前に事前に予測しなければならない。

5.評価と予測は、それ自体が言語的な命題と事実である。そのような「言語」を考えなければならない。

今日のところは、そんな感じである。

著作

「論理哲学論考」、「哲学探究」、など。