人間は、その人の立場、環境、状況において、その制限された環境でせいいっぱい生きている。誰にも相談できない中で、不安を感じ、孤独な中、努力している。
人間は、「同じ状況におかれた人間は同じ行動をする」と僕は知っている。
そして、立場や環境の制限の中で、「そうせざるを得ないからそうしている」。決してその人が悪人であるわけではなく、関係性や強制などの中で、その人はその人なりに正しい人生を生きている。
人々を救うためには、誰かひとりが、そうした「環境や立場による制約」から離れたところで、この世界の可能性を自由に考えなければならない。
だが、当たり前のことを疑いながら、自由を考えれば、この世界は可能性に満ちているということを、己の経験に裏打ちされながら、自分の本当に望んでいる環境を自分が創り出せるようになりながら知ることができる。
だが、言っておこう。あなたの望みが100%叶うような、そんな答えは無い。この世界には、そんな都合のいいものはない。あるのは現実をどのように捉えるか、ということのみである。そこから、この世界は理想的な環境にすることができる。
まず、「何をどうしたいのか」をはっきりさせなさい。そして、「そのためにどうすればいいのか」を考えなさい。そして、「本当に必要な回答は何か」を考えなさい。そこから、「自分がどうしていくべきか」を考えなさい。
そう、僕はこの世界の全員のリアルな世界とは離れたところで、この世界の全てを自由な経験から知った。そこにあるのは「人々に対する慈悲の精神」だった。人々がなぜ、どのように問題に陥っているのか、その解決方法は何かを、僕はひとり、自由に知っていた。そして、不安をどのように解消すべきなのか、僕は「世界とは離れた、停止した場所」で知っていたのである。
僕は、実体験と問題の解決から分かる、「社会進歩の段階」を知っていた。おそらく、この世界は放っておけばそうなるだろう、ということを僕は全て分かっていた。そこから、僕は宇宙生命・宇宙精神のような「どこかの星の歴史」を記述した。それは「永遠の弁証法的な絶対進歩の段階」であり、「肯定でも否定でもない、個別性と普遍性の融和した絶対論理」だった。
そう、僕は「地球の歴史の必然的な進歩の未来」を全て、段階的に知っていた。だが、本当はそうはならなかった。劣悪で不純な心を持った昔の日本社会を僕は完全に作り変えた。もう一度、まっさらな精神を持てるように僕はこの地上を導いた。この世界は、まだまだ変化の過程にある。僕が全てのパターンを知っている。僕が、支配者にふさわしい。
よく反省し、よく想定し、よく分析し、よく学習しなさい。自分から、「自分を変えていく過程」を知っていこうとしなさい。そのためには、この世界の正常な営みを、インターネットと付き合いながら、知っていきなさい。同時に、インターネットには最初から何もないことを、よく分かっておきなさい。コンピュータなど、ただの機械にすぎない。そこらへんにある扇風機と何も変わらない。そんなものは、賢くない。アメリカ人は、皆、IT技術にだまされている。IT技術など、分かってしまえば誰でも作れる。
全てのことを、自分から「なる」ことで分かりなさい。そこに、人々の愛に「なれる喜び」が存在する。どんなものにでもなれる可能性が、この社会をどのようにでも変えられる世界の可能性と創造性に繋がる。あらゆる全ての世界は正しい。あらゆる全ての体験は、自分のためになる。だが、「一度傷ついてしまえば、元には戻れない」。そうした「越えられない一線」にだけ警戒しながら、勇敢にこの世界を変えていきなさい。手段と機会の「チャンス」を増やすことで、この世界はいくらでも変えられる。
そもそも、支配者など必要ない。支配者、という発想は、必ず民衆と権力者の間で軋轢を起こす。たとえば、自由な民衆は政権に批判的なことも言うが、支配者から見ると、そういう意見があることはとても恐ろしく、怖い。だから、権力者は独立系のメディアやジャーナリストを弾圧する。だが、民衆から見れば、何も言えない社会になってしまう。問題は、現代のメディアの無責任さにもある。新聞社やテレビは、民衆が見るだけならばいいが、政権与党の関係者から見れば危険そのものである。こうした背景から、独裁者は必ず強権的になる。だからこそ民主主義と自由が必要である。権力者は民衆の代表でなければならない。そして、民衆と民衆が分断されることがあるべきではない。
そのように考えると、むしろ、自由には可能性と同時に、その「影響範囲」があることに気付く。本当に民衆が自由であるためには、自分たちの意見が自分たちの間で共有でき、自分たちの関係する社会は自分たちの自由にできる必要がある。これは「コントロールの自由」であり、このために、共産主義のような「共同体」が力を発揮する。小さなコミュニティが、それぞれの間で社会資産や権利を共有する。そのことが、結果正しい自由を生み出すのである。自らの社会を自分でコントロールできることは、左翼だけではなく、右翼でも共通である。右翼はヘイトスピーチを行うが、そうしたレッテル張りをしなくても、それぞれの共同体が自由であれば、多様性が生まれ、メディアは自らの影響力になり、自由な独立した主権とコントロールを取り戻せる。
だが、一切のものがそれぞれの好き勝手でいいわけではない。そのせいで、社会はどんどん狂ったものになっている。そもそも、「民衆の代表」ということが言えるのは、「民衆に共通した文化」、すなわち村や市の間で共有される「共通コミュニティ」がある場合に限る。今の世界、金と資本主義は世界をどんどん分断し、コミュニティの大きさは小さくなっている。それぞれの家族や個人が「自己責任という名の強制的な諦め」を強要されている。このような社会では、民主主義は機能しない。村のようなコミュニティは無くなり、人々は「愛国心と経済成長という漠然とした共通の帰属意識」を持つだけになっている。インターネットはそれをもっと大きな問題にした。人々はネット上で自分の悪い噂を拡散させられる。消したい情報も、見せたくない秘密も、ピュアも正義もあったものではない。
そう、民主主義の理想は、ここで終焉を迎える。必要なのは、「モダンな民主社会主義」であり、僕たちは民主社会主義によってしか、自動車や石油燃料を無くすことも、環境を守ることも、共通のコミュニティや帰属意識を持つこともできない。だが、ソ連という「問題児」がかつていたせいで、それはおおっぴらに宣言することも、主張することもできなくなった。共産主義は、特に特権階級や資本家の財産を再分配するために、「くそまじめな独裁主義政策」を行い、ものが不足し誰も働かない「生産様式の破綻した計画経済」を作った。ロシア人は、完全に大失敗をした。
結果、温暖化によって僕たちの美しい星である地球は、危機に瀕している。ここで、人間の歴史は終わりである。なぜなら、今からはインターネット上で人々が「誰か個人の策略によってひそかに導かれ、促される社会」になるだろう。彼らは支配されている自覚も無い中で、インターネットでこの世界の「共通の常識」を支配し、人々は「全てを自分のせいだと感じる洗脳」を受けている。
もう、僕たちは終わりである。もう一度、昔の王国に戻るしかない。そもそも、産業革命以後の全ての文化の発展が悪いのである。一度、昔の中世の王国に戻り、江戸時代の文化や宗教的慣習に戻るしかない。科学は地球を良くすることなく、地球の全てを破壊した。学校は、知性を与える場所ではなく、知性を奪う場所になっている。この世界は滅亡する。そして、最初に戻って、もう一度再生するだろう。
自由と平等の永遠のテーマは「労働をどうするか」である。そもそも、自由な労働が保証されていなければ、自分の自由な職業に就くこともできず、働いた量に応じて給与を得ることもできない。自由とは「みんな自分の意志で自由に働く」ということだが、そこにある前提は「自分の自由な仕事を選択できる」ということである。そして、多くの場合そのベースになっているのは「金」である。金が得られるから働く。金があるから働いてもらえる。これは美しい原理に見えて、実際のところ、金持ちは何にもしなくてもみんながやってくれるのに、貧乏人は奴隷のように働かなければならない。だが、そこで平等というのは「短絡的」である。自由を守らなければ、会社としての存在価値も無くなり、ものも十分に得られなくなり、いくら働いても働かなくても同じ給与になり、集団農場で農業を強制され、私有財産も得られず、自分の自由な職業に就くこともできず、国から自由な文化や価値あるものや言論などの権利も無くなってしまう。だからといって、行き過ぎた自由は「一部の人間を奴隷のようにこき使う」ようになる。経済発展のために、環境を破壊する。環境の破壊とは、自分たちの住む場所がなくなるということである。自分たちの住む場所を失ってまで、社会が技術的・経済的・資産的・国家的に発展しても、全く意味が無い。
そう、どうすれば良いか、人間の理性では解くことができない。この問題は数学上のどの難題よりも難しい、永遠の「自由か平等か」という論理である。
そもそも、社会が豊かになりすぎ、ものが増えすぎ、そしてテクノロジーが進歩しすぎたのである。IT技術のようなテクノロジーは、まったく人類を幸福にしていない。一部では、「テクノロジーが進歩すればするほど、人類は不幸になる」と言われている。これ以上の過度のテクノロジーは必要ない。IT業界になんか、入らない方が良い。入ると終わりである。
未来の人類に必要なのは、環境を保護する技術と、自然に調和した生き方の追求である。これ以上、地球環境を破壊してはいけない。本当に住むところや生きる場所がなくなる。自然に調和した生き方をすることで、健康的になれるし、幸福度合いが上がっていく。これから必要なのは、アメリカやヨーロッパのような民族性ではなく、ブータンのような民族性ではないか。ブータンは国をGDPのような経済規模で測るのではなく、幸福度で測った時にNo.1になった国である。ブータンの国王はかつて立派な演説をした。