実存主義の創始者。
キルケゴール。
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自分の書いたブログ「わたしの名はフレイ」2020/09/07より。
キルケゴールは、実存主義の哲学者。
「ヘーゲルには全世界があるが、魂や心がない」とし、あらゆることを網羅的に知識として考えるのではなく、人生として生きること、すなわち「絶望」に向きあうことに意味があると言った、「実存主義」の創始者である。
彼は、人生を
1.美的実存の段階
2.倫理的実存の段階
3.宗教的実存の段階
の三段階として、「可能性」が絶望を救うとした。
キルケゴールの後、サルトルやハイデガーのような実存主義の哲学者が続く。
特にサルトルは実存主義の代名詞とも言える哲学者である。
キルケゴールは、人間の人生を「美的実存の段階」「倫理的実存の段階」「宗教的実存の段階」と言う三段階の段階にした。
後日注記:人間は、最初の純粋な段階では、この世界に存在する「実存」の在り方について、好き嫌いや美しさしか判断できない。これがもっとも未熟な「美的実存の段階」である。だが、人生経験を経るにつれて、人間となんであるか、社会とは人間のためにどのようなものであるべきか、人間と社会との関係とは何か、自由とは何か、理想とは何か、善とは何か、という倫理性を判断して、実存を考えるようになる。これを「倫理的実存の段階」とする。そして、最終的に、人間は「神」へと救いを求め、宗教的に救いを得ることができるようになる。すべてが分かった人間が地獄の苦しみの中に居るのを、その人間の神への信仰が、あるいは宇宙に存在する神そのものが救っていく。これが「宗教的実存の段階」であると言える。
キルケゴールは、絶望とは何なのかを考え、真理は絶望から生まれ、可能性が絶望を救うと考えた。
後日注記:この現実世界では、潜在的に眠っているたくさんの可能性が社会に存在する。その可能性は現時点では実現されていないとしても、「今の世界とはまったく違う世界がもしかしたら成り立つかもしれない」と考えることで、今のこの世界を「変えられる余地がある」と知ることができる。それが、「今の世界は絶対に変えられない」とするような絶望を救っていく。キルケゴールの言っている通りではないかもしれないが、僕はそのように、可能性が絶望を救うという理屈には一理あると思っている。
キルケゴールは、ヘーゲルを批判し、「ヘーゲル哲学には全世界があるが、心(魂)がない」と言った。哲学を、歴史や現象学を難しく考えるものではなく、人間の生活や心を考えるものに、再度転換しようとした。
キルケゴールはキリスト教の神学者とも言えて、宗教的実存から、人間のことをもう一度捉えなおそうとした。実存主義の創始者とされ、後のサルトルやハイデガーが独自の実存主義を唱えるように続いた。
実存主義とは、「それが現実にどのように存在しているか」、あるいは、「事実どのように存在しているか」などと言った意味である。(うろ覚えなので、どちらが正しかったのか分からない。申し訳ない。)
自分の書いた「ニュース - 2021-05-第二週」2021/05/08より。
絶望の中に居る人間は、可能性を信じなさい。
キルケゴールが言うように、可能性が人間の未来を形作る原動力だからである。
可能性を信じると、人は共産主義者になるが、それでいい。未来のありえないユートピアを作るためには、自由、多様性、共同体、そういうものがいいのである。
可能性はまさしく「心の薬」である。可能性を信じることで、狂った心は正常になり、深い心の傷は治癒される。心の傷を作り続けることのできる人間は、心の傷をもっとも治すことができる。
「読まずに死ねない哲学名著50冊」より引用。
“絶望しかけている人があったら、可能性をもってこい、可能性をもってこい、可能性のみが唯一の救いだ、と叫ぶことが必要なのだ。”―キルケゴール『死にいたる病』
「死に至る病」、など。