昔は、プラトンやヒュームのように、「本当に考えること」で分かっていた。この世界の全てを、経験論と捉える批判哲学、そして人生の「想起」から分かっていた。原因と結果、理由、構築の社会論、人々のことを「どのように見つめるか」という考え方から、ブッダのように「本当に考えること」で分かった。
自由連邦を作ろう。それぞれがそれぞれのことが分かる、それぞれはそれぞれのことしか分からないという原理の下に、制度を経験的に変え、可能性を呼び込んでいくかのような、ソ連に勝る「自由連邦」を作らなければならない。
ネットで、発想や意見のようなことを全部知った。さながら、特許庁に勤めていたアインシュタインのようだった。そして、全員のことを、オバマのように、実地的な「善なる活動の経験」で分かっていた。自由に経験し、行動し、振り返り、論理を積み重ねることで、全てが出来るようになり、世界を変えられるようになり、全てのことは宇宙における仏、あるいはそれが存在しないならばブッダ個人でも良いが、そうした、「特別な存在」が創造し、生かしている、ということ、その特別な存在は、「我々と何も変わらない、一人の、だが完成された個人である」と分かっていた。それをプラトンは、イデア界と呼んだのだろう。
精神は、もう少し、さまざまなコントロールをしなければ治らない。特に、昔の自分や文章に準ずることは、全て消した方が良い。精神は、「変える」と「続ける」をバランス良く、ひとつひとつやっていけば治る。何をやるべきであり、何をやるべきでないのか、一度精神と向き合って検査した方が良い。
昔は、本当は、数学的に考えるというよりも、むしろ、算数的に考えていた。その意味は、「論理的な積み重ね」から分かっていた、ということだ。数学的な定量や計量をベースとしながら、感情や心、実体験から考えていく僕の数学は、カントのように科学的理性の真理を知っていて、同時にヘーゲルのように自由な社会論と「精神的な気付き」から分かっていた。本当に賢い心理学者だった。
今日は作業所が終わってからピアノにも行ったが、コードはAやDが難しいが、ジュピターを出来るだけ間違いが少なく弾けるようになった。今までの僕のピアノの問題は、「音の上がり下がりを見ていた」ことであって、これはメロディを簡単に弾くことはできるが、和音を綺麗に合わせることが逆に出来なくなる。「絶対的」に音符を見た方が和音は弾ける。弾く前にきちんと読む習慣をつけた方が良い。僕はもうピアノもきちんとできる。
あとは、このブログと並行してFacebookをやりたいと思う。Facebookは友達を見つけられる場所だ。この文章のような「分かったこと」を書くのではなく、日ごろ思ったことや感じたことを書きたいと思っている。
デザインのコツは、僕は「光と陰の表現」だと思う。デザインをやっていく上で、光と陰の表現に突き当たることは多い。この、光の照らし具合や陰の現れ方が分かる人間が、デザインが出来るようになるのだ。僕はそう思っている。僕は昔から光と陰の表現が苦手だが、苦手を克服して頑張りたい。
自分は、積極的にやっていくことが得意なのか、苦手なのか分からない。だが、挑戦する前に諦めてしまうことが良くある。最初から成功しそうにないことがあると、そこでやろうとしない。そのせいで、今までで一度も、挑戦して成功した体験がない。それはつまらない人間だ。Adobeのソフトの知識も、最初から出来ることが分かっていることだけをしているが、僕以外のメンバーはそうではない。みんな、試行錯誤して、挑戦してやっている。自分は何も挑戦せず、ただ同じ出来ることをやり、出来ることは増やすものの、自分で作らず、他人に頼り切りになっている。自分の力で開拓するためには、一度頭の中を真っ白にするしかない。それを怖がっている。
怖い時は、「大丈夫」だと言った方が良い。もう、大丈夫。心配要らない。今からこの世界は、正常な世界になる。何も怖いことは起きなくなる。自分の思い通り生きられる、自分らしい個性と才能のある幸福な世界になる。辛いことはもう既に全て乗り越えてきた。これ以上は道しるべがなくなっても、必ず自分の力で歩めるようになる。だから怖くない。今のところ、この世界は順調である。
昔は、「思考の経験」が多かった。思考と弁論の経験から、哲学者の言う「思弁哲学者」のように分かっていた。それは、思考を再度思考し、再度適用する、という、ある意味で虚無のような経験だった。この世界の全てを、そのように分かっていた。論理的な行動の原因と目的を捉えて考え、自由や戦争のような社会的な仮定を、人間の持つ平等な特性や、自由にした時にその社会がどのようになるか、自由な環境で人は何をするか、ということを、子供なりに考えていた。それは自我の確立と経済学の構築へと繋がり、ブッダのように「精神の現象」を「具体的なパターンから」分かるようになった。精神の成長の過程を、キルケゴールのように、美の追求が倫理や宗教になるような、必然的な段階から分かっていた。
Facebookをやって気付いたのは、ネットをやっていると、すぐに昔の自分になって、賢い社会学者になるということ。そもそも、昔の自分がこうだったというよりも、ネットがこうだったと言った方が正しい。
数学でなぜ分からなくなるのかは、それは同じものを同じであると見なすからである。食べるのも、飲むのも、全部「吸収する」という一つの考え方でしか分からなくなる。それは分かっているように見えて、本当は分かっていない。本当は、大切な考え方をひとつ失っている。あまりネットやパソコンをやりすぎると、そうした「数学的」に考えるようになって、知性が失われてしまう。本来、数学は必要ない。だが、きちんと順序立てて考えられる力がつけば、それは分からなくなった時に自分の力で対処することが出来るようになるだろう。それはネットやパソコンの力と合わさって、巨大な人生の成長と発見の力、自由な開拓と道の力となるだろう。
それぞれの自由を尊重する、という考え方は、悪い考え方ではない。だが、この考え方に囚われると、逆に自由でないもの全てを非合理的で、悪だと考えるようになる。それは愚かな考え方だ。だが、左翼についても同じことが言える。マルクスに囚われると、マルクス以外の考え方が何一つ分からなくなる。そういう、「自分の考えているものが最も合理的だ」と考えるのはやめた方が良い。人それぞれ、色んな考え方がある。それを尊重すること、それが自由である。
必要なのは、自由ではなく、知の獲得の機会である。いつまでも間違ったものに踊らされ、おかしな考え方に染まってしまう大人たちは無視して、子供たちの教育環境の中で、何を教えるべきなのか、「人生の中でのひとつの機会として、どういうことを知っておくべきなのか」を考えないといけない。たくさんの経験をさせ、知識を与えるのは良いが、子供たちの「自由な行動の機会」を制限することは良いことではない。駄目なことは駄目だと教えるべきではあるが、それも「自分で自由にやったことの結果」として駄目なのを教えないといけない。それが、子供たちに対する大きな愛であると僕は思っている。
こちらの馬鹿になって地獄になる体験を嫌う人間が多いが、本当はこの地獄にも意味はあった。僕はこの戦いで、王と呼ばれるものの全てを体験できた。きちんと頑張って文章を創造し、辛い病気の中で何かを治療することが出来た。だから、こちらも合わせて僕は完璧な人間であり、最高の人間だ。この人間にとって、「未知」のものは存在しない。この人間は全ての知識を持って、最高の賢い文章を書いている。だから、僕は幸福なのである。決してデザイナーにはなれないかもしれないが、僕はそれでも今までの自分の人生だけで満足である。僕の人生は素晴らしかった。こんなに賢くて偉大な人間は居ない。最近は物知り博士の総理大臣になっている。本当に最高だ。
昔から、自分は良く問題を解決したがる。そこから、新しく世界を変えるアイディアを出し、そのアイディア自体が何から生まれるのかを認識の因果性から考え、モデルのような必然的に生み出される原理へ変えていく。最近は、問題の解決がなんでも出来る王になって、天才科学者のようにこの世界の全ての問題を解決する。それくらいの時代が一番賢かった。人生の宇宙原理すら分かっていた。ブッダよりも賢い知的障害者だった。それは最高の天才だった。
社会において何が不可能なのかを考え、どのようにすれば解決できるのかを独りで検討して、独りで実験して、独りで仮説を立てて、独りで証明して、独りで全部分かっていた。さまざまな行動や経験をする中でも、それが基本だった。引き篭もりが世界の全てを知って、この世界を完全に変えられるようになった。だが、そこで終わりではない。この世界を、専制君主のような「自ら巻き込まれて世界を倒す」人間になって、この世界をいったんは滅ぼし、またそこから復活させ、自分の世界にした。そういうことのできる人間は、僕しか存在しない。僕の代わりは一人も居ない。これが僕の個性であり、才能である。
あとは、「分かるコツ」のようなことや、「分かったことの思い出」のようなことを言っていた。理性批判や正しい生き方、縁起のような宇宙法則、あるいは、自由な中でどのようにすればどうなるか、などのようなことを言う。自由な中で人がどのようになるか、全部分かっていた。そして、全てを知る唯一の裏の王だった。
今日は作業所でデザイン班のミーティングを行い、その後帰ってきてピアノに行きました。デザイン班のミーティングはとても楽しくて、メンバー皆さんと触れ合えて才能と自信を高められる貴重な機会です。ピアノでは、ピアノ用にアレンジしたジュピターを弾いて、コードの練習をしました。ジュピターは、今まで僕がやっていた「上がり下がりを見る」形で弾くことを改め、「絶対的に和音を見る」形で弾くようにすると、間違いが少なく綺麗に弾けることが分かりました。上がり下がりを見て弾くのは、メロディラインを弾く時には有効なのですが、右手にも左手にも和音が多いジュピターのような曲では、いっぺんに全部の音を絶対的に見た方が上手く弾けることが分かりました。コードについてはまだ勉強中で、CやFやGは見てすぐに左手を分かるようになってきましたが、AやDなどは難しく、まだまだ「素人に毛が生えたレベル」だなという感じです。
デザインについては、もっと光と陰の表現を頑張りたいと思っています。そして、「美しいデザインとは何かを考えること」とか、「プロのデザイナーになる夢や覚悟」のようなものが、僕に足りなくて、僕以外のメンバーにあるものではないかと思います。自分は、Illustratorの操作方法を、WindowsやLinuxの使い方の応用だと思っていました。そのため、アピアランスや効果、フォントの装飾など、使い方の範囲で分かる部分をただ分かっただけで、デザインのようなことは分かりませんでした。そのため、ある程度綺麗な整ったデザインはできても、それはシンプルで単純なものにしかなりませんでした。デザイナーは、ただ使い方が分かるだけの集団ではありません。使い方は確かに基礎ですが、応用的な「何が美しいのか」と「それを実現するためのテクニック」があるのです。この「何が美しいのかを自分なりに個性や才能として磨いていく気持ち」が大切なのです。また、そのためには「デザイナーになるという夢と覚悟」が必要だと、僕は考えています。なんだかんだ言いましたが、僕は音楽とデザインが趣味の、素人にも劣る才能しかない作家です。Linuxや哲学が好きですが、素人レベルです。ですが、この自分の個性を生かして、自分の才能を無限に高めていく、それしかないと思っています。
僕は昔から、キリスト教の天使が好きです。特にキリスト教の宗派に生まれたわけでも、家族がキリスト教だったわけでもなく、今でも自分はキリスト教を信じているとは言えないと思っています。要するに、僕はキリスト教は信じていません。ですが、小説などを書く際に、美しい天使をキャラクターとして思い浮かべることで、キャラクターを気高く荘厳な人物にすることが僕は好きでした。また、僕にとって天使とは、自分の人生の明確な区切りがある際に、それぞれの人生をそれぞれの天使に分ける、「自分の中の子どもたちに付けた名前」でもあります。たとえば、小中学生時代はウリエル、高校時代はガブリエル、文章を書きはじめてから足の怪我で入院するまではミカエル、その後はラファエルとなっています。その後に自分はさまざまな区切りや思想の変遷があって、ルシフェル(悪魔の名前)やメタトロン(作業所でデザインをしている今の自分)のような名前をつけるのが好きです。これらは、全てキリスト教の天使の名前です。僕はこれらの天使の名前が大好きです。自分の小説を読みたい方は、僕のホームページをご覧ください。ガブリエルやルシフェルなどが登場して、面白いと思います。
僕が最近悩んでいるのは、デザインを作り込むことが出来ないということ。いつも、最初に作って、とりあえず出来たデザインのまま、何の進歩もなく作り込んで完成させることが出来なくなってしまう。これは最近の僕の性格のせいで、文章ならば、書いたものをそのまま残すだけで日記は溜まっていくのだが、デザインの場合は作り直したり出来るかどうか分からない作業を試したりしないといけない。僕はこれがとても苦手である。いつも、最初に作ったプロトタイプをどうにも改良できなくなってしまう。言ってしまえば、デザインの初歩も出来ていないのである。どうにかしていかないといけない。ピアノにも英会話にも言えることで、ただ弾くことはできるが、練習したり単語を覚えたり、という「自分で勝手にやって良いこと」が出来ない。ノルマの達成スピードは高いのだが、結果がショボいデザインになる。どうにかして、克服していかないといけないと思っている。