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ヒューム

イギリス経験論の哲学者。

ヒューム

ヒューム。

画像はパブリックドメイン。

ヒューム

自分の書いたブログ「わたしの名はフレイ」2020/09/07より。

ヒュームは、イギリス経験論の哲学者。

人間の持つ認識をよく考え、認識を「印象と観念」としながら、それを単純なものと複合なものとして、複合観念(たとえば赤ん坊に翼の生えた天使)などは、そもそもがペテンであるとする。

また、人間の習慣を「よりよく生きるためのガイド」とした。

デカルトなどの合理論が正しい推論すなわち「演繹法」を重視するのに対して、イギリス経験論では経験から分かってくる知性や発見である「帰納法」を重視するが、ヒュームは経験から分かりながら推論を行って発見を行う、「帰納的推論」を唱えた。

少し過激な主張が目立つところもあるが、実際は「そこまで考えるか」というところまで考えられたことを言う、賢い兄ちゃんのような哲学者である。

複合概念

ヒュームは、人間の持っている認識を印象と観念にし、それを単純なものと複合なものとし、たとえば天使が赤ん坊と鳥からなっているように、複合観念は本質的に「ペテン」であると考えた。

帰納的推論

ヒュームは、ベーコンのように帰納的に考えることから、因果性を推論で考えられると考えた。帰納的推論である。

後日注記:帰納的推論はヒュームの経験論の要で、「経験的に分かったことから推論し、正しい考え方と判断力を見つける」という、今のAI・人工知能の機械学習・ディープラーニングに近い哲学である。

正しい見つめ方

ヒュームは、ものごとが関わり合う中で、ものごとを正しく見つめる眼のようなものを持っている。

ヒュームには、絶対的真理を相対的に見つける、「眼力」のようなものがある。

経験論哲学

ヒュームは、この世界における全ての観念的なものを「経験的」に考える。自分の人生において、何が自分に観念を与えたか、何がその経験を作り出したか、問題をそうであると何が規定したのか、などを考える。全てのことは外界からの作用であり、あるのは「慣習という名の優れたガイド」であるが、本当に人間にあるものは経験的に生まれた知覚だけであり、それは慣習や制度まで含めて、全てが経験的に分かり、知り、考え、そして環境から影響されてきたものなのである。

ヒュームのように考えるコツは、「何から何が生まれたのか(生まれるのか)」を経験的に考えることである。この世界の全てを疑いながら、精査し、検査し、分析し、全てのことを「何が何をもたらすのか」という「主体的な行動と慣習的な経験」から考える。そのようにすれば、ヒュームだけではなく、ブッダのような考え方にも同時に至ることができる。

後日注記:ヒュームの考え方や発言は、ブッダの言っていることと類似する。両者、とても賢いことを言っている。それは、「経験的な帰納的推論」という考え方がある種の到達点であることを表していると僕は思う。

ヒュームは自らの経験だけを信頼している

ヒュームは、経験を信じています。あるいは、自らの経験だけを信頼しています。

ヒュームの言う「帰納的推論」とは、自らの帰納的な経験に基づいて推論を行うということであり、「思考するよりも前の段階で経験したことから思考する」ということです。

このようなことは、自らが培った「経験の土壌」があるからこそ言えることです。

また、ヒュームは「習慣は偉大な人生のガイドである」と言いますが、これも、自らが経験したことに基づく習慣が、ガイドとするにたる「正しい経験」であるからこそ言えることです。

なぜ、ヒュームがここまで自分の経験を信頼できるのか、それは経験的に明らかになったことしか信じていないからです。

ヒュームは、経験に伴わない、「頭の中にしかない観念」が嫌いです。これは赤ん坊と鳥の翼が一緒になった「複合観念」をヒュームが否定するところからも見てとれます。

ヒュームは、客観的な経験から明らかになったことを信頼します。これは、ヒューム自身がそうした客観的経験に対する「観察眼」を持っている、ということからも言えるでしょう。ヒュームは、この世界を経験論という立場で、デカルトとは逆の立場で疑います。経験以外の何も信じないことで、逆に経験から必然的に発生する「帰納的推論」を知ることができたのです。

ヒュームの言葉

読まずに死ねない哲学名著50冊」より引用。

“いかなる原因がわれわれに物体の存在を信じさせるようにするのか、と問うのはかまわないが、しかし、物体があるのかないのか、と問うのは無益なことである。”―ヒューム『人性論』

著作

「人性論」、など。