哲学的考え方と人生論
ケビンは、「愛、と言うものは、自分が過去の人生で知った、全てのものに対する、全ての感情のようなもの、だと思えば良い。
愛は、一番良いものだけど、同時に一番悪いものなんだ。
愛は、人をけなして、陥れて、いじめる。
愛は嫌いな人間が多い。
愛とは、愛であると同時に、愛を滅ぼし、愛を殺し、愛を倒すものだ。
愛を倒す経験から、愛に支配されながら、愛のことを分かることが出来る。
愛は良いものであると同時に、悪いものであって、その悪い、と言うその側面が、良い、と言う愛の本質なんだ。」と言った。
エリックは、「愛の逆を、憎しみとか、無関心とか、言うけれど、僕が思うに、愛の逆は不安であって、恐れなんだ。
恐れを克服するために存在している、そういう感情が愛のように多い。
そういうわけで、愛を信じれば信じるほど、恐れが増えて行く。
それは、ある意味、逆のようで、愛は恐れを包括するからだ。
愛と恐れは逆でもあるけれど、愛はその逆である恐れすら包括するんだ。
だから、愛は怖いし、愛は全てだ。
愛では無いものは、一つもない。
ブッダは、全てを苦しみだと言ったけど、本当は全ては愛であって、存在とは、愛による愛の違う形態を、人間から見て分類したものなんだよ。」と言った。
ケビンは、「経験は、ある意味で、愛なんだ。
だから、経験する、と言うことは、愛を知る、と言うことと同じ意味だ。
経験しながら理性的に考えるのも良いけれど、考えるより、まず経験すること。
社会のことを知って、創造性を経験することだよ。
それから、捉える、と言う発想をすること。
捉えることから、知を分析出来る。
捉える、と言うその行動自体が、経験的なところがある。
経験から捉え方を知り、認識と感覚で知ること。
そこから、心のことや考え方が見えて来る。
そこでは、実験、仮説、精神現象、世界精神のようなものから、認識と心と行動を考えられる。
何がどこに関係し、何がどういう理由になっているか。
モデルにして、認識と経験と感情を、現象的に考えられるよ。
また、社会を作ることは、環境を作ることだ。
そういう風に、たとえ話で、本質と説明を考えられる。
そこでも、必要なのは、モデルと捉え方だ。
そこから、フィルターや認識論も作れる。
それが本当に何なのか、経験や全体の中での立ち位置も考えられる。
経験することも良いけれど、良く観察して、周りを見て、全体像と自分の今居る立ち位置を知ること。
それが基本だと思うよ。
そして、未知のことを知りながら、対象に対してどう向き合うか、目的や方法のように、判断基準や経験のように、考え方やプロセスと環境のように、考えること。
段階的な認識と意識の発展から、ヘーゲルのように自己意識の絶対化過程を分かることも出来る。
それは、ある意味、世界精神と言う名前で、神の精神を分かっている。」と言った。
ポールは、「今まで漠然と考えていたものも、実際に自分で経験することで、内面化して分かることが出来る。
経験は力だ。
経験することで、ビジョンも見えて来るし、本当に目指すべき道のようなことが、実感して見えて来る。
直観力と洞察力もつく。
正しい世界観や人生観のようなことも分かる。
正しい認識もそこから生まれるだろう。」と言った。
ケビンは、「何かを信じるってことは、自分の毎日、自分の人生を変えることだ。
まずは、そこからだ。
信じて、ありのままを受け入れながら、人生を変えれば良いさ。」と言った。
エリックは、「社会的な活動をして、色んなことを経験すること。
僕らはこれでも、会社で経営や社会経験のようなことを沢山経験してきた。
君たちは若いけど、社会に出てしまったら、ただ従っているだけではつまらない。
自分で社会を見て、世界の動きを見定めて、自分からこの世界を変えるような、そういう気概を持つこと。
そして、研究のようなことや経験のようなことを沢山して、本当に仕事を楽しめるように、自分の出来る範囲を広げて、本当にこの世界を変えるようになるんだよ。」と言った。
ポールは、「子供には、自分の置かれている状況や立場を教えること。
それだけで、子供は賢くなる。
自由を与えて、分かっているものがアドバイスを与えれば良い。
あとは、自分で経験することで、いくらでも大人になって、いくらでも環境のことに気づいて分かる。
全ての人間や、全ての問題や、全ての信念が、全て同じであることが分かる。
そういう風に子供を育てるべきだ。
自分なりの考え方がつくだろう。
自然に出立する、と言う言葉も、そのことを良く表している。
最近は、そういう人間が多い。」と言った。
エリックは、「懐疑主義者が言うように、全てのことを一度は疑ってみるべきなのかもしれない。
でも、疑うことと、経験することは、どこかで繋がっているんだ。
それは、ある意味、疑うことで、信じて、正しいことを経験して、自分なりにどう考えるべきか、同時に、考えるためにどんな指標や経験があるか、のようなことが、経験的に分かって来る。
経験論の哲学者と、デカルトのような理性主義の哲学者は、そういうところが同じだ。
それこそ、疑うのは難しくは無いが、正しい理由を知って信じるのは、ある意味、疑うことよりももっと難しい。
それも、おかしな論理では無い。
本当にそのことを信じることは、本当に疑って自分なりに考えることと、同じぐらい難しい。
ただ、盲信的に信じている、と言う段階が最も遅れている。
自分なりに考えることから、信じ、反省し、実現し、自分の一部として取り込むこと。
そこまで行って、初めてマスターへと近づける。
一番難しいのは、実現する、と言う段階であって、そこまで行くと、自分なりにどんな人生を生きるべきか、という、倫理的な段階へと進む。
キルケゴールは、それを実存的段階にした。
そして、1つ1つ確かなことを信じていると、そのうち全てが分かる。
デカルトが言うように、正しいことしか信じないべきだ。
嘘や戯言を信じていると意味が無い。
だが、意味が無いものは、信じないことにして、人の言うことは無視して、自分で真実の経験をすること。
ただし、人の言うことを完全に無視してはいけない。
言っている意味を、自分なりに良く考えて、合理的で明晰な考え方をし、洞察すること。
全員の本質がそこから分かる。
だが、自分なりに考える、と言うことは、人々の言っていることを無視する、と言うことに繋がる。
それは、ヤスパースのように、本来の自己に立ち帰るとか、集団に没しない、と言ったことに近い。
そして、創造的な体験をしていると、理想の社会が人間性から分かる。
そこでは、既に分かっている経験的な考え方から、知性と思弁哲学と支配の能力がある。
ヘーゲルを参考にしても良いんだ。
絶対理性とか、絶対者とか、ヘーゲルは絶対的に考えるけれど、内容を良く見ていると、相対的なことや、一般的な人生の成長の経緯や過程のようなものが多い。
徳の騎士とか、良心とか、ヘーゲルは誰にでもあてはまる、一般的成長や青春のようなことを言っている。
その上で、全ては自分であるとか、関係的、普遍的なことを言う。
ヘーゲルはおかしくない。
誰でもヘーゲルのように確信し、覚醒する。」と言った。
ポールは、「何か、夢や目標のようなことをやりたいなら、馬鹿なことでも、やり続けて、そこから独自のことを自分なりに分かること。
馬鹿なことでも、続けていると賢くなる。
下積みのような経験を永遠にすると良い。
それは、勇敢な戦いであり、諦めない希望であり、治らない病気の治癒であり、科学者の発見であり、神を信じる心なんだよ。」と言った。
ケビンは、「サルトルは、参加を拘束であると言っているが、基盤や参加のようなことから、自由な把握や環境のことが考えられる。
自由と言う視点から、自らに由来する、と言う意味で、この世界の自由な様相を考えられる。
哲学的に人生と心を考えることで、作家が言うような、正しい生き方のようなことが、受容的、批判的に見えて来る。
そして、時間と存在から、ハイデガーのような実際的な実存主義が分かる。
そういうわけで、哲学に、ある思想とある思想の境のようなものは無くて、ハイデガーも、サルトルも、ある意味、経験的に言って、同じことを考えている。
だから、全員を目指さなくても全員になるし、ある意味、哲学のことなんか何もしなくても、哲学者全員のことは出来る。
哲学を一般的に説明すると、知や真理の学問でもあるけれど、誰もが思う、普遍的観念の学問であり、普遍的に、あらゆる人々が同じように思うような、普遍人の学問だと言える。
デカルトからヘーゲルまで、全員が、普遍人を考えている。」と言った。
エリックは、「哲学は、ある意味、社会のことも考える。
ヘーゲルは、言ってしまえば、心理学、論理学、社会学など、あらゆる宇宙の全分野を考えた。
キルケゴールは、人間の段階のことを考えた。
キルケゴールは、ヘーゲルを人間の心のことを考えていないと言うけれど、哲学者なら、ヘーゲル的にも、キルケゴール的にも、どちらも同じように分かって、どちらの立場でもあるべきだと思う。
哲学を全分野出来る人間は多い。
ヘーゲルは、普遍的生命から生命が生まれたとか、市民社会は、市民が社会のためであり、社会が市民のためであるべきだとか、ある意味、全体主義的に世界の理や考え方を理解するところがある。
また、絶対的かつ相対的に真実と過程を考えるところがある。
ヘーゲルは、青少年のような、精神の成長の過程を考えるが、本当に正しく人生が分かっている。
不良に見えるのは、不良にはヘーゲルと同じように分かる人間が多いからだ。
ある意味、やくざにも見えるし、優等生にも見える。
数学者にも、古代人にも見える。
もちろん、弁証法も言っているが、法則的、人生経緯的な、弁証学的な知と論理の過程のようことを考える。
そういう、全体主義的に、絶対的に社会のことを考える背景には、絶対主義のプロイセンの頃の人間だった、と言うことが背景として言えるかもしれない。
それこそ、民主主義の世界に生きている僕たちには、分かりづらいところがある。
ヘーゲルは、プロイセンを歴史の終着地点だと言っているけれど、今の僕たちから見ると、平成が終着視点に見える。
それこそ、ギリシャやローマなど、ヘーゲルは世界史のことも考えるし、精神や知や世界の過程も考えるし、未熟な人間が成熟し、哲学者となる、発想や人生のことも考える。
最後の哲学体系と言う。
それこそ、カントも良く似ている。
カントは、あらゆることを、知性的に、ある部分を全部言うところがある。
カントは、正しい考え方をして、一番賢いことを言って、カント的な言葉で全てを分かる。
そういう、言葉を作る哲学者だ。
デカルトも体系的だが、本は薄いし、内容も読みやすい。
それら、3人が、普通一番賢い人間だ。
ソクラテス、プラトン、アリストテレスの三人とも、良く似ている。
ある意味、孔子とブッダとゾロアスターにも似ている。
賢い人間は、三人で現れるのかもしれない。
ガブリエル、ミカエル、ラファエルも同じだ。
ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロとも良く似ている。
バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンとも同じだ。」と言った。
ポールは、「有用性や功利主義や個人の自由を信じるのも、おかしくはない。
ただ、それは、成長して、経験して、高まって、良心や理想の社会や共同体の自由になる。
そこでは、全てのことが、絶対的、法則的に分かる。
そして、宗教へと至る。
ヘーゲルもおそらくそういう人間だ。
精神現象学は、そういうことを書きたかったのだろう。」と言った。
エリックは、「カントも、理性批判のように考えるが、理性批判をしていると、誰でも、カントと同じになる。
哲学を難しいとは言うが、カントは出来る人間が多い。
誰でも、考えていると、カントと全く同じになる。
事前に考えるとは言うが、常識的に、普通に、正しく考えているだけだ。
こういう、哲学を勉強している馬鹿の方が、分からない。
カントは、誰でも普通に分かる人間しか居ない。
知性があって、言葉が賢くて、きちんと分かっていて、何が重要なのか、何を考えるべきなのか、どこを考えれば分かるのか、何をどういう風にする時に、それは何で、何が元になっていて、普通、前提条件や様相などの時に、何をどういう風にして、それを実現し、そのことが起きる時に、何を事前に考えるべきか、そもそも人が何を分かるのか、誰もがどういう風に認識や経験をしているのか、そういうことが分かっている。
カントを誰でも分かると言うが、見ていると、辛い。
知性があるのは分かるが、カントはつまらない。
普通過ぎると言う。」と言った。
ケビンは、「哲学者の良い点は、自由に考えることだ。
本当に、色んな経験をしながら、正しく自由に考える。
そういうわけで、哲学は青く見える人間が多い。
本当の意味で正しく、本当の意味で自由に考える。
思考を紐解いて、辿って、実際と仮想を照らし合わせて、本当に自由に考える。
そうすると、デカルトやカントやヘーゲルと同じになる。
哲学は、そういう、自由な学問だ。
最初から、自由と哲学は同じものだ。
逆に、社会主義や神は、赤かったり、白かったり、黒かったり見える。
それは、皆を同じにして、戦うからだ。
そういうわけで、哲学が自由で、神と社会主義が平等だ。
それが一番良い。」と言った。
ポールは、「先入観無く、考えること。
あらゆる前提を排除して、ゼロから物事を考えながら、この世界の人々を真摯に見つめ直して、自分なりの出来る範囲で行動し、その行動を拡大させること。
成熟してくると、思考に先立つ経験をするようになって、サルトルのように、正しいソクラテスの経験が出来る。
ただ、哲学は、キリスト教と何も変わらない。
それは、ある意味、神が哲学者で、宗教が哲学だからだ。
哲学的な知や方法や経験論を変えているだけで、キリスト教と哲学は同じものだ。」と言った。
エリックは、「そして、自分を何人か、沢山作ると良い。
自分がどんどん増えて行って、2人、3人、4人、5人、7人、9人、12人となって行く。
最初は、ドイツ人とか、現実に在る人間のことを考えるが、それがしだいに観念的、パターン的、段階的になって行き、自分を2人に分けるようになり、それが3人、4人と増えて行く。
そういう、自分を分ける体験は馬鹿に見えるが、むしろ、楽しくて良い体験だ。
カップルが子供になって、兄弟が増えて行く。
最初から、生命とは、そういう風に、自分を増やすものだ。
それは、間違っていなくて、本当の愛と言う側面から、普通の体験だ。
自分を、フランス人のガブリエル、ドイツ人のミカエル、ユダヤ系ロシア人のラファエルと言うことにすれば良い。」と言った。
ケビンは、「神は、現れない範囲で色んなことを起こす。
何故か、神がいつも起きているのが、分からない人間が多い。
神は、神のように現れることを嫌う。
出来るだけ、物理法則を変えない範囲で、色んな良いことを起こす。
そういうわけで、神は本当に居る。
神と言うよりは、宇宙の集合意識のようなものだと思えば良い。」と言った。
ポールは、「影響力の風上に立って、人々の立場と考えていることを吸収して、人の視点に立って、全員を融和して、自由に考える。
そして、文章を書いて、全てを決めて行って、判断して、作って、如何様な自分を全部作る。
それだけで、全て分かるのさ。
そこでは、宇宙の全てのシステム、社会の全ての意識、全ての環境、人格、意識、構造、構成員、条件、成立過程、形成過程、実現過程、自由を留保し、あとで実現すること、経験を可能にすること、のようなものを考えられる。
構造と構成員から、段階と人生と皆の考えている、活動を知って、経験から涅槃へと至る。
涅槃へと至る段階を、文章に書くと良いだろう。
涅槃とは、悟りの境地であって、自分なりの経験と想像力と考えの全てだ。
カントのように、様相的な可能性や経験の必然性を考えても良いし、自分なりに、その社会の形成条件のようなものを考えても良い。
パターンを応用すること。
そういう、考え方に、飾りのようなパターンを付け足すことで、基盤的、論理的に考え方を知ることが出来る。
自然から何が生まれ、批判の中で何が勝つか、のようなことが、それぞれが何を出来、何を意味し、何を行為し、何を条件下し、何を決めるか、と言った、自由から分かる。」と言った。
エリックは、「ありえない考え方は、子供だから生まれる。
そういう子供は、賢く見えて、賢くない。
子供に賢い人間は居ない。
馬鹿に見えて、普通の大人が賢い。
ただ、大人になる経験は悪くない。」と言った。
ケビンは、「何でも経験すること。
成長し、振り返る中で、正しいものの見方、経験的な判断基準、構造的で概念的な知性、などが見えて来る。
経験から、あらゆるものに対する対処法と、正しい認識や正しい人格が分かる。
何でもかんでも経験していると、社会のことを知って、いやおうなくこの世界の社会経験が見えて来る。
それは、馬鹿では無い。
むしろ、やくざのようなところがあるから、あまり良いとは言えない。
だが、社会経験は良いものだ。
社会変化の経験を積むことで、ダビデのような、偉大な王になれる。
行動規範や人間像のようなことから、歴史的な文化の変容のようなことを知って、この世界における、人間の経験がどのようにあるのか、真理とは何なのか、が分かるのだよ。」と言った。
ポールは、「人間は、色んな環境を体験すると分かる。
それから、考えるのは良くない。
考えるより、感じた方が良い。
考えていると、左脳がつく。
感じていると、右脳がつく。
考えれば考えるほど馬鹿になるのは、左脳がつくからなんだ。
もっと右脳をつけた方が良い。
そういうわけで、馬鹿なことをしている方が、右脳がついて、賢くなる。
もっと、想像力で、感情や予測のようなことを考えれば良い。
右脳は、物理にも多い。」と言った。
エリックは、「他人から一度離れて、真実の経験をすること。
そこから、全ての過去のこと、他人のことを許して、新しい今へと旅立てる。
自己意識の経験が始まって、経験的に知性を知り、社会を知り、運命を知り、環境を知ることが出来る。
そこから、夢と挑戦が始まる。
そして、繰り返し体験しながら、夢を追いかけて、社会的な経験をし、個人の自由は共同体の自由となり、1つ1つの自由な積み重ねが完成して、全てが分かる。」と言った。
ケビンは、「自分で考え方を作って、基礎の構造をモデルのように作って、自由な背景と体得的な知を、考え方のモデルと照らし合わせて考えること。
言語的、応用的、法則的、システム的、把握的、分析的な、自由な分析が出来る。
ある1つのことは、本質的に説明される、モデルの考え方から、もっと深く、全体の位置の中で、方法と経験として理解出来る。
ある意味、フッサールのようだけど、もっと単純で、知は本質的な考え方のモデルから説明出来る。
決まりのようなことも、経験と知性とその人の捉え方でしかなくて、歴史と数学的な可能性から、法則のように、正しく知って体得することが出来る。」と言った。
ポールは、「出来ることなら、言語的、感覚的に超越して分かりたい。
言語を改良する、と言う手段もあるかもしれない。
日本語のまま、英語的な順番には出来るかもしれないし、漢字やエスペラントの文法をありえなくは出来るかもしれない。」と言った。
エリックは、「そして、実際とモデルや、現状分析のような、社会的、存在的、方法的な未知の捉え方はあるだろう。
経験から、ネット社会のようなものも分かる。
また、環境は変えられるし、人々の目線を支配出来るし、社会を心理から実現出来ると思う。
ネットを知り尽くすのは悪くないが、行動的であるべきだ。
そして、限界まで努力して、何度も諦めず挑戦する。
人生的で、社会的な、集合知と環境活動のような言葉になるだろう。
意識は自在となるだろう。
それは、その後で、聖なる戦いとして、イスラムの言う聖戦のように、新しい体験として、集結するだろう。
それが、宗教的な、黄昏の戦いだ。」と言った。
ケビンは、「自発的に行動し、経験し、作ること。
それが、自由と言う行動の意味だ。
そして、戦いながら、永遠を生きること。
本当に永遠には生きられないけれど、永遠のような体験をすることは出来る。
神を信じて、大人の常識を得るのも、悪くない。
社会を知って行く中で、自分が出来ることが増えて行く。
一度失うことで、成功を得られる。」と言った。
ポールは、「一度ネットで経験しながら、人間と社会を知って、全員を知り、そこから社会の全体像を見ると良い。
全員のことを、環境的、人格的に知って、プラットフォーム的な考え方を理解し、経験を把握して、あらゆる人間を融和して分かる。
そして、正しく自由を考えることから、理想社会が見えて来る。
人の会話から、孔子のように分かる。
ただし、全てが終わったら、もう、この世界とは付き合わなくて良い。
それ以降は、自由になるように見えて、自由は無くなる。
世界から離脱して、宗教的に生きるようになる。
キルケゴールは、美、倫理、宗教の実存的段階があると言うが、ネットと社会、システムと理想、革命と神、病気と治癒、教養と執筆、成功、のような段階がある、と言っても良いと思うよ。
俯瞰的に高い立場で社会や人生を知ることは、心の内面化と表裏一体だ。」と言った。
エリックは、「ヘーゲルのような、偉大な人間になるためには、知性と精神から、ものごとを見なす、説明する、正しいと論証する、と言った、思弁哲学者のようになる必要がある。
テーゼとアンチテーゼからジンテーゼを作る、ヘーゲルの弁証法も、そういう、思弁哲学の1つだと思えば良い。
あらゆることは、そうであること、ないことから、推論して考えられる。
2つの意味から、なぜなら、そうであるならば、と考えられる。
批判のようなことも、ある意味で、次への一歩であることを、経験的に分かる。
そして、一度した思考の意味を良く考えて、思考を再度することによって、再思考から、世界観を作り出すことが出来る。
独自の思弁哲学だ。
ただ、思弁哲学は、もっと執筆的に考えられる。
思考のパターンを創って、永遠の弁証法を創造する。
永遠の弁証法の思考のパターンを体験する。
そこでは、自分が神であり、自分が王であり、自分が指導者であり、自分が救世主であり、自分が革命家なんだ。
そういう体験をする人間は、居ないように見えて、多い。」と言った。
ケビンは、「ヒュームやマルクスのように、知性的に考えると、経験のことが良く分かって来る。
人々が何を考えているかを知りながら、何故違うのか、何が同じなのか、のようなことを、法則的に、具体的に、知性で考える。
経験、と言う発想は悪くない。
何が何の経験に根差しているかを考えながら、経験的にどんなことが分かり得るかを考える。
その環境と前提条件から、何が分かるかを考えて、自分は何を考えているのかを良く見つめ直す。
経験から、社会と知性のことが分かる。
独自の経験論哲学だ。」と言った。
ポールは、「明らかに正しいことを信じながら、皆の知識と知性の延長線上を分かって行く。
知恵と工夫から、機械の設計、社会実現のような、考えるべきこと、知性のことを自由に考える。
認識を吸収する。
そういうものを、自由なこの社会の取り得る可能性であり、決定することの出来る、留保の可能性であると言える。
そういう風に、信じて、経験して分かることが出来る。
それは、ある意味、ヘーゲルのような、意識の変転とも合致する。
ヘーゲルは、認識と対象が同じになる、合一のようなことを言っているし、ハイデガーも、存在の超越や了承のようなことを言っている。
そういう風に、合一化して、吸収して分かることが出来る。
意識から、世界の全ての存在を吸収出来る。
それは、既に、神の精神になっている。
そういう風に分かる人間は、少なく見えて、一番多い。
また、社会のことも、留保的に分かる。
公開、共有、手段、多様性のようなことが分かる。
それは、単なる留保には留まらず、決定的な、断言のようなものへと、必然的に変貌する。
それは、ある意味仮定的で、ある意味スターリンのような、自由な確信と悟りに変わってくる。
そういうことを言っているように見えるのが、ヘーゲルの精神現象学だ。
あとは、水の循環や自然と人工のような本質的な関係の考え方を分かっても良いし、事前の考え方を作ったり、初期投資や再利用のように考えたりしても良い。
森羅万象を自由に考えられる。
能動と受動から、主観と客観のようなことを考えても良いだろう。
客観的事実を信じることで、経験的な間違いと思い込みが分かる。
そういう心理学が多い。」と言った。
エリックは、「善悪や社会のことは、自分の力で考えるべきだ。
あとは、思弁哲学のようにすると良い。
論理的に、この世界を分析出来る。
哲学的な目的だけではなく、政治的、技術的、理性的に、人は賢くなれる。
そして、他の人を賢くさせることが出来る。
何でも出来る。
頑張れば、出来る人間が多い。
能力主義の自由を信じると良いだろう。
学習し、能力をつけ、基礎を築き、経験し、会話し、自在に考えることから能力がつく。」と言った。
ケビンは、「自然から社会まで、感覚で知ること。
そして、人生と習得から、全てを知り尽くして、科学を作って、皆の考えていることを知ること。
学習と場面から、人間生活の全てを知って、共生社会を作って、人生を創造する。
社会は、共同体から多様性を作るように、ロシアのような世界を全部作る。
神に教わる。
それで、不可知が分かる。」と言った。
ポールは、「MITやIBMのように、コンピュータのことを知り尽くすのも良い。
Linuxのことも、コンパイラ、コマンドライン、設定と初期化のスクリプト、ディレクトリ構造、パッケージシステム、カーネルのように分かる。
System Vの仕組みがそこから分かる。
プログラミング言語は、PerlやPythonのようなものを知ると良いだろう。
ただ、Linuxの世界は、日夜変わっているから、変更はあるだろう。
Linuxだけではなく、コンピュータやインターネットのことを知り尽くす。
最近そういう人間が多い。
パソコンのことをやっていると、数学や物理が神ほどに出来る。
それを目指すのも良い。
UNIXやWindowsには、拡張性とプラットフォーム性がある。
Linuxには、共有によって、あらゆる人間が作ったものを吸収する、と言う賢さがある。
ネットのオタクがバザール開発で共同開発するせいで、爆発的に発展した。
ただ、給与と報酬は払うべきだろう。
それに、GPLは悪い。
二次的著作物の自由な改変を制限してはならないのは分かる。
だが、自由に使える、と言っておきながら、それを同じライセンスにしなければならないのは、気持ちが悪いし、自由に見えない。
全てのものをGNUのものにしたいだけに見える。」と言った。
エリックは、「想像力をフルに使って、体験と心の把握、応用とインフラ、抽象的で物理的な予測、論理学と理性批判、客観的事実と仮定との比較、過程と経緯と自然の考え方、のようなことを実践して、そこから、社会実現を支配して、経験から実現する。
意志の伝達や、影響力のようなことを考える。
そういう風にしても良いだろう。
感じることから、宇宙のことが分かる。
人間のことは、全て実験から見えて来る。
人間はそんなに変わらない。
それから、おかしいものをおかしいと思うと、賢くはなるが、あまりおかしいと思わない方が良い。
子供に戻って、何もおかしくない、そういう自分を許してあげること。
賢くておかしい子供は賢くない。
大人は、おかしくて良い、馬鹿で良い人間が多い。
ただ、自分をおかしいと思うと、賢くなる人間も多い。
それもそれで、おかしくはない。」と言った。
ポールは、「実体験、基礎、事前の考え方を作りながら、全員のことを知る。
本当に科学者のように、全てのことが分かる。
ネットの経験から、人生と社会が分かる。
そして、日本語だけの力から、全てのことを覆すように、ゼロベースの理性で分かる。」と言った。
ケビンは、「全員を融和して、自分の過去を思い出して、先入観の無い、客観的な体験をして分かる。
新しい実存主義と、認識の観念論を、比較とインターネットの人生経験から作る。
それも良いと思う。
ただ、偉大な下積みの経験から、プロフェッショナルになるのも良い。
それは、いくらでも、馬鹿なことをまっすぐにやれば良い。
よそ見をせず、失敗を出来るだけせずに、最後まで頑張るためには、希望を諦めないことだ。
勇敢に戦うことから、本当の自由の意味が分かるのさ。
全ては、自由と行動だ。
現象学や、実践的な行動と社会構築のようなことを、経験で分かっても良い。
全ては経験と想像力だ。」と言った。
エリックは、「社会を知って、経験しながら、ネットを見て成長して、論理と経験を作って、社会の変化を知って、古代ギリシャの哲学者のような、哲学的論理のようなものを、全て分かる、そういう体験をしても良い。
古代ギリシャの歴史や文明のような人間になるだろう。
数学のように、哲学的考え方を積み重ねて、実感して、体験的に分かる。
昔の哲学者を全て分かる。
デカルトの言う、一度全てを疑う経験をするべきだ、とは、そういう体験のことを言っているのかもしれない。
それが、精神分析をしていると、本当に、ブッダのように悟ることが出来る。
正しい推論や実験の考え方と認識が分かる。
神の眼のような、ビジョンのようなことや、仏の慈悲が分かる。
正しい実践と悟りの方法が分かる。
それから、環境への適応をするのは良いけれど、それは、ある意味、ロボットのようなものになっている。
ロボットになると、分かるのは良いが、本当に、ロボット人間のようになって、地獄のように辛くなってしまう。
分かるのと、ロボットになるのは、同じだ。
それは、悪いことをしているからそうなる。
皆をロボットにして、自分のコピーにするのはおかしい。
そんなに分かるのが、一番頭が辛くなる。」と言った。
ポールは、「相手の立場を考えて、視点と環境を成り立たせる。
具体的なプロセスと客観視を考えて、応用や実現方法を考えることで、想像力がつく。
ただ、何より、色んな普通のことを知ること。
ネットを上手く利用して、普通のこと、社会のことを沢山知ると良い。
成長することで、大人より賢い子供になれる。
それが賢い。
ソクラテスのような、無知の知のような、賢い人間になれる。
それが、マルクスやアドラーのようなことを考えていると、本当に全てのことが分かる人間が多い。」と言った。
ケビンは、「色んな未知のことを、捉えて分かると、色々と分かる。
捉える、と言う発想が重要なんだ。
心から認識まで、色んなことを捉えること。
色んな人間のしていることを捉えていると、本当にロックやヒュームのように分かる。
そして、経験論のような文章を書くと良い。
観念の経験的習得、獲得のようなものを、人間像から考える。
また、経験から知性と感情で分かるとか、経験論的なことを人生経験から分かることが出来る。
認識を推論して、認識から、共通認識、経験的知性、環境の違い、習慣を考えられる。」と言った。
エリックは、「ニュートンのように、実在と様相から、この世界を考えられる。
根拠と関係と可能性を考えて、具体的な人間と自然と社会のことが分かる。
理性的に考えるんだ。
それは、そのまま、デカルトのような、理性主義の世界観の哲学になる。
実際のところを良く考えて、昔の環境を思い出して、人生の場面と経緯を考えれば良いのだよ。
そして、集団のようなことを考えるために、環境への適応と因果性を考えるんだ。
認識と環境を作って、学習と経験と方法を辿って、意志と思考の伝達を考えて、歴史を知る。
いつどうなるか、何がどうなるかを考えて、科学を作って考える。
心の作用と反応を、意識と環境から考える。
あらゆる経験を自在に掌握して、社会的な影響力を知る。」と言った。
ポールは、「決まり、経験、影響力、方法、意志、自己、関係、集団、のようなことを知性で考えれば、体得的に、ニュートンのように、心と数学のことが分かる。
解く、証明する、と言うだけでは無く、構築し、依存し、必要とし、様相とし、前提の考え方と条件にすることで、自分の数学と体得が作れる。
そこでは、ネットのような、環境的土壌のようなものも考えられる。
そして、環境と自由から、社会意識や世界精神が分かる。」と言った。
ケビンは、「心理学、数学、物理学、教育学、情報工学、政治学、生物学、歴史学、経済学、文学、言語学、語学、哲学、の順にして、フランス、スペイン、ドイツ、イタリア、ロシア、アメリカ、イギリス、オランダ、日本、中国、インド、黒人、イスラム教徒の順にやると良い。
そして、虫、魚、爬虫類、鳥類、哺乳類、人間、植物、天使、宇宙、新しい生命、宇宙人の順にやると良いだろう。
別の網羅では、言語学、コミュニケーション学、論理学、システム工学、倫理学、形而上学、理想の社会学、マルクス経済学、法律学、統合数学、経験心理学、ロシア経済学、哲学、詩文学、フランス文学、ドイツ文学、キリスト教神学、網羅の哲学、世界史と日本史、独自の臨床心理学、統合生物学、新発見の科学、物語文学をやると良い。
フランスの理性と善の神と、ドイツの運命の神になる。
基礎を作って、環境のことを知って、工学的なことを知って、心理と世界観を解明して、人文科学と社会科学を作る。
そこでは、正しい正義から、人格と知を作って、自由な正しい理想の社会を築いて、自分から始めた戦いを、最後に終わらせるまで、永遠に体験する。
地獄の中で、厳しく自分と向き合い、正しい戦いのために努力する。
自分が悪いだけだった戦いは、最後に勝利して、見事に自分が賢い、そういう結果に終わるのだ。
あとは、組織社会や環境、国家や意識など、社会的な自由を分かると良いのだよ。
それから、感情、理性、発想、人生の可能性の発揮のような、心理的なことを分かっても良い。
あとは、地方や政党の自由な政治や、独立社会、組織による共有などを考えれば良い。
それから、神と対話するとか、ロシアの大統領になるとか、イスラエルの王になるとか、言える。」と言った。
エリックは、「一度、自分の分かっていることを、全部疑うこと。
見ていると、自分の分かっていることが馬鹿なのが、分かっていない人間が多い。
デカルトも言っているように、一度は、全てを疑う体験をするべきだ。
そのために、根拠と経験から理性を考えられる。
ただ、信じることも、それはそれで、悪くはない。
神を信じる体験を一度すると、普通の人間が何を分かっていないのか、が分かる。
普通の人間の限界が分かる。
ある意味、デカルトもキリスト教も、目的としているものは同じなんだ。
普通の人間の限界を知って、何を思いこんでいるか、何が本当に正しいか、理想か、を知る体験なんだ。
あとは、見ていると、馬鹿なものを賢いと思っている人間が多い。
賢くないものを賢いと思っている。
馬鹿は賢くない。
オープンソースなんか、何も賢くないだろう。」と言った。
ポールは、「親の話をきちんと聞いた方が良い。
それが、世間と世界を見ることで賢くなる。
親を信じない人間は、賢く見えて、馬鹿になる。
親を信じて、その後に世界を知ること。
それで、馬鹿が治る。
本当に馬鹿になった人間は、親を信じれば治る。」と言った。
ケビンは、「推論は、何か1つのことから、別の1つのことが言えるのを考える。
推論からモデルを作って、実験すること。
1つの心の解明から、全部の心が分かる。
パソコンなら、Gentoo Linuxの仕組みから、全てのLinuxとUNIXが分かる。
認識の仮定と法則を考えて、解き明かす。
環境からその状態が分かる。
そういうものを、推論と言う。
経験的に推論すると良い。
そして、全員の延長線上を経験から分かって、全員の活動を分かる。
認識と意識から、それぞれがどのように活動しているか、環境の中で意識がどうなるかが分かる。
意識は環境に支配される。
また、初期投資と再利用から自由な社会構築と準備の理性が分かる。
そして、科学を作ることで、森羅万象が分かる。
細かいところを言えば、物理的なこと、社会形成のこと、経験から社会を分かること、集合知を実現することなど、色んなことが言える。
推論を段階的に知ることで、社会と人生の段階を考えられる。
考え方を知ることで、自然なこの社会の道理が分かってくる。
それも悪くはない。」と言った。
エリックは、「哲学的に考えるなら、知と実体の捉え方を考えても良い。
それが、人間の側にあるものなのか、自然の側にあるものなのか、関係なのか法則なのか、良く考える。
そこから、生命のことを、まるで機械のように考えられる。
デカルトも、そういうことを言いたかったのだろう。
医学の未発達な昔の時代では、デカルトの言う、人間を肉体と精神に分けて考えるとか、仏教の言う、身体を不浄のものに見なすとか、そういう発想が多い。
全ては、神が導いて、第一原因としての神が存在するように見えた。
今の、科学的な理性の世界では、頭の中の空間を大きく満たしている、脳と神経が心の働きをすることも分かっている。
それは、デカルトや科学者の科学革命によるところだね。」と言った。
ポールは、「法則を解明することから、全ての道が開ける。
実体験と具体例から、全ての法則を解明する。
そして、どのようにすれば、変えられるのか、それは何故かを知って、真理を作る。
真理を知ることから、本当の知性がつく。
融和された上での、本当の安心や、涅槃に至る段階のように分かる。
それは、哲学というより、宗教だね。」と言った。
エリックは、「推論から、実在と予測の世界を分かること。
推論すると、ものの正しい特性と、デカルトのように自己が存在するのが分かる。
推論からモデルで分かると、ロックのように、知性から新発見ができる。
推論で分かるとはいうが、推論では分からない。
推論で分かってしまうと、新発見が出来るが、全部分かったら、分からなくなるのが良い。
それこそ、推論では何も分からない。
分かってから、分からなくなると分かる。
それこそ、特性だけではなく、環境や心から、森羅万象を推論で考えられる。
そこまで、経験と理性で、全部考えれば良い。
そういう、全てを考える人間は男に多い。
男は賢いが、女は、生に執着しない、命を惜しまない人間が多い。
それは、本当にそこまで色んなことがあって、耐えて、頑張って解決する女が多いからだ。
女はおかしい。」と言った。