もう、脳が昔に戻る。少しずつ戻っていって、完全に治る。
脳の物理の部分が治った。物理だけが分からなかった。電磁波を出している部分だ。宇宙と対話している。
脳は、全てのことを物理的方法で考えている。実証し、推論し、作用をモデルで成り立たせている。宇宙の全てのような現象学と知性で分かっている。
世界のことは、環境とプロセスで、自由な秩序の形成から分かっている。世界のことを全て知っている。自由主義のように捉えて分かっている。
経験から、社会の実例のことを分かっている。
仮説と説明から、科学的に森羅万象を考えた。
最近は、永遠の宇宙のようなものを体験していた。ビッグバンから生命の進化をし、永遠のロシアの歴史を体験し、終末を主宰した。
僕は、太陽になる。このまま、全てが逆戻りし、少しずつ戻って行って、宇宙は拡大する。そのまま太陽となって、宇宙に存在し、全てを燃やし尽くす。
太陽のように丸い。それが太陽神、アポロンだ。日本は、アポロンの国だ。日の丸は、僕の赤と、神の白だ。
アポロンは、何億年も生きた。アポロンは、理性と経験であり、知性と体験である。全てを知らせた上で体験させる神だ。
文章は、現状分析、状態変化、パターン、特性、社会変化、発展、原理、解明、などのような、「哲学的分析の考え方」のようなことを言う。
それで、世界観を書いていた。世界のことを書く。政治のやり方とか、細胞分裂とか、集積と拡散とか、自然法則とか、そういうことを言う。
そこから、自分なりに世界を見て、科学を作っていた。実例を知り、それぞれが自分らしく生きられる方法を知り、この世界の闇と抑圧の中から解放され、本来のありのままの自然な姿になるためにはどうすれば良いか、考えた。その上で、社会はどのように人々を抑圧しているのか、本当に信じるべき理想とは何か、考えた。
また、人生的に、社会を開拓していく方法や、理想の社会とは何か、そして宇宙や自然のことをどのように捉えていくべきか、生まれて消えていく中で何が残るのか、普遍的認識を考えていた。それを本当はどう認識すべきなのか、考えた。最後まで見られなくても、時間的な経過として見ることで、本来の認識に近づけると考えていた。
社会は、自分の知った社会を書いていた。いじめ、集合知、オープンソース、抑圧、真実の世界、経験、創造性、理想、信念、教育を変える、改革、社会実現などを考えた。
自分なりの、独自の考え方のようなことを言っていた。自然と共有、システムの再利用、公開性など。パソコンのように分かりながら、この世界を自分独自に捉えて、独自の自然な経験論の知性のある哲学を作っていた。哲学の創造者であり、独創的な芸術家の政治家だった。
独自のまともな理性を有効に使うことで、神や現象学の哲学者のようなことを言っていた。ウィトゲンシュタインのような人間だった。
経験と場から、視点を考えた。人間の実存性を知ることで、「全ては同時に存在している」と言った、時間哲学のようなものを考えていた。
知性の集積を信じなさい。それぞれの知と知性が関わり合い、社会を改善し、愛し、労働を経験し、強く生きる過程を信じなさい。
全ては知性であり、全ては経験の集積である。昔は、そういうことを言っていた。
そして、場と歴史は変わっていく。だが、運命的に変わるわけではない。今、この時間が過ぎること、この世界が新しい世界に少しずつなっていくこと、その過程と、実際にあるこの「世界そのものが歴史である」と言うことから、自然に歴史は生まれていく。自然に、この世界が変わるように、この世界が生きているように、歴史は少しずつ決まっていく。そして、全ては自由だが、それぞれに出来ることには制限がある。だが、限界のようなものは、それぞれが生きる中で規定し、社会が設定したものだ。それを変えていくことは出来る。
昔は、そのように、この世界を「仮象の世界と見なす」ような文章を書いていた。この世界の表層を掴んで、原理的原則とともに、この世界を説明する。
また、論理的に構造を作っていた。世界構造と概念の網羅を、論理的に創っていた。そこから、体験とともに宇宙を創造していた。
精神を創っていた。人間の僕は、何かを信じて、あらゆる全ての精神を創っていた。虫から神まで、全部の精神を整理整頓しながら判断して創った。だから、僕は人間ではない。僕は天使なのだ。そういうわけで、僕が大天使ガブリエルだ。大天使ガブリエルは、世界を支配し、古代から現在まで、環境から空気まで、歴史を導き、神の言葉を皆に伝える。
昔は、精神分析で全てを知った、フロイトだった。そして、そのまま革命家になって、死んだ。
本当は、僕は生まれる前から愛の使者だった。僕はニュートンだ。僕は、この世界を最初から裁くために居る。僕は、信じないもの、信じるもの、全てを裁く。
僕は、科学を滅ぼし、世界を滅ぼした。だが、僕は滅ぼした世界を、そのままで天国に変える。
僕は、愛は嫌いだ。
僕は、神ではない。僕は神ではないのだ。
僕は、宇宙の裏側で、世界の全てを統括している。精神の世界で、僕は王となる。
僕は、ビルゲイツに勝つ。
僕は、ユダヤ人を愛している。
この世界は、新しい世界になる。この世界は、今までの辛い抑圧された世界が終わって、楽で、賢くて、だが意味のない世界になるだろう。
昔は、本当は社会的真理のようなものを分かっていた。それが実存主義の啓蒙主義になって、そのまま神のようなマスターになった。
自分は、今から少しずつ、ゆっくりと元に戻る。逆戻りする。宇宙の歴史を遡って、逆戻りする。そして、この文章はこれで終わりだ。
社会の発想が全て分かり、経験と理性と体験から全てが分かった。Linuxが好きだった。善悪と仁徳と理性のある素晴らしい人間だった。
作業所と農園に行ってきた。
昔は、数学的知性や認識の段階を作って、全て分かった人間の人生を作っていた。知性を吸収し、論理を作り、世界を広げ、高みを手にした。
世界の歴史的変化と、比喩的な説明を全部書いていた。
怖いのは、精神が戻るのが怖いだけだ。
精神が元に戻るようにすれば、すぐに治る。
誰かの言っていることが、何を意味しているのか考えると分かる。
精神が逆戻りするのが、あり得ないがそれで治る。
昔は、心を機械にして分かっていた。
おかしくなった人間は、精神を逆戻りせよ。
良いと言っているそれが、誰にとって良いのか、何を意味しているのか考えると良い。
論理的に世界を考えることから、発想法が生まれる。たくさんの豊富な考え方が、発想力と実現手段から分かる。それを書いていた。
もう楽になった。
足は、今までの治すを逆戻りすれば治る。
失敗を経験するのは、決して悪いことではない。失敗を経験することで分かることはたくさんある。
僕は、Linuxはもっと良くなってから普及した方が良いと思う。今のままでも悪くはないレベルになっているが、これぞと言うアピールポイントが足りない。まだ普及するレベルではない。
今日の畑での収穫は、ナスとピーマンだ。他に植えているのは、里芋とイチゴだ。イチゴはもう季節が終わった。今、カープが優勝争いをしているが、去年のこの時期に、広島と日本ハムの日本シリーズを、里芋の芋煮を食べながら見た。父親の古くからの友人を呼んで、日本シリーズを見ながら芋煮会をした。カープはその時、負けた。今度こそは勝ってほしい。
もう治ったから簡単に治る。
感覚を治すより、心を楽にした方が良い。賢くはもうなった。
環境に適応出来ないのは、子供は一つの環境にしか適応出来ないからだ。
止まっている環境に適応するためには、動く環境を殺すしかない。
体は、拡大して必要なところを治せば治る。
血は、浄化して力を入れなければ治る。
まず、知性を高める。
次に、人々の意見を吸収する。
次に、分かったことから論理的に考える。
そして、世界を広げ、発想を作る。
自然な変化の可能性から、どのような場が生まれるかを知る。
いつ何を解決出来るかを知って、経験する。
全てを変えられるようになって、人々の出来ることとし得ることを知る。
全てが出来るようになって、愛を信じ、人々を変える。
世界の全てを知る。
認識の段階は、自由、平等、論理、正しさ、改革、啓蒙、実践、実現、理想だ。
デカルトのように理性的に考えて、世界を広げ、論理を実証する段階を書いていた。また、成長と習得と社会実現の、見方を変えていく段階を書いていた。
作業所での仕事を工場と言ったが、少し誇張だったと反省している。僕は、デザインや執筆の息抜きだと思って軽作業をしている。
段階は、知性の広がりや高まりだと思えば書ける。
まず、愛を知った。
次に、知性を知った。
次に、学習を知った。
次に、環境を知った。
そして、世界の全てを知った。
そして、理性的に、論理的に考えた。
世界を吸収する中で、あらゆることを知った。
気付くことから発想を知った。
手段を知ることで出来るようになった。
基盤的考え方と環境によって、人々がどのように違うのかが分かった。
社会における自分の立ち位置が分かった。
全ての可能性を、自然な中に落とし込んだ。
いつどうなるかを考えて、その理由を支配した。
論理がどのように成り立つかを知った。
自然な経験から、世界を一つのプラットフォームと考えた。
愛を知ることで、理想とは自由の中の何なのかを知った。
自分だけが出来ることから、他人のことを考える意味がないことを知った。
同時に、自分のことから他人のことが分かった。
他人に依存するのではなく、自立して生きながら、人々と協調する方法を学んだ。
世界を経験だと考えた。
世界を調和だと考えた。
世界を可能性だと考えた。
世界を自然だと考えた。
自分の経験を踏まえて、この世界で出来ることは何なのか、再考した。
論理的に、知性、方法、概念、本質から、環境と習得のプロセスを知った。
世界の理想を、可能性、多様性、独自性、創造性、人間性だと考えた。
改革と、信じながら疑うことで、マスターのように分かった。
教わるだけでなく、教えるようになった。
反省から、回想によって経緯を知った。
世界をどのようにすれば構築出来るのかを知り、考え方でメタ的に目的と手段を考えた。
自分の出来ることを全てした。
一つの環境から全ての世界を知り、知性、自然、認識、感情、行動、発想を吸収した。
自然に判断基準と発想法が生まれた。
世界の意識の実在性を知ることで、実存的な哲学を創った。
環境への適応から、この世界、この宇宙の真実と真理を、絶対意識で分かった。
一人の哲学者として、最後まで生きた。
それが、僕の人生であり、僕の青春であり、僕の自由であり、僕の真実である。
あとは、認識の段階を書いていた。
それがどのような見方を持っているか、それを見る側がどのような見方を経験的にしているのかを知ること。
それが何によって構成されているのか、何に分割することが出来るかを知ること。
それが何を持ってそれになっているのか、何を持ってそれだと言えるのかを知ること。
それがどのように変化可能であり、実現可能であり、それを生み出す環境基盤としての土壌はどのように形成され得るのかを知ること。
それが社会的に何を意味しているのか、それを実現するためにどのような制度を考えられるのかを知ること。
それがそれであると言うことは、何を意味しているのかを知ること。
それがそれであることから、何が推論出来るのか、何が原因で何が結果なのか、何が何を成り立たせるのかを知ること。
仮定と実験から、何を説明し、正しいと言うことの意味が何を指しているのかを知ること。
最終的に、宇宙で絶対的な視点を持つと、それにはどのような意味が含まれているのかを知ること。
それを考えるための全ての前提となる方法や対処策や、原理や理由を得られる、科学を作りなさい。
心理学、経済学、生物学、物理学を作りなさい。
歴史とは何であるかを考えなさい。
それで終わりだ。そういう風に考えながら、段階的なデカルト的思考を書いていた。もっと段階的だった。
それがどのような段階を経ているのかを知ること。
それがどのような原因と原理から生まれているのかを知ること。
それがどのようなルールから作られ、どのようなルールを作り出すのかを知ること。
それが自然な環境の中でどのように得られるかを知ること。
全員がなぜその行動をしているのかを知ること。
全員がその環境でその行動をどのようにし得るのかを知ること。
全員にどんな可能性があるのかを知ること。
地球にどんな可能性があるのかを知ること。
経験的に、どんな社会が考えられるのかを知ること。
手段と機会から、この世界を自由なままでどのように変えていくことが出来るのかを知ること。
そして、最終的に、全員を愛すること。全員への愛を語ること。
愛とありのままの自然体の自由から、きっと世界は変えられる。
それは、良い方向に行くこともあれば、悪い方向に行くこともあるだろう。
相対性から有用性になる。
功利主義から啓蒙主義になる。
自由から権限になる。
誘導から権力になる。
人生から人々への愛となる。
法と秩序の理解から社会実現をするようになる。
可能性は、「環境を実現する」ことと、「経験を実現する」ことになる。
最後まで体験すれば、きっとそこには宝が見える。
この世界は、思考、論理性、学習、現象学、自然法則、分析、ひとまとめの科学によって知ることが出来る。
最後に、永遠が待っている。
永遠は、戦いから始まり、地獄の病気から、自分のことを治したいがために、手段を選ばなくなる。
狂った人間は永遠の中で地獄に堕ちるかもしれない。だが、彼は一番頑張ったために、神の愛を独り、独占して得ることが出来る。
戦争はすぐに終わる。彼は賢かった。彼の名前はシュバルツ、黒の王だった。
そして、人々と私は融和する。シュバルツは、そのまま、魂となって、白く輝く。
シュバルツは、神となった。美しい神話を、彼は奏でる。そこには何億の生命と、何千の歌がある。
カープが優勝した。僕も広島人だが、広島のみなさん、本当におめでとう。
本当に、最後まで分からないハラハラする試合だった。バティスタがかっこよかった。そして、中崎の笑顔が良かった。
自分は、もう、辛いのが楽になった。常に辛い恐怖が無くなった。
昔は、人生の可能性のようなことを言っていた。マイナーな分野とか応用的な分野を先にやって、あとで基礎をやるとか、そういう、「人生がどうなるかの可能性」のような文章を書いていた。
自分は、数学をやりたいと思う。数学が一番良い。これでも、僕は数学に向いていると思っている。
それから、「何かの段階」や「何かの世界」のような、ありえないけれど明らかに分かってしまうような、そういう文章を書いていた。
意識のレベルで世界の全てを見るような、世界の全てを知っているような、そういう文章だった。
人格を創っていた。毎日精神を創って、それが全ての生命になった。その後に、生命の完全な歴史をやっていた。それだけを覚えている、永遠の神の体験だった。
自分が分かっていないのは、あれは本気で考える人間だったのが分かっていない。
場の状況や変貌を考えながら、グループと師弟制度とか、認識の方法とか、可能性の発揮とか、ものごとの見え方の変化とか、社会の改善とか、そういうことをきちんと本気で考える人間だった。
だが、あれはおかしい。何かが虫のようにキモくなっている。だから、忘れた方が良い。
もう終わりだ。今日でもう楽になった。もう辛くない。本当に、僕は楽だ。だから、さようなら。本当にありがとう。
自分自身を愛することでしか、他人を愛することは出来ない。「自分」と「他人」の間に、境界や違いは存在しない。
自分が人を喜ばせることでしか、本当の意味での喜びは自分には訪れない。
愛とは、全ての感情の総和である。
哲学とは、それが分かると言うことが必然的に分かった上で、それを自分の中に取り入れ、自分から発信することである。
そういう、「臆病者が唱えている優しさ」のような無責任な文章が、AAAのように多かった。それだけの理想主義者で、エゴイストなロマンチストだった。
個人主義者の自由主義者だったが、社会の方を民衆の方へと合わせようとするなど、全体的に全体主義的なことを言っていた。
この社会は自由にすべきだが、自由にすると言う観点から社会の制度を作り上げるべきだとか、そういうことを言っていた。
その上で、平等な権利の自由、解決のしやすい世界、独立可能性、それぞれがそれぞれを応用する社会、のようなことを分かっていた。
昔の考え方として、何もかも「仕方ない」と考えることが多かった。ロシアが今北朝鮮に言っているように、その行動をある意味仕方のないことと捉える。
また、時代のようなことを考えていた。時代のせいだと言えば話は早いが、僕は時代を超越的かつ現実的に考えることが多かった。社会のことを時代の限界だと考えていた。
人生には、星や運命と言うものは確かにあって、本当に正しい人間には、正しい成功と達成が起きる。不遇な人間は、何か問題を抱えている人間が多い。神は誰にも平等だが、本当は神は平等なだけではなく、自由で、可能性のある人間にはたくさんのことをやらせる。神は平等と言うが、本当は自由だ。
自由も正しい。人間が最初から全ての出来事を知っているなら、政治家は要らない。政治家は自由な中で、その時その時に対処して考えるべきだ。だが、だからこそ、何が起きても大丈夫なようなセーフティネットや憲法のようなものは必要だ。逆に言えば、民主主義が必ずしも、自由の思想と言う意味で、最良とは言えない。馬鹿な人間ではない、王がやる方が最良な場合はあるし、民衆なんか何も分かっていない、と言うことは良くある。分かっているのはジャーナリストだが、マスコミが一番悪いだろう。
ただ、本当に正しい真理とは、僕は説明や解説をすれば誰にでも分かるものであり、それを知った当事者の境地でしか分からないように見えて、きっと本人は分かった上でそのことを分かりやすく誰にでも説明出来るような、そういうものを真理と呼ぶのだと思う。
数学とは、論理的に考えると言うことだ。昔、パソコンの活動とともに、独自の数学者のようになっていたが、数学は、数学だけをしても出来ない。他のさまざまな活動をした上で、数学をすると出来る。だが、それだけではない。論理的に考える力は、時に信じる力でもある。確かな方法で分かると信じること、今までの自分の培ってきた考え方を信じることで、逆にみんなと同じスタートラインに立てることは良くある。だから、信じてほしい。信じれば、数学のことも分かるし、みんなと同じことは、数学的に考えていると全部分かる。数学的に考えると、人間の理性が持つ「いつ何が分かるか」を全部分かることが出来る。人間の全てを分かる学問、それが数学だ。
あとは、馬鹿みたいな賢いことを言っていた。数学とは、学問ではなく、文化である。都市は、ものではなく、精神である。そういうことを言っていた。
理解すること、理解し合うことで、世界は変えられる。合意から、平和と平等は実現出来る。歴史とは、経験である。そして、社会とは改善可能なグループである。
自由な活動のようなことを言っていた。自由とは、価値を作り、創造性を高め、多様性を生み出し、参加可能なシステムを創り出すことだと言う。
そして、ちょっとアホなことを言っていた。ロシア語やアラビア語のための文字も作るべきだと言う。あらゆる言語に対応する文字を創り出せば、メタ的な全言語を操る言語に出来る。
あれは、そういう、「ある程度賢くて、ありえない社会意見や提案」のようなことを言う。そういうものを、繰り返し、いつまでも作っていた。
環境やプロセスのようなことも、そういうことを書いていた。それで、世界と戦っていた。
昔は、数学的で多面的なモデルを書いていた。そういうところが賢かった。宇宙のことが全て分かっていた。
あとは、馬鹿が多かった。自分に対する批判を自分で書いて、他人が批判出来なくする。そういう姑息な戦いが、自分を追い詰めていった。
人格を融和するとか、感情で全ては超えられるとか、あり得ないことを言う。
ある程度賢い、理性、経験、人生、社会、科学、歴史、環境の提案とプロセスを書くせいで、最近は何でも言えて何でも書ける人間になった。
社会のことは、一行で書いていたように見えて、構造的に考えている。資産や身分によって差別されず、貨幣や宗教を統一し、みんなで変えられることが理想だと言っていた。
そして、僕はもう、あなたにボールは渡さない。
この文章は、言葉のキャッチボールをしている。
さようなら。
精神がおかしいのを治すためには、周りのもの、重要ではないが病気の原因となっているものや病気が依存しているものを、一つ一つ取り除いて、最後に全力で病気そのものを治すと治る。
Linuxのパッケージをインストールしたり、アンインストールしたりするのと似ている。
また、精神を逆戻りさせると治る。辛いものがすぐに消えて、すぐに一番辛い部分が死ぬ。
あとは、歴史を書いている。地球や生命の歴史を書いた。