イスラム教の世界観(2.戯言)です。宗教の世界観や仏教の世界観とキリスト教の世界観も参照してください。
僕がイスラム教について個人的な見解を述べるとしたら、「おかしくなった人間を治す唯一の病院」だと思います。
イスラム教では、絶対神のアッラーに完全に服従します。すべての歴史上・人生上のことはアッラーによる導きだと信じ、一日に五回、メッカに向かって礼拝をし、断食などの教えを守ります。
僕は、イスラム教を信じることで、まず、自らの上に「絶対者」が生まれる、ということが、精神を治す上で重要だと思います。
おかしくなった人間には、誰かに従わざるを得ないということが分かりません。すべては自由であり、自分勝手ななんでもありが正義だと勘違いをしているから、おかしな人間が生まれます。
このようなおかしな人間は、時間も方角も分かりません。暴飲暴食をし、節度を知らず、酒を飲み、きちんとした教えを守るということを知りません。
確かに、砂漠では生きるのが大変だからイスラム教が生まれたのだとする説は一理あります。砂漠は過酷であり、絶対的なアッラーの教えに従って、時間と地理的な方向を覚えなければ生きられないから、イスラム教の教えがあるのだとする仮説には一理あります。
ですが、絶対神であるアッラーの教えに従い、「服従」することで、宗教にしか頼ることのできなくなった「救われるべき人々」が、まともな精神を取り戻すこと、「実際に救われるために必要なさまざまな訓練」を行う上で、イスラム教の教えは価値があります。
モスクで集団礼拝をする人は、まともな人ばかりではありません。宗教に頼るしかできない人間は、まともなことが分からず、自分自身に正しい「規範や規則」を与えるということ自体を求める人も居ます。そのような「神によってしか救われることのない人」をモスクで受け入れ、みんなでアッラーに跪いて礼拝することで、「あなたはわたしたちの仲間である」と示すことで、イスラム教徒たちは自分たちのアイデンティティを守ってきたのです。
多神教の神々を信じる宗教は、一見、一神教よりもストーリー性が高くて面白く見えますが、実際に人生を生きる際には、よい効果をもたらしません。
たとえば、僕は北欧神話の神々が好きだったために、フレイという神を信じました。
ですが、フレイは完璧な神ではないため、すぐにフレイという「器」が終わってしまいます。その結果、フレイ以外の「もうひとりの別の神」を作り出します。
ですが、このような結果、人間の「考え方そのものが分裂する」という悲劇が起きます。
考え方そのものが分裂した人間は、正常な認知機能を失い、まともな人間ではなくなってしまいます。
今まで、フレイという神の考え方が正しいと思っていたにもかかわらず、それがロキやフレイヤになることで、考え方そのものが変わってしまい、どのように考えたらいいか分からなくなってしまうのです。
そう、まさにこれが認知症の始まりであり、統合失調症や多重人格の原因です。間違った多神教の宗教を信じていて、一神教の神を信じていないのが原因なのです。
それが、一神教のイスラム教を信じることで、治ります。正常な認知機能が復活し、「ひとりの完璧な神」になることができた時、多重人格は治り、自らの頭脳を正常かつ自由自在に使えることができるようになります。
つまり、イスラム教を信じれば、認知症、多重人格、あるいは統合失調症すら治ってしまうのです。イスラム教の完璧な神は永遠であり、変わることがありません。そのため、自らも変わることがなく、永遠に同じまま、賢いままで居られるのです。
また、サタンの宗教や、無神論者はもっと意味がありません。なぜなら、サタンはそもそも最初から認知機能を否定しているからです。認知機能を否定した人間は、「認知症にも多重人格にもならない代わり、常に誰よりも馬鹿な人間になる」のです。これも、一神教の神を信じれば、「真に賢い存在とはなんであるか」を知ることができます。サタンが陥る「何をやってもこの世界に害のあることしかできない」という特徴は、神を信じれば「神によって真に善なることができる」ようになります。そして、それこそが正常な「人間」です。サタンではない人間は、「神を信じることで唯一この世界に対する善ができる」ようになります。
そう、そのような、この世界に存在する「精神異常の地獄」は、唯一神を信じることによって文字通り「救われる」のです。
アッラーに毎日五回の礼拝をすることは、決して無駄ではありません。
なぜなら、アッラーに礼拝をする習慣をつけると、すべての罪が赦され、奇跡的にすべての問題が解決するからです。
これは、いわば「地獄の最後に与えられた、神を信じるものに対する、奇跡の解決劇」です。
あらゆるすべての、今まで辛く苦しみ続けた「本当に解決してほしかったこと」が、アッラーに毎日五回の礼拝をすることで、奇跡的に解決するのです。
その解決を行うのは、ほかでもない自分自身です。ですが、この仕事は、自分一人だけでできる仕事ではありません。アッラーによる導きとアッラーへの信仰があって、はじめて可能となり、アッラーを信じるものに対して地獄の最後に必ず起きる「奇跡の回復劇」なのです。
神であるアッラーを信じて、毎日五回の礼拝を行いなさい。どんなに罪深き人間でも、神であるアッラーを信じれば、どんな問題も解決するのです。
イスラム教を信じてはいけません。
それは、イスラム教を信じた時点で、キリストに反逆した行為であると見なされるからです。
はっきり言って、僕はイスラム教を信じた時に経験するべきことをすべて経験し終えました。
その結果分かったことは、「間違った人生こそが正しい人生である」ということだけでした。
イスラム教を信じると、人生が間違った人生になります。ですが、この間違った人生は、イスラム教の神アッラーが考えると、真に偉大な「この宇宙における本来あるべき正しい人生」なのです。
ですが、イスラム教の教えを僕は好きになれません。その理由は、すべての教義が「僕という存在の否定」になっているからです。
イスラム教のコーランの教えは、よく読むとまったく間違っています。なぜなら、すべて僕の否定であり、僕のことを批判した結果言うべきことしか言っていないからです。
僕は、コーランの通り考えると、サタンであり、神に対する反逆者です。イスラム教は、僕のことをサタンであると信じています。僕のような、多神教を信じ、自らを神であると言うような、自殺未遂者は、忌み嫌われるべき「最悪の殺すべきクズ」であると、コーランはそのように教えているのです。
このようなコーランの教えを信じていると、本当は悪いことばかりではありません。神であるアッラーが、どんなに間違ったことをしても自分のことを守ってくれます。ですが、その「神が全部守ってくれる」ということが、逆に自分で考え自分で自分を守って生きるということを放棄することに繋がります。そして、キリスト教の教え、すなわちイエス・キリストは、そのような「盲目的に宗教だけを信じる自分で何も考えない人間」が大嫌いです。キリスト教では、きちんと自分の力で考えて、賢く生きる賢者のことを正しいと教えます。イスラム教を信じた時点で、キリストの教えとは正反対の人間になってしまいます。僕にとっては、コーランの教えよりも聖書の教えのほうが正しいと言えるでしょう。
ですが、本当のことを言えば、聖書もそんなに僕は好きではありません。ユダヤ人は、あまりに神のことを盲信しすぎています。神を信じるものだけが正義であり、ほかのものはすべて悪魔であると、旧約聖書の預言者は述べています。どれだけキリストひとりが善良な神であっても、ユダヤ人のほとんどは馬鹿であると言うしかないでしょう。
本当のことを言えば、僕は一神教が間違っていると思います。聖書の教えのような「神が絶対に正しい」とするのは、絶対的な唯一神を信じる一神教のせいだと思います。
よって、僕は一神教を否定します。ひとりの神という存在を、僕は信じません。僕は北欧神話の神々の名前を、日本神話の天照大御神のような、一等星の太陽神を指すために使いました。この神話のほうが、僕は正しいと思います。また、聖書やコーランの教義の内容よりも、僕の書いた独自の聖典の内容のほうが、賢い哲学的なことをたくさん教えています。
よって、僕の神話では、イスラム教やその他の一神教を否定します。僕がここまで偉大な人生を生きられたということに対する、神、アッラーに対しては感謝をしますし、その神のおかげで多くの奇跡的な解決がなされたということに疑いはありません。ですが、僕はこれ以上、一神教の神は信じません。アッラーという神は、ヒンドゥー教の神々と同じ、それぞれの神々のひとりに過ぎません。日本神話と北欧神話は矛盾しませんし、それらの神話と仏教の教えも矛盾しません。よって、僕は日本人として、日本神話と仏教、そして北欧神話の神々を信じます。キリストは嫌いではありませんが、真に正しい聖人はキリストではなくブッダです。宇宙に居るもっとも高い存在は神ではなく仏だと信じます。仏の教えはこの世界におけるもっとも正しい哲学であり、真に救われるのは仏の教えを信じたものだけです。僕は昔からそのように信じています。
2022.12.01