数学その他の世界観です。
僕が思うに、学校の数学は学ばなくて構いません。それは、「学校の数学は数学じゃない」からです。
二次方程式や二次関数や三角比など覚えたところで、何にもなりません。数学とはそういうものではないのです。あまり詳しく言っても馬鹿を見るだけなので書きませんが、自分の手で数学を作り出すべきです。
僕は、人間の脳というのは、「その問題をどのように解決することができるか」と、「その方法で何ができるのか」を、その「着眼点」から考える機械だと思います。
意志を持ったり、意志を確認したり、方法を探したりするのは、全て、「問題の答えを考える」ということにすぎません。
そして、その問題とは「着眼点を考える」ことです。
ですから、数学やプログラミングの問題で、上手くいかなかったら「着眼点を変えてみる」ことです。そのように考えれば、どんな問題でも仮説を立て、検証し、方法を考えることができます。
数学的思考法には、以下のようなものがある。
・何かの数に関係して決まる数を考えること。
・何かの事実があることから、事実から推測して考えられる可能性を想定し、それを実証すること。
・既にある事実として提示されているもののみから、その事実の定義と推論を用いて、問題を解決すること。
・その解決策として提示された答えが、なぜ正しいのか、それがそうなると言う提示がある場合に、なぜそれがそうなると断言できるのかを考えること。
・決まりや事実を決める、親や法となる決まりを作ること。
・ひとつひとつの事実を積み上げ、積み重ねることで、ひとつの確かな方法から、この世界全体を推測し、あらゆることができるようになること。
・原理原則に対して、その原理に基づく調査研究を行い、社会における具体的な例を知りながら、原理原則を修正すること。
・今まで気付かなかったことに気付き、当たり前だと思っていたことを疑い、コペルニクス的転回のように考え、仮説を立て、実証することで、どのようにして生まれるのか、という問いから、その生まれるものがなぜ生まれるのかを、論理的に説明すること。
僕は、特にこの一番目の、何らかの事実に関係して生まれる「関係的事実」というものを取り上げたい。関係的事実を考えることによって、
・決まりと関係の前提となる数理的なモデルを作る
・仮定と推論から、実証することで、この世界の人間の行動や心理を解明する
・社会の中で、本当に大切な考え方、すなわち「何を実現するためにどうすれば良いのか」を知る
・実現性を考える上で、それが実際のところどのように在るのか、どのように考えれば解決できるのか、そのためには何が何の原因に立脚しており、どのような理由でそのままになっていて、それをどのようにすれば変えることができて、そのためにどのように行動し考えれば良いのか、そしてその理由とは何であり、その理由のさらに根源となる理由は何であり、どのようにすればその理由を変化することができるのか、を考える
・論理的に想定することで、今まで知らなかった領域の知識について、自らの思考と体験から、分析して知る
・実験すること、経験することで、感情で宇宙の法則と実感を知り、意識によって人々の考え方を知る
・人間の分かり方を考え、人間のそもそもの知性とどのようにものごとを自分の力で学び知るのかを知ることで、今まで経験したことのないリスクや対処策を身に着ける
といったことが可能となる。
ここから、精神と世界知における「可能性の開拓」が可能となる。そのためには、実際の世界を自分の目で知り、誰も経験したことのないことを自分の力で経験することである。
まずは、比較をし、共通項を探し、法則性を見出し、その法則性における可能性を仮定し、ある仮説に基づいて想定し、その上で、原理原則を見つけていくこと。
また、世界における「確かな方法」を知り、それが自由であっても平等であっても、少しずつ、自らの身の周りから事実を積み上げていき、少しずつその領域を拡大し、自らの体験の場と自らの影響力を高めていくこと。
そして、方法論と行動論は、精神論と啓蒙を経て、世界全ての領域へと拡大し、全てを変えていく。その中で、大切だと思う基準をどこに置くかを考えて、その基準をレベルアップさせていくこと。
そのように考えていけば、必ず数学は哲学者の理性をもたらす。そのために必要なのは、むしろ、数学よりも社会工学的な考え方であり、「その公式が何をもたらすのか」や「その公式が何に応用できるのか」といった数学的理性は、そのまま、「公式そのものを作り出す」といったように変貌していく。全ての公式を自らの身の周りの体験のみから構築し、インターネットなどのコミュニケーション技術を用いて、人間関係は新しい権力や世界全体の支配へと変貌していく。そこに、最後まであるのは「愛」と呼ばれる感情であり、それはまさに「平等な信念」である。
これが、フランス的な自由と平等と博愛の精神を持った、「哲学的理性」だ。
最終的には、人間全ての学習とフィルターを吸収して、どんな習慣や環境も、自分の力へと変えていく。全ての経験を持って、この世界の全員全部が理解できるようになる。
また、人生の宗教的な段階とは、「成長するにしたがって変わりゆく価値観の変転」と考えることができる。
まず、功利主義を信じて有用性だけだと思っていた少年は、体験から愛や人々との苦しみを共有することで、「人生には素晴らしい体験がある」という「自己啓発」を生み出す。
そして、それが、「他者に対する承認欲求」を満足させ、人々を「積極的に変えて行動していく」ようになる。
その上で、さまざまな仕事を経験することで、「本当に自分は知っている」という「確信」を生み出し、それが世界に対する「影響力と主導権の欲求」を作り出す。
だが、彼は影響力があるだけではなく、そこにはビジョンや明確な理想が必要であることを知っていて、世界において自ら活動していく中で、そうしたビジョンが何であるかが明確になり、また、それを実現させるための手段や方法も徐々に分かってくる。
同時に、数学的・歴史的・心理的な考え方を、自らの知った実体験だけで、「自ら作り出す」ことができるようになる。
それは大きな発想力とともに行動力となり、「人々を自分の周りから助けていく」ようになり、それが「絶対的な自己承認」となる。
また、自分の体験だけで、多くのことが十分に分かるようになったら、「人類を超えた宇宙的な精神論」を知ることになる。
自らの経験は最後まで達して、この世界を変えていく原動力となり、「宇宙全ての悟り」を得て、最後にこの世界に登場する。
だが、その登場は「自己矛盾している諦めと希望」が原因となって、絶対に成功せず、「恐怖の大王」がそこに生まれる。最後に、彼は宗教的な体験をして、全てを終え、人生にピリオドを持つつもりで、新しい旅へと向かうのである。
僕は、学校の数学は理性的な方法を教えるばっかりで、具体的な事例を教えていないと思う。
もっと具体的な世界にある知識や社会経験のことを教えた上で、数学的なことを教えれば、人は具体例から体得し、経験から原理を自分の手で見出すことができる。
本来、数学とは、具体例や経験から知を見出すようなものでなければならない。それが、古代の歴史のような、正常な数学のあり方だと、僕は思う。
理性的に考える前に、この世界のことを知り尽くして、さまざまな経験をしなさい。そこから、数学的な可能性を見出せば、きっと誰よりも賢い独りだけの数学者になれるだろう。
世界を自分の手で分析するならば、機会と手段を考えなさい。機会があれば実現が生まれ、手段があれば自分の手で実現できる。人生のことは、学習と場面から、相対的な認識と経験の関係を考えなさい。そうしたものから、数学的な正しさと論理が生まれる。経験から正しい考え方を創り出すことができるだろう。そのためには、豊富な経験と想像力に裏打ちされた感覚としての認識や理性や経験が必要だ。
2017-09-18に関連する内容があります。
論理的な考え方とは、まず、「それがそうである」ということから、「それがそうなるかもしれない」ことを知り、「それがいつどのようになるか」を考えること。
そして、「たぶんそうである」と考えることから、「そうなるはずだ」と考えること。
そして、「もしそれがそうなったとしたらどのようになるか」を知って、「実験」し、「想定」し、「推測」すること。
さまざまな可能性を試しながら、「それがそうなる場合」から、「それがきっとそうである」という場合における結論を知ること。
そして、その結論が、「いつどのように正しいか」を知り、「答え」を出すこと。
それが、僕の考える論理的な思考方法だ。
そのように考えていくと、全てを「解明」できるようになる。構造を作って、世界を貫く全ての原理と振る舞いを考えられる。
昔は、「環境」と「経験」を数学にしていた。何が環境を生み出し、環境の中で人々がどのように行動し、生活しているかを知ることで、「世界の全てを経験的に知る」ということをしていた。
また、哲学のような考え方を分かっていた。「理性批判」と「弁証法」から、世界のことを「たられば」で分かっていた。そして、「思考と精神」を考えることで、「世界精神」のことを解明していた。そうした哲学的な発想は、全て、数学的な「仮定と成立」から生まれるのである。
そして、人生のことを「成長」から分かっていた。人々と触れ合い、世界を知り、自ら思考し、行動し、失敗し、挑戦し、繰り返しやり直した。その中で、この世界における自分の「存在の意味」を知った。それが、僕の知った「人生の数学」である。
それが、もし、そのように「経過」して行ったとしたら、それが「どうなっていくか」を考えなさい。「思考を辿る」ことで、世界の全てを「意識の現象学」として分かることができる。また、「実存」を考えることで、「主観と客観を矛盾なく統合する絶対的理性」を知り、「ありのままの宇宙」を知ることができる。それもそれで、僕は「実存の数学」だと見なしたいと思う。
また、プログラミングは、「自動処理の中での抽象的操作」だと思えば良いだろう。
あらかじめ決められた「抽象的手順」の中でプログラムを作っていく。
文字列を操作するプログラムなら、どんな文字列を入れてもそれは思い通りの処理を行う。
その処理が「自動実行」であるなら、それは正しいプログラミングの結果である。
数学ができないのであれば、しなくて構いません。それは、数学はできない人間が賢いからです。
数学は、知性がつくように見えて、ついた分だけ知性を失います。細かいカチャカチャとした計算ができるようになった代わり、大局的かつ漠然に世界を考える「本当の理性」を失います。
そもそも、細かいことが何もできない人間の方が、おおざっぱなことができるものです。神経質でない人間は、楽観的に考えられます。
数学ができないなら、しない方が良いでしょう。プログラミングも同じです。できないなら、しなくて構いません。学校の勉強だけが生きる目的ではありません。
積み重ねや証明ができるのは良いことですが、それだけに確執することは良いことではありません。いくら若い頃の自分が輝いて見えても、それは幻想の産物にすぎません。若いころから馬鹿だった、だから数学に騙されたのです。数学ばかりやっていたから、逆に数学ができなくなったのであって、それは騙されていたのが分かったからにすぎません。
数学は、知性を失い、攻撃的になって、何も真面目に考えなくなります。それは、「数学的に考えるべきだ」という間違った考え方のせいです。本当は、数学的に考えなければ、ただ、あるものがあるだけの世界にすぎません。そういう人間の方が、きちんと何を考えるべきか、何を知っておけば正しい対処ができ、正しい考え方ができるのかが分かるのです。数学は理性でありません。数学以外のもの全てが、数学だけを消せば見えてきます。数学だけの人間よりも、数学のない宇宙全ての人間が賢いのです。
また、僕が数学ができないのは、パソコンが悪い。パソコンの方を先に知ってしまったせいで数学ができなくなっている。
本当は、数学的に考える必要はなく、仮定と結論から成立を考えれば良いだけである。そうすれば、数学が無くても、日本語で考えられる。
僕は、数学ができないのは、中学三年で不登校になった経験から、そもそも高校数学をやっていないからです。
本当のことを言えば、中学二年までは僕は秀才で、成績表もオールAでした。これは、ノートに教科書を写しながら、緑のペンと赤のシートで「マークチェック」を行う、試験勉強対策の暗記が得意だったからです。
なぜ得意だったのかは、おそらくピアノの影響だと思います。ピアノは、五線譜を見て鍵盤を弾きますが、この時指だけを見て弾くためにメロディを暗記しなければなりません。毎週のように暗記に取り組んでいたから、試験勉強ができ、勉強も得意でした。その代り、「学校の勉強には意味が無い」と思って、一人部屋にこもってパソコンをしていました。「OSを作る」という目標だけがそこにありました。
そういうわけで、勉強が得意な中学生時代、僕は数学が一番得意でした。数学だけは、試験勉強の暗記をしなくても、素の状態で90点台を取っていました。その理由はテレビゲームだと思います。テレビゲームでほとんどのプレステなどのゲームをクリアしていた僕は、何も教えられなくても、自分で考えて分かる力があったので、中学時代は数学が一番得意でした。
不登校になって、僕は得意な数学的能力を、パソコンのプログラミングの習得のために使い、また自分の日本語の力だけで思弁哲学者になったのです。好きなのは最初からUNIXとPerlでしたが、ブラウザを作りたいと考えていました。
また、走ることが好きで、持久力がありました。これは、小学校時代に駅伝の大会にでていた関係からです。練習のためにいつも1キロメートル走っていました。
試験勉強をやっていたことで、逆にネットゲームの上位に入るぐらい、高い知性がありました。その代り、ネットゲームがそのまま匿名掲示板になって、僕はそこからおかしくなったのだと思います。当時は、それが悪いことだと思わず、「大人になって自立した」と考えていました。ネットを見ながら成長し、Linuxの仕組みをネットだけで知ろうとしていましたが、実際は成長ではなく堕落だったのではないかと思います。今になって、ようやくLinuxやプログラミングの知識が増えていますが、逆に大人になったことで論理的な思考能力がなくなりました。人生は、そう、上手くはいかないものです。