フランスの王朝の世界観です。フランス3(フランス史)の世界観も参照のこと。
(図説 フランスの歴史 (ふくろうの本/世界の歴史)を参考に執筆しました。)
フランスは、さまざまな王朝があった。
メロヴィング朝、カロリング朝、カペー朝、ヴァロワ朝、ブルボン朝。
フランス史。
先史・古代・中世。
先史時代、ケルト時代、ローマ帝国による支配ののちに
メロヴィング朝フランク王国が設立し、ピピンがカロリング朝を開いた。
カール大帝が西ヨーロッパの基礎を築いた。
フランク王国はのちに分裂して、フランス地域では西フランク王国が支配した。
カペーがカペー朝を開いて、フランク王国は消滅した。
フランスは封建国家となり、諸侯および中小領主の分立割拠が進んだ。
城を拠点とする領主権力の確立によって、領地ごとの小主権国家が分立した。
カペー朝が断絶すると、イギリス国王がヴァロワ朝を認めず、百年戦争になった。
フランスはルイ11世からフランソワ1世にかけて、ヴァロワ朝が王権の拡大に努めた。
ルネサンス文化が花開いた。
近世。
アンリ4世によってブルボン朝が開かれ、ルイ13世と続き、
ルイ14世によって絶対王政が繁栄した。
フランソワ1世は1515年に即位したフランスのヴァロワ朝の王。
当初はピューリタンに寛容的な姿勢を見せていたが、息子のアンリ2世がメディチ家のカトリーヌと結婚すると、一転カトリックに転換し、プロテスタントを弾圧する。これがカルヴァン派の指導者カルヴァンのスイスへの移住を促すことになった。
一方で、彼の時代にはルネサンス芸術が花開き、彼自身も人文主義の教育を受けていた。そのため、国王の下にレオナルド・ダ・ヴィンチを庇護し、フランスに移住させた。
また、現在のドイツ地域にあった神聖ローマ帝国の皇帝カール5世はライバル的存在であり、フランソワ1世自身も神聖ローマ帝国の皇帝の座を望もうとするが、カール5世に阻まれる結果となる。
2025.12.07
ブルボン朝を開いた王はアンリ4世。アンリ4世によって、フランスの絶対王政の基盤は確立した。
アンリ4世は幼少の頃からユグノー教徒だった。国王への即位と同時にカトリックに改宗したが、その後もナントの勅令などでプロテスタントを保護した。
アンリ4世は、フランスではブルボン朝の王の中では特に人気が高いです。
そして、二代目の王はルイ13世。ルイ13世を補佐したのは宰相であるリシュリュー。また、幼年で即位したルイ14世は宰相のマザランが補佐した。
2025.07.09
2025.12.07編集
フランス史の中でもっとも有名な王は、「太陽王」であるルイ14世でしょう。
ルイ14世はブルボン朝でもっとも有名なフランスの王であり、「朕は国家なり」と述べて絶対主義的王政を行い、名実ともに近世のフランスの「シンボル」になりました。
また、彼の腹心の部下だった、コルベールも忘れてはいけません。コルベールによる重商主義政策がなければ、フランスの絶対主義政策は失敗していたかもしれません。コルベールがいてこその、ルイ14世の絶対主義だったのです。
後日注記:フランスの観光地として有名なのが、イヴリーヌ県ヴェルサイユにある、ルイ14世によって建てられたヴェルサイユ宮殿。代表的なバロック様式の建築物で、絶対王政の輝きが残されています。
2023.11.25
2025.07.14編集
15世紀末に大航海時代が始まってから、20世紀半ばにヨーロッパがアジアなどから撤退するまでの450年間は、「ヴァスコ・ダ・ガマの時代」と呼ばれる。この時代は、ヨーロッパは海洋勢力となって、アジアやアフリカを侵略し、植民地とし、軍事的かつ経済的な優位性の固持と、帝国主義の支配を行った。
特に15世紀末~17世紀にかけて、ヨーロッパは海洋帝国となって、海外を征服した。16世紀頃より、スペイン・ポルトガルからイングランド・オランダへと覇権が移り、後にイギリスとフランスは世界において極めて強大な帝国主義国家になる。この背景には、単に軍事的な理由だけではなく、経済的・商業的な理由がある。アジアには香辛料を代表に、砂糖、木綿、陶磁器、紅茶などさまざまな魅力的な商品が存在し、ヨーロッパはそれを奪い取るためにアジアに進出した。
フランスは17世紀半ばごろから植民地帝国を本格的に築いた。北アメリカ大陸やカリブ海の島国、あるいはアフリカやインドなどを植民地支配し、アフリカの黒人を奴隷として連行した。
2024.10.01
2025.12.07編集
以下に、フランスの王と大統領の一覧があります。カロリング朝、カペー朝、ヴァロワ朝、ブルボン朝のほか、ボナパルト朝のナポレオンやナポレオン3世、シャルル・ド・ゴールなども含まれています。
2025.03.23
昔の王様(中世の王侯貴族)は、悪い王様が多いです。
昔は、法治国家というものがなく、王様が法律でした。王様が決めることが正しく、王様に逆らうことはできませんでした。
なので、王様に謁見した庶民が、王様の機嫌が悪いせいで死刑になったとしても、それを受け入れなければなりません。「わたしはたまたま王様の機嫌が悪かったせいで死罪になった」といくら言っても聞いてもらえないのです。
王は戦争で人を殺します。自国の兵士を犠牲にして、他国の住民を殺し、時には他国から力づくで奪い取ることもあります。王の家族は、王位継承権で優位になるために、兄弟で殺し合うのが普通です。
ドイツの騎士道文学である「ニーベルンゲンの歌」にも、そのような、王や王子が敵対国に乗り込んで姫を奪い取ろうとする有様が良く書かれています。
そのような中で、「君子は悪徳を行使すべきである」と述べたのが、イタリアのマキャベリです。
マキャベリ曰く、政治と道徳は切り離して考えるべきであり、王や権力者は道徳的な道義を守る必要はなく、いくらでも悪徳を行使すべきだというのです。
そのように、昔の王侯貴族はとても悪かったです。フランス革命によって市民がギロチンで王侯貴族を処刑して殺したのは、悪いだけではなく、特に時の王であるルイ16世が無能だったからでもあります。フランスの民衆社会は市民の不満や怒りが爆発し、フランスのユーゴーの小説「レ・ミゼラブル」では、「パリは火薬庫」だと表現されています。
2025.06.16-17