昔は、自然と共有が好きだった。自発的に善をし、自然に共有し、自由なままで多様性を作りたかった。そのために、システム、環境、基盤、そして能力と前提となる経験や発想を考えていた。
自分がおかしいのは、きちんとやりたいからだ。きちんとして失敗するのが怖いから、もっときちんとやる。そういうスパイラルになっている。
おそらく、この世界が馬鹿になったのがおかしい。昔は、きちんとやっている人間が多かった。最近、この世界は誰もきちんとしていない。すぐに滅びる。だから、おかしく狂っているのだと思う。きちんとやらない世界はありえない。多様性も無くなっている。
昔は、この世界の自由な自然を良く考えていた。政府が支配してやるのではなく、自由のままでそれぞれが関わり合って変え、自由と多様性を実現することが、この世界の可能性を増やすと考えていた。
成長するにしたがって、極端な自由は少なくなり、逆に可能性を減らしながら増やすことで、この世界の全てを王のように統治していた。そうした文章を書いていた。
昔の自分は、自発的な共有から共同体を作り、みんなで環境を構築すべきだと考えていた。それが正義だと思っていた。その後に、それが正義ではないことを知った。
文章には、人生と社会の段階を書きながら、ありえない歴史を創っていた。文章に書くことで、完璧に創造していた。この世界の全てを写し取ったような認識と経緯の文章だった。
そして、「自由な環境の構築方法」のような文章を書いていた。手段や前提知識を作って、この世界の全ての「自由」がいかにして生まれるかを書く。