中世ヨーロッパの神学者・哲学者。
自分の書いたブログ「わたしの名はフレイ」2020/09/07より。
アウグスティヌスは、中世ヨーロッパのキリスト教の神学者。
「アウグスティヌス」であって、ローマの初代皇帝「アウグストゥス」ではない。
新プラトン主義の考え方を取り入れながら、「闇とは光の欠如である」、すなわち悪は善の欠如であると考えた。
また、悪は自分で決めたことだが、善は神が決めたことである、などとする論説がキリスト教神父的である。
キリスト教も参照のこと。
アウグスティヌスは、悪の起源を考える。悪とは、善の欠如であると考えた。
アウグスティヌスは新プラトン主義の考え方を取り入れ、光と闇の二元論を「闇とは光の欠如である」と考えた。
プラトンも参照のこと。
アウグスティヌスは、自分で決めたこと、悪は自分で誤ったことであり、善は神が与えたことだと考えた。
僕は、これは仏教の他力に繋がる考え方だと思う。悪は自力であり、善は他力である。自分の自由意志で行動することは悪であり、神の意志によって行動したことは善である。
そう、自分の不安や迷いから行動するのではなく、神を信じて、神の与えたものに感謝すること、それが正しいものごとの判断である。
後日注記:宗教には、「自分でしたことは悪だが、神を信じて行ったことは善である」と考えることがある。アウグスティヌスの言うこともこれに近いが、アウグスティヌスは「良いことを行った時は、それは神によるものであり、悪いことを行った時は、それは自分が行った罪である」と考える。このような考え方は、神を信じて生きていると誰もが行き着くものであり、「人間は自分の力では悪しかできないが、神を信じれば善を為し得る」と考えることができる。
僕が思うに、アウグスティヌスが「悪とは善の欠如である」と言った理由は、悪だけでは悪人だが、悪に善を加えると善人である、と言えるからだと思う。
何ひとつ悪をしない人間など、この世界には存在しない。
誰もが、子供から大人になる上で、必ず何かしらの悪をする。
だが、悪だけをするならば悪人だが、悪をした上で、それを打ち消すぐらいの善をし、悪に善を加えれば、それこそが善人である。
だから、「悪をまったくするな」と言うのは間違った道徳観である。本当に正しいのは、「悪を打ち消すぐらいの善をせよ」と教えることなのである。
今までの悪を打ち消すぐらい、本当の善を為した人間こそが善人である。だからこそ、悪とは善の欠如であると言える。これは僕自身の独自の哲学だが、アウグスティヌスの言いたいことがよく分かるような気がする。
2022.12.19
「告白」、など。