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フッサール

現象学の哲学者。

フッサール

フッサール。

画像はパブリックドメイン。

フッサールとヤスパース

自分の書いたブログ「わたしの名はフレイ」2020/09/07より。

フッサールとヤスパースは、現象学の哲学者。

フッサールは、「厳密な科学」によって宇宙や世界のさまざまなことを「意識の現象」であるとする。

ヤスパースは、集団の中で没するのではなく、本来の自分に立ち返ることで、真理を取り戻すことが出来ると考える。

ヤスパースも参照のこと。

意識の現象学

フッサールは、この世界の全てを独自の「現象学」と言う考え方で考える。そこでは、全ては意識の現象である。

フッサールは、さまざまな「思い込み」を排するところから現象学を開始する。

後日注記:現象学は、この世界全てを「意識」とし、常に生まれ滅していく「現象」であると考える学問である。フィヒテやシェリングのようなドイツ観念論にも近い考え方である。フィヒテとシェリングは宇宙の自我のことを「超自我」と考え、シェリングはさらに「宇宙の全ての現象は同じものの現れの違いにすぎない」という同一哲学を考えた。

後日注記:上の記述は誤りだった。現象学とは、客観的な「事実」に対して、それを自らの内における「主観」から生まれ、生起するものである、と考える哲学である。ヤスパースやフッサールに始まり、哲学だけではなく心理学などについても影響したこの考え方は、ものごとを単純に「客観的に分析する」だけではなく、「その人の内面にある主観から生まれ出てくるものである」とするものであり、現象学者は一切の思い込みを排して、先入観なく、そして「主観と客観が分けられる以前のこと」を考える。

厳密な科学

フッサールは、この世界を数学のような「厳密な科学」によって、捉えることで考える。

後日注記:フッサールは自分の手で宇宙を科学的かつ厳密に考えることにより、現象学を作り出す。まるで、世界の科学を自分の手で再構築するかのようである。

判断を一度ストップする

フッサールは、一度、この世界における現象を把握するために、判断や理性を一度ストップする。その上で、世界における現象を考える。

たとえば、ものがあるとはどういうことだろうか。これを考える上で、「そこにあるからそれは存在する」と考えることは簡単だが、ここで判断と前提をストップし、「どのような条件のもとではそれは成り立つのだろうか」ということを考える。すると、そこから答えを見つけることができる。

このような考え方は、事物だけではなく、認識や意味を考える上でも役に立つ。そして、ここから「現象学」が生まれていく。

ただし、僕が考えるに、自らの心の内面を内省する際にも、この考え方は有効だと思う。一度判断をストップし、自らの心の中で起きていることを内省する。これこそ、心理学者ではないかと思う。

読まずに死ねない哲学名著50冊を参考に執筆しました。)

フッサールは考える

フッサールの現象学では、ものごとを「事象そのものへ」といったように現象として考えます。

ですが、なぜ、このような発想が生まれるのでしょうか。

それは、「真実を考える」ということを行っているからです。

フッサールのような、「事象そのものへ」という考え方が頭から出てくる理由は、この世界において「真実を考える」ということを行っているからです。

では、「真実を考える」とはどういうことでしょうか。

それは、二つの真かもしれない命題があった上で、そのどちらが真であり、どちらが偽であるかを考えることです。

選択肢を選ぶ際に、どちらの選択肢が正しい選択であり、どちらの選択肢が間違った選択か、ということを考えること、これが「真実を考える」ということです。

そして、フッサールのような哲学者は、このようなことをきちんと考えて、真実がどちらなのかを分かっています。

そのように、「自分の知性を使って答えをすべて分かった状態」であるから、フッサールのような「事象そのものへ」という発想が生まれるのです。

真実を考えるためには、本や書籍を読む必要はありません。なぜなら、自分の頭で知性を使って考えていないからです。未知を既知にする、という方法は誤りです。どれだけ未知のことを知ったとしても、それは知識として知っているだけにすぎず、自分の頭で答えをひねり出した結果ではありません。逆に、未知のことが何も分からなくなり、「自分の頭で考える知性を失う」という結果になることもあります。

自分の頭だけで、この世界の知性的な分析だけで、選択肢を厳密に考え、「答えを発見し続ける」ということを行った時、すべての答えが分かった状態になった時に、はじめてフッサールの言う「事象そのものへ」という意味が分かるのです。

2023.05.15

著作

「現象学の理念」、「イデーン」、など。