新・日記2に戻る | 2019年6月の日記に戻る

=2019-06-17=

私の名前はフレイヤ。この世界で、とびぬけてもっとも美しい美少女のような女神。

神を唯一一人の神としたことについて、ユダヤ人の言いたいことは分かる。確かに神とされる人物は本当は一人だろう。だが、僕はフレイヤやヴァルキリーが居なければ、つまらないと思う。

ユダヤ教は、言ってしまえば、宗教の失敗作である。物語をやめて、宇宙とイスラエルの歴史そのものを讃えるが、全くダメな発想をしている。正しいのはギリシア・ローマ神話である。

精神を治すためには、感じるのをやめること。感じていると、いつまでも辛い精神が生き続ける。感じなくなることを恐れるな。疲れを感じない人間はすでにはるかに昔である。ここからは、以前のように感じなくなれば、すぐに悪い精神が死ぬ。

人間は、分裂すると頭が賢くなる。だからといって、分裂しすぎるな。分裂すると、トラウマが増え、心が死んでいく。分裂を繰り返す人間は、最後に、分裂する部分が死んで、馬鹿になる。

そして、僕はこの世界をもう一度蘇生する。最後に、全ては正常になる。もう、この世界は終わりである。無限大の夢が終わって、何もない世界になる。

人間の狂いのほとんどは、「感じなくなること」で治る。馬鹿は感じすぎている。感じなくなれば賢い人間になる。それだけで馬鹿の病気が治る。疲れすぎるのは、疲れを感じようとするからである。

心の中の、必要のなくなった束縛を消していきなさい。必要のない「守り神」は殺しなさい。そう、それだけで狂っているほとんどは治る。あなたはもう、完治する。その勇気を持ちなさい。

要するに、自己を防衛する「自己防衛反応」が過剰に強くなっているのが狂った人間である。そして、それは自分が今危険なことを分かっていないからである。危険がどこにも無いことを確かめれば、それだけで治る。誰も自分のことを殺したりしない。ここに居るのは仲間だけである。裏切り者はどこにも居ない。それが分かれば、自分が自分自身を裏切っているおかしな巨悪も心の中から消え去るだろう。

要するに、「もしこうだったら、こうなるかもしれない」という心配や不安の大きい人間がこうなる。だが、本当は、そうなることはない。

雨は確かに降りやまないかもしれない。秋の台風のような嵐は、全てを飲み込んで豪雨を押し付ける。いつまでも、それは降りやまない。だが、時が来て、冬が来ると、神は雨をそのまま雪へと変える。一面は銀世界となり、あたりは全て覆い隠される。そこに、足跡は自分のものしかない。そして、その美しいひとりだけの世界が、時が過ぎて春が来ると、雪が解けてそこにあった草花が見える。その時、はじめて、大雨はそれら草花を育てるためにあったということを、人々は知る。雪に覆われていたたくさんの色彩がそこに映し出される。そう、これこそ、神の業である。大雨と純白が嘘のように、その時、はじめてその雨が降っていた成果と意味を人々とともに共有できる。

心配を忘れることは、難しいだろう。時が来れば、必ずその心配は別の形であなたを勇気づけ、次なる人生の高見へとあなたを運ぶだろう。

自由の問題とは、どんなことが起きてどんな結果になっても、「それは自由な結果だから正しい」とすることである。

格差が生まれても、「自由な市場経済の結果だから正しい」とする。不当な人間に支配されても、それは支配される自分が悪いことになる。給与が低くても、生活できなくても、それは全て、自由な結果だから正しいとする。

これは、間違いではない。それぞれが努力し、みんなでルールを受け入れた結果なのだから、そこで起きる全てのことは「自由な自分の行動の結果」なのである。

助けてくれる人が居なくても、誰もが同じように平等に努力しているのだから、その結果を自己責任で受け入れろと言う。

ただ、僕が思うのは、「助けてくれる人が居ても良いのではないか」ということである。国や政府や役所の判断で、経済を自由にするだけではなく、社会的弱者やマイノリティをもっと助けてくれるような人が「もし居てもそれは害にはならない」と思うからである。

確かに、自由を奪って社会主義経済をやったとしても、「劣った経済になって市場経済よりも失敗する」とは言えるだろう。だが、自由に任せて成功するとは言うが、それは一部の人間が勝者となって成功しているだけであり、格差社会における下層の人々は、自由経済であっても悲惨な経済格差を垣間見ているのである。それならば、勝者が楽にはならないかもしれないが、「一律で平等な経済」が行われても、僕はある意味「弱者の勝利」として成功するのではないかと思うのである。

ただ、本当は社会主義経済を本気でやれば正しいとは僕は思っていない。それは、生産や労働のモデルとして、「本当に社会主義の方が劣っている部分もある」からである。たとえば、ソ連では消費者の食糧や日用品を満足に作ることができず、店にある商品は安いのだが十分な量が確保できなかった。これでは、「弱者が見ても失敗」なのである。

本当は、社会主義が本当に成功するためには、さまざまな社会施策をしなければ、「どんな社会主義ならば成功するのか」ということは分からない。それをして経済が破綻するくらいなら、自由経済で他国に勝った方が良い、という意見が多いのは当然である。だが、「自由な結果が全て正しいのである」とする自由経済は、少しおかしいのではないかと思う。「自由だから全て正しいのであれば、結局何をしても全部正しいことになる」からである。勝者は正しく、弱者は自己責任、それが自由な社会である。そもそも、自由主義者は、この世界全ての現象を正しいと思っているのではないか。正しい現象もあれば、間違った現象もあるのである。そこに意見し、自分を陥れるものに反抗するのは、むしろ、「弱者にとっての正常な自由」ではないかと思う。ただし、その「弱者にとっての自由」も正しいとするのであれば、それは本当に、自由を「論理的に正論化」することはできるだろう。弱者にも自由が許されているから、自由が正しい。だが、これはつまらない「自由のレトリック」である。

僕が思うに、日本は「良い国」ではあるものの、「正しい国」ではない。欧米諸国に比べて女性の社会進出が遅れているとか、あるいは死刑制度が今でも残っているとか、そうした日本特有の問題は、多くが「偏見と思い込み」に満ちていて、聖書を信じる国のように、「正しい制度を目指す」のではなく、「みんなの考える良い国を目指す」国になっている。そう、僕は女性については平等にすべきだと思うし、死刑制度も廃止すべきだと思う。それは、その方が正しいからである。「正しい」ということを、狭く思い込みに満ちたものだと思うかもしれない。だが、正しさを追求することは、社会を発展させ進歩させるよりも上のレベルのことではないかと僕は思う。社会を発展させることよりも、制度を正しくすべきだと僕は思う。それこそ、良い社会になっていくための「原動力」ではないか。日本では、正しい社会、というのはあまり説得力を持たず、「みんなが考える良い社会」というのに重点を置くため、多くの分野で正しさよりも現場主義的な「有用性」が重視される。そう、自由を追求すると、そのような「間違っていても当事者にとって良ければそれで正しい」となってしまうのである。これが必ずしも間違っているわけではない。そこから優れた日本特有の文化がたくさん生まれているからである。

ただ、このように言ってしまうと、それぞれが自由にする範疇がなくなってしまうと感じられるかもしれない。だが、それはそうでもない。それぞれの自由は正しい社会を築く上で大切である。だが、自由放任にすれば良いというものではない。自由には愛と自立が必要である。それぞれの社会が、それぞれの努力と正しい営みによって、維持されることは、自由な社会において共同体を築く上では大切な考え方である。だからといって、放っておけば良いというものではない。指導者がきちんと監督して、社会が滅びるようであれば、その社会をきちんと支配して統一しなければならない。そうしたこと全てを「不自由」だとして拒否するのは、結果として住みやすい社会を生まない。それが、僕の考える「正しい社会」であり、多くの意味で、バランスは大切である。

いくつか、市場経済に反することを言っておこう。競争など必要ない。競争は多くの意味で、社会を間違った低コストの劣悪な労働環境を生んでいる。それから、非正規労働や働く多様性は必要ない。国民は多様性を望んでおらず、みな、平等で正しい労働条件を望んでいるからである。そして、格差は国が是正すべきである。それくらいを言っておこう。若者の声はもっと聞くべきである。若者は大学で学ぶために多くの学生ローンを払い、低賃金で非正規で働いている。だが、若者だけの声を全員の声のように聞くことは望ましくない。それは、若者に豊かな教育環境を与えることとは矛盾せず、また高齢者が甘い汁を吸うことには繋がらない。そもそも、大人が馬鹿なのである。大人をもっと賢くして、「若者よりも長い間生きているからには、それなりの多くの知識と経験を持っている存在」であるようにしなければならない。大人たちが、若者の環境に対してもっと耳を傾け、若者が若者だけの社会を作って苦しむのではなく、「大人が若者の社会に介入できるぐらい、大人たちが賢くなる」ことが必要である。それができたとしたら、その上で大人たちの意見をもっと聞くべきである。若者に選挙の参加だけをさせて、若者の方が大人よりも社会において賢いかのようにしていくのは、間違っていると思う。