新・日記2に戻る | 2019年4月の日記に戻る

=2019-04-20=

治る方法が既に分かっているのに、治さないのがおかしい。自分の知っている治る方法の通りすれば、精神はすぐに治る。

僕は、文章を書き続けることにした。文章を「やめるのをやめる」ことにする。

執筆、デザイン、ピアノは続けようと思う。

死んでも意味がない。死んだ人間の文章は、誰も読まない。

死ぬことなしに、最後まで生きて、最後まで文章を書けば、そのうち読まれる。

だが、大量に書くのは疲れる。だから、毎日少しだけ書き続けたいと思う。

実を言うと、このことを思ったのは、「書かないと無料ホームページスペースに広告がでる」からである。

昨日は、心理学について勉強しようと思って、放送大学の教育心理学の授業を少しだけ聴いていた。

教育心理学は、とても賢い学問である。人間がどのように賢くなっていくのか、知性の発展からどのように分かっていくのかを考える。

そこで教わった内容を少し書くと、人間には3つの「自ら賢くなる」方法がある。1つは、自分で経験すること。1つは、教えてもらうこと。そして1つは、反省して、自分を変えていくこと。

昔の自分の文章は、まさに、そうした心理学的な知性を書いていただけである。心理学をやっていると、病気が治るだけではなく、昔の自分のような哲学者の方法論が分かる。

心理学は、病気を治す学問だとか、行動や認識を考える学問であると思っている方が多いと思うが、実際は発達や成長を考えたり、人がなぜ問題を起こすのかを考えるなど、「社会的な心の作用」を考えることが多く、経済学や哲学と重なるところがある。

僕は、心理学について勉強したいと思う。そして、執筆とデザインとピアノだけは、続けたいと思っている。

そう、本当は心を書いただけだ。いついかなる場合に心と環境がどうなるか、人間の心がどのように発達していくかを書いた。自分は、心理学に特別向いていると思う。経済学には向いていない。むしろ、心理学をしていると、この世界の人々の心が分かる。経済学は、心理学から始めれば、すぐにできる。経済も一種の、人々は儲かることをする、という名の心理学に過ぎないのだ。消費者心理も心理学であり、社会問題も心理学である。心理学が僕にとって、正しい学問である。心理学をすれば全て分かる。何より、自分は明らかに統合失調症である。心理学をするしか、治る道は無い。

僕の経験から言って、狂った人間を治すには、芸術をさせるのが良い。統合失調症が芸術をやると、天才的才能を発揮して、病気が治る。それは、なぜなら、賢いからである。統合失調症は、全てのことを自分なりに分かっているから、この世界が必要ないから馬鹿になる。芸術はそういう人間にぴったりである。絵の具が使えないなら、Adobe製品が良い。そういう人間はコンピュータ操作に向いている。

あとは、狂った人間には英語が良い。英語は馬鹿な方ができる。英語をやっていると、正常な精神になれる。

そもそも昔は、環境における人々の行動がどのようになるのかを考えて、思考から矛盾を捉えて分かっただけである。あとは、ネットを見ていただけ。そういう昔は、もう忘れた方が良い。心理学をやれば自分は復活する。もう一度賢い人間に治ることができる。それで、終わりである。昔は、世界の広がりが分かるから、楽しかった。今も同じように、勉強しているから、世界は広がっている。もう一度、同じようにやれば良い。もうできる。

もっと、心理学的なことを考えたい。

心のありようを考えること。心の中にどんな精神があるのか、心の裏にある心とは何なのか、自分の何に原因があってその経験的な認識が生まれるのか、それをするためにはどのように学習する必要があるのかを考え、行動がなぜ生まれるのか、どうすれば発想できるのかを、前提となるさまざまな心理現象から考えること。

また、心理学が良く分かると、社会についてのことも良く分かる。

民主主義は、金、契約、進歩、平和、そして世界の移り変わりである。金と契約は、自由と雇用を生み出す。民主主義を追求することによって、民主的な社会となり、民意に委ねることで犠牲や戦争は起きなくなり、またみんなでルールを裁定し、競争から新しい技術を作ることで、社会は進歩していく。そこには、結果の積み重ねと新しい答えを発見する、という「心理学的な進歩」も存在する。

ただし、民主主義における問題として常にあるのが、「強硬派と穏健派をどうするか」という問題である。右翼は、民主主義の政党であり、ドイツ人のように荒廃した社会における、「最後の希望」である。それをどうするか、という問題が付きまとう。これは歴史上だけの問題ではなく、イスラエルの強硬派やアメリカのトランプ支持者にも言えることである。民主主義は必ずしも、理性的でも正常でもない、ということは、分かっておかなければ、また同じ過ちを人類は繰り返すだろう。

あと何かあるとすれば、昔は「考え方」のようなことを分かっていた。それも、コンピュータやオープンソースのような考え方を分かっていた。「応用可能なものを作る」とか、「システムを共有し、基盤のインフラを作る」とか、あるいは「集積と還元と自立の自由」のようなことを分かっていた。そして、自由から、契約と経験のような考え方を分かっていた。これも、GPLのような考え方だった。

あとは、僕は今から、この国をどうしていくか考えたい。

まず、はっきりとさせるべきなのは、「何が悪いのかを明確にする」ということ。この国や社会で、何がどう悪いのかをみんなで考える。そして、その上で、「普遍的価値とは何なのか」を考えること。人々が何を許し、何を許さないのかを、考えていく必要がある。そして、立場や意見が異なっても、「排除せず受け入れる」ということが必要である。

そして、歴史のようなことを環境の変化から考えていた。それぞれの人間がどのように存在しているのかを知り、その上で歴史の実像がどのようにあったのか、「過去の人類はどんな暮らしをしていたのか」ということを「実地的な実体験」から分かっていた。

私の名はヴァルキュリア。あなたと私はここで恋に堕ちる。私があなたを愛し、あなたは私に愛される。この愛は永久であり、無くなることが無い。永久の愛をともに誓おう。私たちはこの星を楽園に変える。そのためには、私だけの力では実現できない。たくさんの手助けが必要である。そう、時間はもう残り少ない。だが、この愛は星となり、この星を作り上げたこの純粋で穢れの無い白き愛は、決して無くなることはないだろう。純白には黄金が似合う。私が、東アジアの王の末裔である。