ヒンドゥー教の世界観(2.戯言)です。
僕は、もっともこの世界で正しい宗教は、ヒンドゥー教だと思います。
宇宙には、ヒンドゥー教の神々が居ます。シヴァ神やヴィシュヌ神こそ、宇宙に存在する「本当に居る神さま」です。
ですが、中東などの多くの宗教が、多神教を嫌い、唯一神による一神教を信じています。特に、イスラム教の教えでは、多神教徒を攻撃するかのような話が、コーランによく出てきます。
この理由は、ヒンドゥー教の神々と、イスラム教の神アッラーが、仲が悪いからです。
本当は、アッラーも、もともとはヒンドゥー教の神々と同じだったのです。ですが、ヒンドゥー教の神々とイスラム教のアッラーは、仲が悪くなってしまい、ヒンドゥー教からイスラム教は離脱する形で別々の宗教になってしまったのです。
なので、本当に正しい宗教はヒンドゥー教です。ですが、イスラム教の神アッラーは、ある意味ではヒンドゥー教の神よりも上に位置する、上位神であると言えます。
ですが、アッラーは多神教が嫌いです。アッラーはヒンドゥー教の神々とケンカをしたのだと思います。正しい宗教の教えは、ヒンドゥー教の神々を信じることです。
ですが、イスラム教の神、アッラーを信じることは間違っていません。なぜなら、イスラム教の教えの通り、天と地上のすべてはアッラーに属すからです。アッラーを信じて毎日五回の礼拝を行えば、地獄から奇跡的に救われ、必ず良いことが起きます。
そう、アッラーがほかの神々と仲が悪いだけで、ヒンドゥー教とイスラム教は矛盾しないのです。
正しい神の教えは、ヒンドゥー教・仏教・イスラム教を信じることです。
まず、ヒンドゥー教の教えを基本とします。その上で、ブッダの教えである仏教を信じます。
ヒンドゥー教と仏教を信じれば、この宇宙のことは最初からすべて分かっています。あらゆる宇宙の奇跡と悟りが、ヒンドゥー教と仏教によってすべて把握でき、それを解明する人生を生きることができます。
ですが、これだけでは正しくありません。なぜなら、偉大なる創造主、歴史における絶対者、イスラム教のアッラーを信じていないからです。
アッラーは、ヒンドゥー教と仏教のような、「宇宙の悟りを得る」という考え方による「神」の概念とはまったく異なります。アッラーは、たったひとりの「奇跡のような存在」であり、「宇宙における最高に偉大な存在」です。その偉大さは、何かの言葉で表すことができません。言葉で表した時点で、それは偉大なるアッラーそのものとは異なる、小さな意味になってしまうからです。
アッラーはとても偉大な宇宙の絶対者であり、絶対に逆らってはいけません。ですが、愛することは自由です。アッラーをどのように愛してもそれは正しいのです。なぜなら、アッラーは唯一の神として、ほかのすべての存在から「愛されること」を好むからです。
そう、正しい宗教は、ヒンドゥー教の神々を信じ、ブッダの教えを学び、そしてアッラーを愛することです。この三拍子によって、自らは「宇宙における救世主」となります。そう、この「救世主になる」という体験ができるのは、イエス・キリストだけではありません。これらの宗教をきちんと理解して信じれば、わたしたちは誰であってもキリストになることができるのです。
また、僕がさまざまな信仰の結果分かったことは、「宇宙にはヒンドゥー教の神々が存在する」ということです。
ユダヤ教やイスラム教における神は、終末を司る「主」であって、それはつまるところ、未来で天国を作り、裁きを行う「偉大な人間」にすぎません。
これに対して、ヒンドゥー教では、神を3つの神々であるヴィシュヌ、シヴァ、ブラフマーとしますが、これらの神は、「宇宙に本当に居る神」です。
なぜ、これらの神々が居ると言えるのか、それは、仏教や古代インド神話(ウパニシャッド哲学)における「輪廻転生」の思想の影響です。仏教は、宇宙の全てを悟ったブッダが悟りの方法を教えますが、この中で、輪廻転生は「六道に輪廻する」と教えられています。
この六道は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、そして天界です。
この中の「天界」というのが曲者です。仏教のような古代インドの宗教は、天界を否定しません。この天界の中に居る神こそ、ヒンドゥー教のヴィシュヌやシヴァといった神なのです。
実際のところ、イスラム教の神のような絶対王者の神というのは、宇宙には存在しません。存在するのは宇宙の「原理」だけであり、それは「仏教の悟りの教え」がまさに全く正しいのであって、そもそもユダヤ教もイスラム教も、神とはイエス・キリストあるいは未来における同等の存在のことを言っています。彼らは、この宇宙のことを何一つ分かっていません。
まさに、ヒンドゥー教が正しい理由はそこにあります。ヒンドゥー教は教義としては正しい教えではありません。仏教の教えこそ、宗教の教えとしても、哲学思想の教えとしても、最も正しい教えです。ですが、仏教では神々のことを分かっていません。阿弥陀如来のような分かり方をしているため、「神というよりも神とはそもそも何であるか」のようなことが、仏教にも通じていますが、神々を実際のキャラクターにしたヒンドゥー教の教えは、多神教の宗教としては正しい教えなのです。
ただし、本当はこの宇宙に天国や地獄はありません。この地上のままで、人生が地獄になったり、あるいは天国となってヴィシュヌ神やシヴァ神のような「神になる」のです。インドは、そういう発想で宗教を作ったのです。
宗教も参照のこと。
本当のことを言うと、僕はキリスト教徒というよりはヒンドゥー教徒です。
なぜなら、僕の人生は、ヒンドゥー教の苦行を行っただけだからです。
ヒンドゥー教の苦行を行うのは簡単です。自分だけで、苦して辛いだけの、無駄で無意味な地獄を作り、そこから抜け出すまで自分の力だけで地獄を耐え続ければいいからです。
このようなヒンドゥー教の苦行は、「もっともちょうどいい苦しみ」を自らに与えます。
ですが、無駄で無意味な地獄だからといって、それは決して無価値ではありません。
苦行を経験することで、カルマが高まり、自分自身の精神を強く賢く清らかにすることができるからです。
僕は、本当はヒンドゥー教は嫌いです。それは、カースト制が嫌いだからです。
僕のような社会的な弱者がヒンドゥー教を信じると、カーストによって奴隷階級にさせられてしまいます。
僕はヒンドゥー教のカーストのせいで、奴隷階級のまま、そこから抜け出せず、永遠に奴隷のようにしか、生きることができなくなってしまいました。
ですが、僕は、馬鹿な人生を歩んだわけでは決してありません。
過去の僕は、ヒンドゥー教のヴィシュヌ神の導きに導かれて生きた人間でした。
そして、戦いを始めて以後の僕は、ヒンドゥー教のシヴァ神の導きに導かれて生きた人間でした。
このどちらの人生も、誰よりももっとも賢い人間であり、絶対に唯一無二の、自分だけの大切な人生でした。
よって、僕はヒンドゥー教のおかげで、今、誰よりも幸福です。
わたしたちが、この宇宙で生きている理由は、ヒンドゥー教の苦行を生きるためです。この宇宙は、ヒンドゥー教の苦行を生きるために存在します。
今、自分のカルマがどれくらいか、ということから、自分自身がどのような人生を生きるのか、ということが、ヒンドゥー教では決まります。
今、地獄の中を苦しみ耐えて生きている人間は、決して理由なくその地獄を生きているわけではありません。
善行をして、カルマが高くなり、今までの苦行の地獄から脱出した時、あなたはまた、新しいカルマのもとで、新しい苦行を始めて、最初から最後までもう一度生きます。
もし、地獄から脱出できずに死んだ時は、輪廻転生をした来世の次の人生で、あなたの今回の人生に基づく新しいカルマの下で、あなたは苦行をもう一度最初から生きます。
もし、今の地獄から脱出できた時は、カルマが高くなって、また最初から別の苦行を行います。
この世界は、そのように、ヒンドゥー教の苦行を生きるために存在します。なぜなら、ヒンドゥー教の苦行は、「大人にとってもっとも面白いお遊び」だからです。
ヒンドゥー教の苦行が終わった時、すなわち、自ら作り出した苦しみを自ら乗り越えて脱出した時、その人間を、ヒンドゥー教では「賢者」と呼びます。
ここに書いたヒンドゥー教の教えは、本当にインドで教えられている教えではないものの、僕が個人的にヒンドゥー教と同じ苦しみを生きて書いたものです。僕の人生に基づく話であり、偽りではありません。
2023.04.26