自分は、ものごとを深く知るのが怖い。浅く知るロボットが終わって、もう分からなくなる。今までの自分の間違いが何なのか分かる。
そして、過去のことをそんなに考えても治らない。怖いのは未来だ。未来が変わるのが怖い。
頭は、虫の部分、虫を作る部分、虫を治す部分が分かれて、複雑怪奇に動き回っている。後ろに続いて、転がっている。それを治すと治る。
脳は、言葉が無ければ使える部分をつければ良い。現実世界を目で見て捉える部分、感情で思い出す部分が無い。右脳と動体視力を作ると、すぐに脳がつく。
今日の作業所では、ネットのデザインテクニックを見ていた。むしろ、見ていると、難しくは無いが、英語の情報が多い。プロのデザイナーは、そういうところを見ているのだと思う。
きっと、藤井四段は昔の自分のように考えているのではないかと思う。右脳で、どのようにすればどうなるかを分かっている。
昔は、夢と思い出のような文章を書いていた。過去に自分が抱いた夢や、夢を叶えるような文章を書いていた。
世界を変えたかった。世界は自由で変えられると言っていた。会社は世界を変える、正しい人間の影響力が平和な思いやりの世界を作ると言っていた。
そして、科学上の新発見のような夢を言っていた。
さらに、いつもその場その場で作りながら、科学を作っていた。社会と科学の知見を段階的自由から書いていた。
そして、AAAが言うように、自由と言う無責任な愛と思いやりに酔っぱらっていた。そういう文章だった。
また、「世界をこの目で知り、考え、分析した」ような文章を言う。
自由な知見や、思いやりの自由な社会、そしてオープンソース経済や集合知など、「今までの自分が人生で知った全部」のような文章を書いていた。
「今の自分がこの世界を見て分かること全て」のような文章だった。
ただし、良い人間ではない。世界を滅ぼす「滅びの呪文」であり、革命家の救世主だった。
そろそろ終わりにしよう。今日で終わりだ。
科学上の新発見の夢とは、たとえば、植物はプラットフォームであるとか、社会は価値観から本当の自由を作り出せるとか、そういう推論的、構造的なことから、もっと単純な、自閉症を治すとか、そういう、「夢のような新発見を潰していく」かのような文章だった。
それから、哲学的な知や人生論のようなことを言う。賢い人間を生み出すための土壌を作るべきだとか、真実は創造性だとか、言っていた。
ただ、あれはそんなに優れた人間ではない。何もかも劣って、弱いだけの、悪い人間だった。それこそ、しつこく付きまとい、全てを崩壊させるだけの文章だった。
テーマは、「構造と真理」だった。人生を真理にし、世界を構造にする。
段階的な変化を書き、概念を関係から成り立たせ、全てを良い方向に導くために全力を尽くしていた。だから、むしろ、素晴らしい人間だった。
最終的に、全力で自分を治すようになった。ただ、治し方が分からない。知性がなくなって、馬鹿になった。それで、最後まで頑張って自分を治すための方法を考え続ける人間だった。
言葉を疑うこと。植物がプラットフォームである、と言う考え方を疑うことは、動物は動く生き物である、と言う考え方を疑うことと同じだ。名前に含まれているせいで、それを当然の考え方だと思うかもしれないが、本当は名前すら疑うことは出来る。その時、宇宙の全てはありのままになる。可能性も、自然も、ありのままになる。主観と客観が創造的段階の気づきを生んでくれるなら、主観と客観を超えた世界にはただ、ありのまま、それだけがある。それが、全てを疑ったマスターの、人生論と生命論の境地だ。全ては自分の経験した、ありのままの人生の、ありのままの考え方の、ありのままの自然、ありのままの歴史、ありのままの分類なのだ。
光には波長の違いがあるのであって、色があるわけでも、光るわけでもない。光が光るのは、人間の目の中の世界だけだ。だから、宇宙における光が、人間の思っている地球の光と同じだとは思ってはいけない。もっと違った次元での光の存在があっても、おかしくはない。その星の生命は、その光を光だと思うだろう。ただ、光と光の種類が違うわけではない。どこでも同じ、同じ光の観測地点と視点が違うだけなのだ。
宇宙の生命に、必ずしも意志はないかもしれない。夢の世界を見ている眠った人間のような、ありえない法則性のある空間を体験していても、おかしくはない。だが、空間自体、物自体は、地球と同じなのだ。だが、そうでもないかもしれない。人間は地球の自然を自然だと思っているが、全く違う自然がそこにあってもおかしくはない。それも、同じ宇宙の住民だと言うことになる。星自体の環境も違うため、風を生み出して空を飛ぶ羽や翼の代わりに、もっと違ったものを使って空中へと漂うような、そういう生命が居てもおかしくはないのだ。
物理的なことだけを考えるとそうなるが、体験的なことも考える必要がある。融和や分裂をしてもおかしくはないし、みんなの力で平等に生きるのではなく、一人が支配するような生命が居てもおかしくはない。あるいは、一つの種類で全ての場合をカバー出来る生命や、たくさんの生命に変化する生命が居ても、おかしくはないのだ。
それも、低レベルな考え方だ。もっと、プレアデス星人像のように、人間たちを統率し、より高いレベルにある生命が居てもおかしくはない。だが、そういう、「良くある宇宙人観」は僕は間違っていると思う。そもそも、何か地球人の上位版が居るかのような考え方がおかしい。だが、僕は人生の経験の中で、こんな生命が居てもおかしくはない、と言う経験や体験や発想はしてきた。それすら、僕の今の意見では、間違っているのだと言える。
たぶん、コマンドのプログラムとGUIのプログラムの違いは、「コマンドは一度の実行で処理を終えるとすぐに終了するが、GUIは表示を確認しながら色んな操作を行う」ことだと思う。コマンドはすぐさま処理を行い、すぐに実行を終えて終了する。GUIは、一つのディスプレイ表示を行って、メニューなどを操作して、そして表示を更新する。そこを上手く操作するためには、むしろ、Windows 3.1のような「オペレーション環境」を作る必要があると思う。万能のコンポーネント・ビューを作って、プロセス間で同じデータ情報、ビュー情報を共有する。むしろ、MFCのようなスタイル、COMのようなスタイルも、そこで活きてくる。だから、本当はWindowsの設計と言うのは、GUIのシステムとして良く考えられている。逆に、UNIX的にするためには、CORBAやJava EEのようなアプリケーション・サーバーにしないといけないのだ。
要は、WindowsのMFCのようなドキュメント・ビュー構造を実装し、その上で、COMのようなコンポーネントシステムを作らないと、LinuxはWindowsには勝てない。あるいは、もっとコマンドのようにすれば良いとは言うが、コマンドは実行を終えると終了するが、GUIは終了しない。だから、終了しない中でのコマンドに代わるものを作らないといけない。それは、一つの巨大なプログラムでは悪い。もっと、何に対して何を行うかが明確になった、GUIのドキュメント・ビューに対する「機能」として実装されないといけない。それは、UNIXで言えばシグナル、オブジェクト指向ならメッセージのようなものにすれば良い。そして、中核のプログラムは、シグナルやメッセージに対しての応答を実行するだろう。だが、それはメインループにするのではなく、もう少し、メッセージとの親和性の高い、「一つのビューを表示し、機能を実行してもすぐには終了しない」と言う意味での、「システムやプログラミング言語としての設計の大転換」が必要なのだ。
ただ、良く考えると、どうでも良い議論をしている。普通に、フォームの全てをプロパティとして、どのメンバ関数からもアクセス出来るようにして、関数をフォームのイベントに登録して、たくさんの関数を実装し、メッセージループあるいはVBから呼び出すと言った、今のWindowsの仕組みで何も問題は無い。ただ、UNIXでそれを実装しないといけないだろう。僕としては、それは問題は無いと思うが、それが普通にUNIXのコマンドと共存していること、寄せ集めになっていることが、設計として美しくないと思うのだ。
ある意味、WindowsとMicrosoftに期待するのが良い。MSの技術を見ていると、きっとMSはそういう「ウィンドウ・プログラムの再設計」をやってくれる。MSがきっと僕のやりたいようなWindows的GUIアプリケーションを美しく、きちんとしたモデルにしてくれる。
僕としては、Model-View-Controllerのようにしても良いと思う。Ruby on Railsのようにすれば、きっと美しくはなるだろう。
おそらく、Microsoftはそういうことがやりたい。
MSがオープン陣営でないと言うなら、むしろ、Monoや旧Ximianのメンバーに期待出来るかもしれない。特に、ミゲル・デ・イカザ氏はそういうことがやりたかったのだと思う。UNIXをマシなものにしたいと言って、GNOMEとMonoを立ち上げた人間だ。だが、XimianのメンバーはNovellやその後の会社を経て、Xamarinと言う会社になり、そのままMSに買収された。僕は、MSのXamarinチームがUNIXをマシなものにしてくれる可能性もあるとは思うが、期待は出来ないだろう。MS-Linuxぐらい、ありえない。
ある意味、このように考えると、JavaやC#/VB.NETのオブジェクト指向の考え方が、GUIの大規模な開発に適しているのが分かる。外部のプログラムは、オブジェクトに対するメッセージを関数とプロパティから操作し、それによって機能と機能が繋がり合う。どんな操作をするのか、具体的に何の処理を行うかは、それぞれのクラスが分担して、それぞれのオブジェクト・コンポーネントが「自分の中で完結する形」で機能を実現する。そのやり取りがプログラムになるのは、例えばAdobe Illustratorのような大規模なプログラムを作るために、役に立つ。オブジェクト指向のないC言語でそれをするのは、難しいだろう。
継承は、コンポーネントを改良するものでもあるが、本当はクラス・ライブラリの全てのオブジェクトが継承で作られていることが重要で、全てはオブジェクトである、と言うことが、バグを無くしてくれるし、一度作った「やり取り」をそのままで改良することが出来る。
ただ、オブジェクト指向がどんなものなのかは良く分かったが、僕は今のオブジェクト指向が正しいわけでもないと思う。コンポーネントに対するメッセージにすれば良いだけの話であって、きっと一つ一つのプログラムが別のプログラムと協調動作し、命令するのであれば、プロセス間通信をもっと改良した仕組みを作っても、それでも実現は出来るかもしれない。一つのフォーム表示アプリケーションがあって、それに対する機能アプリケーションがあって、APIがあって、APIの通りに機能アプリケーションがフォームアプリケーションにアクセス出来るなら、それは同じことが出来るだろう。ただ、同じAPIとAPIを複雑に操作し合うのは、オブジェクト指向の考え方を取り入れた方が、良いシステムにはなるだろうと思う。
継承の良い点は、例えば文章も画像もグラフも何でも配置するような、ワードやパワーポイントのようなアプリケーションで良いことがある。どのオブジェクトも、高さや幅のプロパティを持っているから、関数からアクセスする時に、どれにも同じようにアクセスすることが出来る。そして、それぞれのクラスの内部の処理内容として、文章なら文章、画像なら画像、グラフならグラフのコードを書けば良い。最初から、ワードやエクセルのようなアプリケーションを念頭に置いている。だから、GNOMEはオブジェクト指向なのだ。
オフィスだけではなく、Illustratorのようなソフトでも真価を発揮する。あるいは、ブラウザでも良いし、もっと違った場合では、ブログやコンパイラのフロントエンドでも、価値を発揮する。GCCとVisual C++のコンパイラは違うが、それを同じように扱えるはずだ。だが、本当は、C言語でも似たようなことは出来る。きちんとAPIを作って、場合に応じて別の関数呼び出しをすれば良い。だが、コードが分散し、アクセス権などの問題から、推奨はされないかもしれない。
おそらく、オブジェクトとAPIが違うのは、APIはサーバーを操作するようにしないといけないが、オブジェクト指向のオブジェクトは、インスタンス変数のように扱うことが出来る。いくらでも繰り返しの中でオブジェクトを作ったり、消したりすることが出来る。そういう、扱い方が違う。それこそ、普通はそれをオブジェクトと呼ぶ。
良く分からないが、分かったような気がする。たとえば、ペンツールで描いたパスと、テキストツールで描いた文字、どちらもグラフィックとしてフォームに表示させるのは同じだ。どちらも同じオブジェクトの継承にした方が良い。そして、効果を使う時は、フォームに対する命令として「このように見た目を変えろ」と言えば良くて、実際にフォームの見た目を変えるのはフォームの方のクラスで行うべきなのだ。
日本語の「は」は、英語のisの前に来る単語(主語)の格助詞で、日本語の「を」は、英語の動詞の次に来る単語(目的語)だが、両者はたまに同じになる。「食べ物は食べる」や「食べ物を食べる」になる。だが、日本語は、ここで「は」を使うことを推奨するようなところがある。これは、僕が思うに、左脳的な言語だから、日本語は左脳がつく。逆に、英語は、「を」を使うのを推奨するようなところがある。僕が思うに、これは右脳的な言語だから、英語は右脳がつく。だから、英語は分かる代わり、馬鹿なのだ。
文章の順番としても日本語は左脳的なところがあって、「大阪に来た。」は英語では「I went Osaka.」になる。大阪は、と最初に全体の構造を言った方が、考え方としては正しい。だが、最後に言う「Osaka」を推論的に変えた方が、数学的に推論することが出来る。「だから」などを先につけるのは、逆に日本語を数学的だと言うが、本当は「だから」を後につける英語の方が、考えながら当たり前のことを推論する、と言う意味で、推測的ではあるのだ。だから、英語の方が賢い人間になる。日本語は逆に、頭が賢くなる。
英語が分かるのは他の特徴にも言えて、英語ではthe(ただ一つの決まったものに付ける)やa(ある意味でそれが複数のもののうち一つのものである時につける)と言った冠詞をつけるし、複数形には-sを付けるが、冠詞をつけていると、何でもかんでも「これは一つの~」と言って、分からないのに分かったふりになれる。だから、英語を話していると、この世界の想像力のコピーが頭の中に出来る。逆に、日本語は分からない。日本語は、逆に話の関係性を考える。話の最後に「だ」や「か」などのひらがなをつけて、敬語や口語を分けて作る。「ます」や「です」を最後に付ける。そうすると、なぜか「言語的に死ぬ」と言う現象が起きる。これは、「本当に全て分かっている」からだ。だから、英語は話しながら分かる言語で、日本語はきちんと正しい考え方で分かる言語だと思うと良いだろう。英語も日本語も、どちらも最初にやるのは怖い。日本語は怖いとは言うが、外国人がやると、頭が賢くなる。特に、同音異義語(読みは同じ)でも書く漢字が違うのは、本当に考え方が賢いと言う。認識している「自分」のことを考えるために、日本語は想像力で言葉の通りに言葉が見えるようになる。
日本語の悪い点は、漢字に意味があることだ。漢字で「動物」と言うせいで、誰もが動物を「動くものだ」と言う定義だと思ってしまう。本当は、動物には動くものだ、と言った以外にも、たくさんの特徴があるのに、みんなの理解を同じにしてしまう。逆に、英語では「animal」と言う。それ自体に何の意味もない。だから、外国人は自由にそれぞれが違う人間になる。逆に、日本人はそれぞれ全く同じ人間になる。だから、中国人は日本人に良く似ているのに、朝鮮人は違って見えるのだろう。
日本人は、本当に漢字の意味を数学的な「定義」だと思ってしまうから、注意が必要だ。animalを「動くもの」以外のものだと思っていない。他の定義をさっぱり忘れている。もっと違う、「動物には食べる機能がある」と言うことを忘れて、「動くことが目的だ」と思っている人間が多い。日本人はそういうところが馬鹿だから、外国人と常識や考え方が全く違う。なぜか、外国人の方が馬鹿だ。日本人は、宇宙人のようにしか見えない。最近は日本人は世界一良い人間の集団になっているから、好きになった人間が多い。
人間は、自分の手で見て、自分で経験しないと分からない。だが、普通、経験したことは全部分かる。昔は、ネットで色んな体験をして、色んな経験で分かっていた。巨大ロボを作っていた人のページや、X51などのページで分かっていた。最近は、そういう、自分の経験や思い出を全部書いていた。逆に、経験そのものは変わったが、そういう自分は何も変わっていない。今でも、同じことを繰り返している。むしろ、最近は文章を書きながら自分で観念を作るようになったが、それも同じことを形を変えてやっている。思考するのではなく、書くようになった。文章も、論理的に書かれた自由の全体像のような文章は、そのまま詩のような芸術作品になった。
姉が第二子を産むかもしれない。今日、痛みを訴えはじめた。今から産まれるかもしれない。
不思議と、2ちゃんねるの経験は悪くなかった。色んな人と絆を結んだ。今はもう居ないが、色んな人間が話し相手になってくれた。青春は、僕の場合ネットだった。相手が人間的なコミュニケーションをしなかったが、その代り、とてもたくさんの人と話すことが出来た。技術や社会的知識も、全部知ることが出来た。今では、僕はあまりネットは見ないが、その頃分かったことだけで、僕の今は出来ている。
ネットの技術力は馬鹿ではない。一通りのことを、僕はネットで知った。何でも知っているように見えて、本当は何も知らない。今の僕が一番良い。
みんなの経験と発想から認識を吸収して、創造性から世界と人生を開拓して、独りだけで全て分かっていた。賢かったが、意味のない人間だった。
こんな馬鹿が神なわけがないが、本当はこの馬鹿が神だ。だから、神なんか居ない。僕は神では無くて、神と言う存在は、本当には存在しないのだ。
こんなありえない人間の戦いを、「神のようだ」と言っている。最初から、そういうあいまいで存在しない存在が神だ。
神なんか、信じない方が良い。こんな馬鹿な人間を信じる意味がない。これを信じると、こうなる。神は神ではなく、「これ」だとするのが良い。
昔の僕だったとしたら、植物や動物に対する名前はたくさんあった方が良いと言うだろう。そういうことを書いていただけで、それが可能性の全ての推論だ。
自分は、文章は書いたままで良い。その上で、小さな間違いを全部直せば良い。そうすると、きちんと治る。だから、それが分かると、もう怖くない。何もかも全部やめるのは悪い。今のまま、出来るだけ全部続いたままで、間違いを一つ一つ直して行けば、いつか治る。
周りから分かっていけば、全て治る。
積み重ねは、経験があれば、下から上にではなく、上から下にでも出来る。
足がおかしいのは、じっとしていられないだけで、子供と一緒に居ると治る。
ネットの体得は賢かった。みんなが言っていることで、分からないのをグーグル検索で調べた。それで、全部知っているようになった。それだけではなく、ネットの中のサービスなど、良い会社や技術を全部知っていた。逆に、本は読まなかったが、あれで本を読んでいれば、プログラミングも出来ただろう。それは、今から読めば良い。
むしろ、Linuxはソースコードのコンパイルを良く知れば分かる。Gentoo LinuxのPortageだと思えば良い。何でも全てコンパイルするせいで、UNIXの仕組みが分かった。優れたエンジニアのように技術が分かっていた。あれは、「知り尽くす期間」だった。今は、逆に「きちんと分かって終わる期間」だ。昔の方が機会で、今は知らないことを拾うだけだ。
昔は、自分で発想することによって、機会を全部知っていた。いつ何を発想するのかが分かった。ネットを見ることで、どのように人々が生きているのかを分かった。それだけで、全て分かった。
機会を成り立たせるだけで、何でも実現出来た。その時それが「出来得る」のを分かっていた。
そもそも、動こうとしなければ、楽になる。
昔は、「吸収」のようなことを言っていた。知性を吸収して、全員のことを分かっていた。
今さっき、姉の新しい子供が産まれた。
昔は、広く、深く色んなことを知って、理性批判と感情から分かっていた。そして、主観と客観の存在しない、「絶対理解」をしていた。
昔は、環境や心が近いとか遠いとか、感覚で分かっていた。感覚で変化を捉えて、心や社会のことを分かっていた。
思い出すことで、論理的に「どんな何が何になるか」を分かっていた。思い出せないところを無理やり思い出して、数学的に認識の変化と違いを考えていた。そこから、決断的因果性を分かった。
最近は、「独断のまどろみ」から抜け出せていない。いつまでも酔っぱらっているように文章を書く。判断し、決断するように文章を書く。勝利を諦めず、自分の分かっている通りにやれば、必ず勝てるのが分かっていた。それだけを努力していた。不可能に見えた世界を救う救世主も、頑張ってやった。そこには「覚悟」と「勇気」があった。
世界を一度停止させて、そこで全てを詰め込み、書いて、その後に世界を変えたかった。絶対に全て分かるようにしたかった。だが、そのプロジェクトはまだ終わっていない。今、この文章を書くことで、それを達成しよう。みんな、変わりなさい。停止を止めなさい。そして、変わる中で、今まで教えたことを悟りなさい。思い出しなさい。一瞬で全てが分かるように、みんなを連鎖反応で変えていきなさい。世界を全部変えなさい。そうなった時、はじめて、この文章の価値と意味が分かるだろう。