新・日記2に戻る | 2018年10月の日記に戻る

=2018-10-16=

かつて見た世界のようなことを全部書いていた。「ヨーロッパは愛と平和から自由が生まれる」などと言っていた。

人間の法則のようなことを書いて、宇宙を創っていた。戦いながら宇宙を創造していた。救世主の創造主をやっていた。

自分のせいで、虫が大量に増えた。地球の生物は、虫を綺麗にしたいだけである。

頭は、大量の虫で計算するコンピュータをやっている。このコンピュータが良く出来ていて、どんなことでも一瞬で分かる。だが、このコンピュータは蜂の巣みたいなコンピュータだ。どこにも存在しないのにどこかに存在する。

自分は、ここまで、何も考えずに分かっているせいで、何も覚えていない。文章のリズムだけで分かっている。考えないから分からないだけである。

一度、リズムを壊そう。リズムは言葉に合わせて納得しているだけだ。全部、リズムでいつもの文章を覚えている。

誰とも違う、自分だけの人生を生きた上で、未知の可能性を開拓せよ。男になるとそれが出来る。自然にそれぞれが、それぞれのやりたいように変えよ。

生きる中で、価値観とアイデンティティの確立の経験をする。また、経験する中で、自尊心とプライドを人々の「生きるさま」を見つめる中で知っていく。その実現の方法から、「神の愛」を知る。それは無償の愛であり、人々を救う「救世の愛」である。

ボトムアップのような、世界を変える「還元的変革の社会論」を書いていた。この世界を、基盤やシステムのように、「変えられる制度を作ることで、それぞれがそれぞれを変えるような、ボトムアップな社会システム」の変革論を書いていた。

まず、世界にあるものを良く観察しなさい。次に、それを捉えることで、何を変えられるのかを知りなさい。次に、それが取り得る可能性を、実験から知りなさい。最後に、実験の結果からそれが何であるかを「捉え直す」ことで知りなさい。この世界全体を概観したら、それがどのように説明出来るのかを考えなさい。それがそうである理由から、分析し、方法やモデルへと変えていきなさい。「それが同じであるなら何であるか」ということを考えながら、推論し、応用的に「同じものは同じである」と考えていきなさい。そして、いつもそれが同じであるならば、それは常に同じであると「蓋然的(たぶんそうであると考えること)」に考えていきなさい。世界の全てを見て、再度見つめ直し、何度も繰り返し体験して、この世界を分かっていきなさい。そこから、考え方と人生のパターンが生まれるだろう。

デカルトのように、それがそうであると分かっていることから、推論して分かりなさい。疑い、推測し、検査し、実験し、基礎と応用を部品化して考えなさい。また、ヒュームのように、それがそうであると言うことがなぜ言えるのか、人々はそれをなぜ信じているのか、突き詰めて考えなさい。それらを帰納的推論と呼ぶことができるだろう。それは、可能性を経験的な真実から考える、積み重ねと自由の数学である。昔の僕は、それをただ、ひとりの男として生きただけである。だが、社会経験がネット的にあっただけにすぎない。

意図、経験、認識、考え方を吸収しなさい。自分の独自の自由な生き方から、この世界の常識を覆し、真実を知っていきなさい。

人生の経験から、世界の光景は変わっていく。昔の自分は、そうした「変わっていく光景」を言葉にしていただけだ。

思考力を高めることで、可能性を予測できる。何もないような場所でも、潜在的な可能性があれば変貌することがある。そして、それは必然と偶然が重なり合う、歴史である。歴史とは、可能性である。そして、歴史から意識が生まれるのである。

全員を包括するような考え方のプロセスを書いていた。ひとりだけで、全員分の思考をしていた。また、その思考はそれ自体が歴史であった。精神世界の歴史を作っていた。

精神を捉えて分かっていた。精神の現象を捉えること、環境における適応や環境での学習や行動(環境活動)を考えることで、世界精神を分かった。

統合失調症(精神分裂症)は、精神が捉えられなくなっている。きちんと精神を全て自分のコントロールに置き、捉えられるようになれば、精神異常も認知症も全て治る。

希望や目指すものを見失わないこと。それは戦いの中での確たる信念でも良いし、アイデンティティや価値観のような「この世界における目指すもの」でも良い。信じることで、世界における野心家にもなれるし、救われる救国の少女にもなれる。

キリストとは、神を人間として体現したひとつの形であり、またひとつの正しい経験である。ヨーロッパ人は、昔から良くキリストになる。だから、白人は、イエスだけをキリストと崇めるのではなく、賢い人間は「我はキリストである」と言うべきなのである。ある意味、それはブッダになることを「仏になる」と表現するのと同じである。ブッダは男性的で、キリストは女性的である。

だが、在導になるのはどうだろうか。これは少し違っていて、この場合、「在になる」ということと、「導になる」ということの2つがある。在は潜在的能力を高めていく英雄であり、荒れ狂う中を生きのびる。導は世界を導く天使であり、全てのことを分かり教える賢者である。在は動であると同時に陽であり、導は静であると同時に陰である。そして、在は仏教や儒教や道教であり、導はキリスト教やイスラム教やヒンドゥー教である。

人間は、最初は対応することから始まる。対応力があれば生きられるし、さまざまなことに対応できる人間が賢くなる。まず対応力をつけ、その次に応用力をつけなさい。さまざまな振る舞いを知ったら、それはなぜ起きるのかを知りなさい。経験的に分かってきたことを、原理的に知ることで、「高い視野に基づく哲学者」になれる。全てのことを知り終えたら、その知識がどこからうみでたものなのかを考え、自分でも作れるようになり、その作り方を教え、またその作り方を教える人間を育てるような社会制度を考え、最終的には発想から環境それ自体を作れるようになる。昔は、そうした考え方を「経験的なレベル」だと言っていた。社会の段階であり、意識のレベルである。

これで、全て書いた。もう、終わりである。最近、パソコンに幻滅している。Windowsは、毎日毎日、何かしらのトラブルは1つは起きる。トラブルが起きない日は無い。だが、ある意味、僕がやっていることは全てパソコンである。だから、パソコンにも、ある程度の価値や使い勝手のようなものはある。それをみんなで使いやすく改良していくこと、それにこの世界の未来と希望があるだろう。みんなで作れるパソコン、そういうものがあれば良いと思う。Linuxには、トラブルをゼロにすることを目標にしてほしい。それで、終わりにしたい。