ずばり、僕の精神は、トリップすることで治った。
僕のような、精神が限界まで動き続けて死ななくなる病気は、トリップすれば治る。
子供や、普通の健康な人間は、なんの制限もないため、限界まで辛くなるとすぐにトリップする。だから、このような病気にならない。
だが、大人がおかしく狂うと、「トリップすることができなくなるような制限」を自ら作ってしまう。
そのせいで、そのような大人は、いつまでも限界まで辛い中を全力で耐え続け、辛い精神がいつまでも動き続けて死なない状況に陥ってしまう。
そのような人間は、トリップすることで、精神がすぐに治る。
僕も、きちんとトリップすれば治るということが分かったため、精神の異常がすぐに治った。
このまま、僕は昔の少年時代と同じ人格に戻る。本来の知性ある、「頭の切れる少年」に僕は帰る。
この宇宙に存在するものが、真になんであるか、ということを考えれば、昔の僕のように、宇宙における存在の可能性と変化が分かる。
そもそも、小説のキャラクターや神話の神などは、すべて人間が作り出した「作り物」にすぎない。
宇宙において、そのようなキャラクターや神々が、最初から存在したわけではなく、小説や神話の中だけに存在し、宇宙にはそんなものは存在しない。
哲学者ヒュームが「鳥の翼と赤ん坊を一緒にした天使のような複合観念はペテンである」というように、フィクションの存在はそもそもが嘘であり、読者のことを騙しているだけにすぎない。
だから、そのような「誰かが作ったもの」ではなく、「宇宙に最初から存在している理」を信じることで、宇宙の存在がなんであるか、ということを直観的に洞察し、分析することができる。
そして、それこそが、僕の追い求めている「哲学的な知性」なのである。
今日のデザインの職場で、僕は休み時間に、野球のニュースに関連して円安のニュース記事を見ていた。
今の日本の円安は大変なことになっている。
経済に関心がなく、日本国内だけを見ていると実感しないが、海外でものを買ったりすると、その価格が円に換算してあまりに高額になってしまう、ということが今起きている。
そのようなニュースを、Yahoo!ニュースで見て、ヤフコメ(ニュースのコメント欄)を読んでいた結果、僕は経済についてもっと知りたい、学びたいと思うようになった。
僕は30代でありながら、政治経済のニュースをあまり見ていないため、経済のことがなんにも分かっていない。
だから、経済の本を買って読んでみようと思った。
だが、僕の偏見かもしれないが、政治経済の書籍には、極端な論調の本が多いと思う。中には「本当にそんなことを言っていいの?」というような本も存在する。
だから、父親に、「経済のいい本はないか」ということを聞いた。
すると、父親は、「池上彰がいい」と言っていた。
だが、僕は池上彰が個人的に好きになれない。
池上彰の本は、何冊か途中まで読んだことがある。このホームページにも、池上彰の書籍を参考にして書いた文章は多い。
だが、僕は、池上彰の本は、普通すぎるとことがあると思う。
すなわち、「普通の人間が普通に分かっていることを普通に教えている」といった本が多いように感じてしまうのだ。
だから、僕は個人的に、池上彰の本は読みたくない。池上彰は僕は嫌いなのである。
だから、もっときちんと分かる本を読みたい。僕が池上彰ほどに分かっているというわけでは決してないが、池上彰は僕とよく似ているところがあって、「何かをみんなよりも分かっているわけではなく、普通の人間並みに分かっているだけにすぎないのに、なぜかみんなに先生のような姿勢と立場で教えている」というところがあって、僕は好きになれないのである。
僕は、日本人は、もっと「心理学的な支配」について考えたほうがいいと思う。
社会において、心理学の占める範囲というのは、僕は本当はとても多いと思う。
たとえば、国家や社会がいい国家、いい社会になっているかという実感は心理学的なものだし、政権を支持するか支持しないかという感覚も心理学的なものだ。
人々が働くか、ものを買うか、ということにも、心理学が大きく関係する。
そして、「このような政策をするから同意しなさい」ということも心理学だ。心理学的に促すことで、そうでなければ絶対に支持されないような革新的政策が、心理学を使うことで劇場的に合意を得られるということはあると思う。
特に、左翼が革新政策をする上では、僕は心理学はとても重要だと思う。
ソ連が間違っていたのは、ソ連のやり方が間違っていたのもあるが、一番間違ったやり方だったのは「心理学的な導入政策」だと思う。
あのように、強制力と恐怖を使って、独裁的な革命権力を使ってしまったせいで、ソ連は軍事主義的な「反動体制」の国家になってしまった。
そうではなく、もっと心理学的にきちんとした平等な社会を作るのだということをありありと分からせるようにすれば、国民もきちんと自由な中でソ連を支持できたのではないかと思うし、それでこそ、楽園のユートピアを築けたのではないかと思うのだ。
学校でいじめが起きるのも、心理学的な要素が大きい。子供たちは学校という閉鎖的な環境に強制的に押し込まれてしまっているせいで、「学習することに対する夢や希望」を感じられなくなっている。だから、弱いものいじめをして、少しでも自分が力強く自由であるのだということを誇示しようとする。本当は、みんなで勉強して学習することを真面目に楽しめばいいのに、心理学的にそれができないから、いじめの社会構造を作ってしまうのである。
社会をよくする上で、心理学はとても重要である。心理学は直接意志や行動に作用する。もし、心理学をなんにも考えなかったとしたら、この世界を神や救世主のように救うことも、絶対にできないだろう。
また、僕はこの世界を考える上で、「背景やバックグラウンドを考える」ということはとても大切だと思う。
なぜなら、この世界には、対象を見るだけでは分からないようなものがたくさんあり、その中には悪意を持って作られたものもあるからだ。
対象だけを見て、それが完結しているように、僕たちはこの世界で錯覚してしまう。
だが、その対象を作り出すためには、たくさんの人の行為と努力があり、そこにはたくさんの意図がある。
そして、その意図の中には、この世界を破壊してやろうとか、人々のことを騙して奪ってやろうとか、そういう、「悪意ある意図」が含まれていることがある。
そして、そのような悪意ある意図と無縁でいられない社会になった原因は、インターネットである。
インターネットには、そのような悪意ある意図のあるものがあふれている。たとえば、「無料ですから手軽に使ってください」とされたものが、実際は全然善良ではなく、個人情報を奪っていくようなサービスもインターネット上には多く存在する。詐欺のような広告には、対象だけを見てもそれが何を意図してそのように宣伝されているのか分からないものも多い。
だからこそ、騙されないために、「対象を作り出した背景となるバックグラウンドの情報」を考えることが、必ず必要なのである。
小説や映画のように、物語性のある作品には、「起承転結」を考えることが重要である。
そして、起承転結を考える上で、「承」を考えることが僕は重要であると考える。
承を考えると、それだけで物語が面白くなる。
起承転結において、「起」は問題提起をする部分であり、「このような問題がある」ということを読者に最初に伝える部分である。
「承」は、そのような問題がなんであるか、ということを、客観的に説明する部分であり、「この物語がどのような意味を持っているのか」ということを分かりやすく全員にありありと分かるように解説する部分である。
「転」は、僕が考えるに、「答えへと導く」部分である。すなわち、問題に対する「具体的な結論へ繋がる解法」を示す部分が、「転」に当たるのである。すなわち、「転」の部分で、必ず物語が終盤へと向かうように、その方向性へと導かなければならない。
最後に、「結」は、実際に問題が解決する部分である。「転」で生じた問題の具体的な解決を実際にその物語の世界において、行動に移し、「最終的にその世界がどのような結論になったのか」ということを結論付ける部分である。
そう、物語だけではなく、解説文章や論文など、すべての「言葉による作品」が、このような起承転結に基づいている。
僕は、この中でも、「承」を面白くすることが重要だと思う。なんなら、物語の70%が「承」に当てられていても僕はいいと思う。「承」では物語に登場するすべての場面とキャラクターを説明し、その物語がどのような物語なのかということを方向づけ、物語の世界観をありありと伝える。
そして、残りの30%は、「転」に当てるべきだ。なぜなら、「転」こそが「面白い部分」だからだ。「転」が一度起きると、物語が「楽しい物語の独自の世界」から「ハラハラドキドキするようなイベント」へと変わる。この30%のほうを読者は物語の本質であると強く認識するだろう。
だが、実際の作家がきちんと力を入れて書くべき部分は「転」よりも「承」の部分である。物語の骨格を決めるのは「承」であり、「転」はその中でどのような運動を手足が行うか、ということを決めているにすぎないのである。
僕は、間違っていました。
悪いのは、全部僕です。
この世界が絶望の世界になっているのも、母親が狂っているのも、全部僕のせいです。
全部僕が悪いのです。
だから、僕はこれ以上、この世界に対して何もしません。
ですが、一点だけ、文章を書き続けることを許してください。
僕が残りの人生を楽しく生きるために、文章を書くことだけ、僕は唯一行い続けます。
ほかに僕は何もしません。
僕はこれ以上悪いことをしません。悪いのも間違っているのも僕ひとりです。すべては僕のせいです。僕はこれ以上、この世界に対して何もしません。
僕は、これからの残りの人生で、「自分自身を作る」ということを行いたいと思います。
賢い自分自身を作ることができれば、僕はやっとまともな賢い人間になります。
今までの人生は、すべて間違っていました。一見賢く見えて、実際の僕は何一つ賢くない人間です。
それは、僕は「自分自身を作る」ということを行わなかったからです。
そもそも、僕は作家になどなりたくなかったです。執筆活動は、すべてマスコミやみんなのことを滅ぼしていじめているだけにすぎません。
だから、僕は作家にはなりません。
僕が怖かったのは、「辛いことが分からないままに進行すること」です。
自分で気付かないまま、辛いことや悲惨なことが進行すること、それが僕の恐怖の対象です。
ですが、逆に言えば、辛いことに気付かないままそれが終わってしまえば、何も辛く苦しいことを体験せずに、僕は楽に生きることができるのです。
もう、恐怖は忘れます。そもそも、もう僕の状態は再起不能です。これ以上、何があっても僕はこれ以上のことは何もできません。よくなることもなく、悪くなることもありません。
ですが、悪いのは全部僕です。本当に、申し訳ありませんでした。